【7】「お願い」 1
キスの後もしばらく抱きしめあったままだった。ずっとこのままでもいいけど、どうしようかな、と少し迷って駅員さんの胸に顔を押し当てたままあの、と呟く。あれを見なかったことにして駅員さんから話してくれるのを待つことだって出来た。……けど。想像以上に駅員さんに対しては我慢がきかない。
「実は今日、テレビ観ました」
「テレビ?」
「……樹くんとコンサート」
あ! という顔をして、駅員さんは片手を離して自分の顔を覆い口ごもった。駅員さんが困った顔って、可愛いかも。そう思って少しだけ溜飲が下がる。でもダメだ。今日は引かない。そっと足一歩分駅員さんから離れて、わざと不機嫌顔で見上げる。
「ゆっくり話を聞こうじゃないですか」
「——はい」
なんだかちょっとだけ申し訳なさそうにしょんぼりする様が、まるで大きいわんこみたいだ。
わたしは必死に笑いを噛み殺した。いやいや。ここで笑っちゃ駄目。もうちょっとくらいわたしに連絡をしてくれなかったことを悪いと思ってくれないと。ずっと心配したし、怖かった。嫌われるよりも何よりも。——駅員さんに何かあったんじゃないかって。だって駅員さんに何かあっても、わたしには連絡は来ない。それを考えるととても怖かった。二人を繋ぐものがこんなにも脆い細い糸のようなものだということに気づいて。
「実は携帯奪い返したのがさっきで。まっすぐここに来たんです」
「へ?」
奪い返した? ……いったいどういう環境にいたんだろう。まるで拉致監禁でもされてたみたいだ。わたしがそう言うと、駅員さんは「近いです」と苦笑した。
「ええと、じゃあ、その……少しはわたしのこと気にしてくれてました?」
うわあ、この発言重い? 言ってすぐちょっと後悔する。でも駅員さんは引くどころか「少しどころか毎日ですよ」と笑って再びわたしを抱きしめた。ああ、もういいや。全部許す。いや、許すとか上から目線で何様だって感じだけれども。
「そうだ。お腹空いてます?」
「あ、いえ」
「じゃあ何か飲みますか? お酒だったらビール、日本酒、ワインならありますけど」
正直、ビールって言われたら困るなと思った。わたしも駅員さんもテンペストのせいで舌が肥えている。駅員さんも同じ気持ちだったのかもしれない。
「……じゃあ、日本酒で」
「冷やですか? 冷酒? 熱燗?」
幸いうちには両方の種類が完備されていた。
「熱燗、かな」
「ですね。内側からあっためないと、風邪ひいちゃう」
抱きしめ返した駅員さんの身体は随分冷えていた。じゃあ待ってて下さいね、とクッションを渡してソファに座って待っていてもらう。
よいしょ、と一升瓶を取り出して、二合入る徳利に酒を注いだ。考えて、とりあえず二本。勿論この常備されてる日本酒は一人で飲むために買ったわけじゃない。時々遊びに来る女友達はみんな酒豪で、一升瓶でなければあっという間になくなってしまうのだ。燗をつけながら、板わさと明日のために作っておいた出汁巻き卵と乾き物を用意する。とりあえずそれを持っていくと、駅員さんはソファに身体をあずけてうたた寝中だった。
疲れてるんだ。それでも、わたしのところに真っ直ぐ来てくれたんだと思ったら嬉しくなった。
「うわあ、無防備」
熱燗はどうするんだ。飲んじゃうぞ。幸い四合くらいなら一人でも楽勝だし。——駅員さんの寝顔みながら、か。うん、いいかも。極上の肴ではありませんか。いそいそとぬる燗と熱燗のちょうど中間あたりのそれを持ってくる。じゃ、一杯、というところで携帯がなる。駅員さんを起こしたくなくて、表示も確認しないですぐに出てしまった。
「はい、もしも……」
「真哉を返せ馬鹿女!!」
のっけからこの暴言。……藤間樹だ。こめかみあたりがぴくぴくしそうになりながら、台所に移動する。なんで知ってるんだろう、わたしの番号。ひょっとして駅員さんのを勝手に見たとか。……ありえる。駅員さんにかかって来ないところを見ると電源切ってるのかもしれない。これを見越して。
「どちらにおかけですか?」
「黙れ意地悪女!! お前の家教えろ!!」
教えたらどうするんだ。押しかけて駅員さんを連れ戻すつもりか!? この勢いで? ありえない。
「イヤ」
怒鳴りつけたくなるのを堪えて、そのままぷつ、と通話を切る。するとまたすぐに電話が震えた。
うわー、しつこい。
「真哉を出せッ!!」
思わず盛大に吐き出しかけたため息を飲み込む。誰もこの子に電話の応対とか、目上の人間に対する口の利き方とか教えなかったんだろうか。教えたけど早々に諦めたんだろうか。……後者かな。
「……十七にもなってなんなの? そんな口の利き方で世の中自分の思い通りになると思ってるの? 誰かに人にお願いする方法学びなおして来た方がいいかもね」
再び切る。ああ、むかむかする。新年早々縁起悪ッ。どれほど有名な音楽家か知らないけど、何でも許されるなんて思うなよ。そしてまた携帯が鳴る。次は電源を切ろうと決めて、電話に出た。
「——真哉は」
切っちゃうぞ、と思うほどの物凄い沈黙のあと、ぽつりと聞こえてくる。トーンは落ちたけど、それでも全然人に頼む物言いではない。でも多分これがこの子の限界なんだろう。よっぽど知らないといってやりたかったが、そうするとこの坊ちゃんは何をするかわからない、と考え直す。
「疲れて寝てるけど」
だから取り次がないからね、というニュアンスを暗にこめる。ほんの微かに、息を飲む音が聞こえた。
「……どうせもうすぐお前と真哉は離れ離れだ。今のうちにせいぜい仲良くしてろッ!!」
さらにたっぷりの沈黙のあと、ぶたれるようなそんな言葉と共に今度は向こうが電話を切った。どういうこと? もうすぐわたしと駅員さんが離れ離れ? なんで? なんだかわけがわからなくて、よろよろと部屋に戻る。お酒には手をつけず、駅員さんを見つめた。
嘘に決まってる。わたしが二度も一方的に電話を切ったから、嫌がらせであんなことを言ったに違いない。
でも。こんなにも不安になるのはどうして? 起こして、聞いてみればいい。きっと笑って「嘘です」って言ってくれる。——言ってくれる、よね? 信じてる。けど。結局わたしは怖くて駅員さんには指一本触れることすらできずに、ただ見つめることしかできなかった。どうしよう。わたしは多分途方に暮れたまま、随分長いこと食い入るように駅員さんを見つめていたのだと思う。やがてその視線に気づいたようにぴくりと瞼が震え、駅員さんが目を開いた。
そして目の前にいたわたしにびっくりしたように目を見開く。
「咲紀、さん?」
ああ寝ちゃってたのか……、と駅員さんはちょっと申し訳なさそうに頭を掻いた。
「眠いなら寝ちゃってもいいですよ? 今、布団出しますから」
「いえ。大丈夫です」
そそくさと立ち上がりかけたわたしの腕を優しく掴んで止める。そのままわたしの顔を覗き込んだ。
「なにか、あったんですか?」
「え?」
「泣きそうな顔してるから」
そんな顔、してる? ぎくりとして自分の指先で自分の頬に触れる。どうしよう。聞く? さっきのこと。それとも待つ? こんな気持ちで?
一瞬だけ迷って、口を開く。
「……え、と。さっき……樹くんから電話が」
「え!? そうか。あいつ勝手に……。すみません」
着信拒否、して下さいと本気でいうのがなんだかおかしい。わたしは改めて、少しぬるくなってしまったお酒をお猪口に注いで駅員さんに差し出した。わたしからお銚子を取り上げ、わたしにも注いでくれる。かちり、と触れ合わせてからくーっと、景気づけみたいにあおって、そして駅員さんを見つめる。
よし。
「真哉さん」
「はい」
「どうしてコンサートに出ることになったんですか?」
詰問口調にならないように。それだけを気をつけながら聞いた。駅員さんも同じようにお猪口を空けて、ちょっとだけため息をつく。わたしは再びお互いのお猪口にお酒を注いだ。
「実はあれは代役の代役の代役で」
へ?
「代役、の、代役……の、代役?」
「樹は本当なら別のヴァイオリニストとの出演が決まっていたんですが……、」
と、駅員さんはそこでわたしでも知っている若手人気ヴァイオリニストの名前を挙げた。
「直前で揉めたらしくて」
さもありなん。誰に対してもあの態度なのだろう。喧嘩になるなという方が無理だ。
「それで急遽別な人物に声をかけたものの、これもまたうまくいかなくて」
ああ。目に浮かぶようだ。そもそもあの子とうまくやれる人のほうが珍しいに違いない。そして駅員さんはその希有な一人。
「あの性格ですからこんな時期に無理を言えるような心当たりもなかったようで」
だろうとも。わたしが仲介者だったとしてもちょっと紹介できない。
「それで、僕の師匠筋から依頼が来たんです。それが先週。何度も断ったんですが」
「本人が来て、拉致られたんですね?」
「だけじゃ、ないですけどね」
余程駅員さんにとって恩のある人の息子さんなわけだ。樹くんは。断りきれなかったんだろう。責めたいわけじゃなかった。吃驚しただけだ。それに。
「……素敵でした、よ?」
ちょっとしか、観てないけど。一瞬だったけど。贔屓目抜きですごく輝いてた。駅員さんはくすぐったそうに、少し困ったように微笑む。
「ありがとうございます」
「ひょっとして……駅員さん、やめちゃうんですか?」
「えっ?」
まるでわたしの言葉が理解できなかったみたいな顔をして、二人黙ったまま見つめあった。その張りつめた瞬間をふっと緩めるように駅員さんが笑う。
「まさか」
それでそんな顔を? と呟きながら、駅員さんはわたしの頬をそっと撫でた。くすぐったい。
「樹が何か余計なことを言ったんですね」
「そ、それは……ッ」
しまった。ここでいいえって言ったってなんの説得力もないだろう、わたし!
「あの……どこにも行かないなら、いいんです」
笑った瞬間、不覚にもぽろっと涙が零れた。
「咲紀さん」
「あ、あれ? なし! これはなしです! なんだろ。今日はなんだか涙腺が緩くて」
こんなに不安だったんだ、わたし。どうして自分の涙腺なのに、勝手に涙が出るんだ! ティッシュを掴んで半笑いで拭う。だって、もう嫌だ。わたしが何も知らないうちに遠くへ行ってしまうなんて。どうして自分には一言もなかったのだと思い悩むなんて……。
そんなわたしを駅員さんが引き寄せて、抱きしめた。
「嬉しい、と言ったら怒りますか」
「……何が嬉しいんですか」
「咲紀さんが、僕がいないと寂しいと思う気持ちを見せてくれたことが、かな。貴女は一人で我慢してしまいそうだから」
「……寂しい、ですよ。自分でもびっくりです」
「どこにも行きません」
そう言って、駅員さんの唇がわたしのこめかみに触れる。
「ずっと咲紀さんのそばにいます」
この時点で、わたしたちはまだ舐めていたのだ。一般大衆というものを。そして、藤間樹を。
*+*
えーと。
背中には駅員さんの胸。でもって、体育座りしてるわたしの両脇には、膝を立てた駅員さんの長い足。つまり。わたしは駅員さんの足の間にちょこんと座ってるような状態で。なんだかやたらとどきどきして、気を紛らわせるように手の中にあるお酒をちらりと舐めた。
とうに涙は引っ込んでいる。
まるで恋人同士みたいだ、と思って、いやいや、恋人同士でしょわたしたち、と脳内訂正する。だったら遠慮なくもたれかかればいいと思うのに、まだどこかでブレーキがかかる。いちいち思い出すのもなんだけど、今まで一線を越える瞬間ってどうだったかな。なんか、流れで、ってのが多かった気がする。イイ感じになって、なんとなく付き合いだして、付き合ったんだからキス。でもって心の準備がどうとか言う前にがっついた相手がなんとなくわたしを押し切って、みたいな?
で、今は? お預けされてるの、むしろわたしの方なんじゃないだろうか。無防備な寝顔も見たし、何もなかったけど一晩を共にした。何度も抱きしめられたしキスもした。今だって、お酒のせいだけじゃなく顔も身体もなんだか熱い。
どきどきしてるの、わたしだけ!?
見た感じ、駅員さんはいつも通りの駅員さんで。ちょっとだけ悔しい。猫がミルクを舐めるみたいにお酒を口にしながら、ふと駅員さんの手が目に入った。大きくて、綺麗な手がわたしの目の前に。——無意識にそれに触れた。
「……ッ」
ぴくりと駅員さんが反応して、わたしがのけぞるように見上げると困ったような駅員さんの顔があった。既にお銚子は二本とも空いていて、残りはお互いのお猪口に入っている分だけだ。駅員さんは自分のそれを空けると、ことりと机に置く。そして、わたしの持っていたお猪口も取り上げてあっさりと飲み干した。
「え、と」
何か言いかけたわたしの言葉を遮るように、少し乱暴なキスが頭上から落ちてくる。のっけから容赦のないその口付けは、わたしの余裕のなさも駅員さんの余裕のなさも見事に露呈していて、なんだか妙にくすぐったい嬉しさが込み上げた。
「なに?」
小さく笑ったわたしに気づいて、キスが一瞬途切れる。その不思議そうな問いかけにわたしはううん、と呟いて駅員さんの背中に両手を回すように抱きついた。
「幸せだなって」
僕もです、と駅員さんの甘い声が耳に響いて、そのまま耳を甘噛みされて背中をぞくりと物凄い勢いで何かが駆け上がる。息が上がるほど愛撫され、そっと壊れ物でも扱うようにベッドに横たえられたその時、見上げるとそこにあったのはいつもの優しい駅員さんの顔じゃなくて。
妙に色っぽいオトコの顔で。それだけで全身が甘く痺れた。気がつけば顔の両側に彼の腕。そのまま上体を屈めるように再び唇を封じられる。
「……、ン、」
堪えきれずに声が漏れた。駅員さんの唇が、鎖骨に、首筋に触れてゆく。外されたボタンの間から、冷たいくらいの手が差し込まれて瞬間ぴくりと身体を震わせた。
「ごめん。冷たい?」
「……ううん。……気持ちいい」
だって、身体が熱い。恥ずかしい、と思っていられたのも少しだけで。何度も波にさらわれそうになりながら、だんだん何もわからなくなってゆく。
なんだか、大声で泣きたいくらい幸せだ。大好きな人に抱かれることが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。
「……ふっ、あ、…ぁん……ッ」
溺れる。
何度も喘ぎながら、必死で駅員さんにしがみついた。
「真哉、さ……ッ」
「もっと、呼んで」
「ぁ、……真哉さ、ん」
何度も、駅員さんの名前を呼んだ気がする。
「〝咲紀〟」
微かに聞こえたその声を聞きながら、わたしは目も眩むほどの幸せに包まれた。




