【7】「お願い」 2
ざあああああ……ッ。
——水音が聞こえた。最初、雨の音かと思った。
目を覚ますと、部屋には日の光がさしこんでいて。遠くできゅ、と水音を止める音が聞こえる。シャワー? んー、と布団の中で寝返りをうって、自分がシャツしか着てないことに気づいた。しかも。シャツ? これ、誰の? ぼんやりと思ったところでお風呂場の中のドアが開く音が聞こえて、一気に覚醒する。
駅員さん!!
ひいいい、このシャツもそうだ。つまりこれっていわゆる——彼シャツ!? いやいやいや、そんな甘いこと思ってる場合じゃない。なぜだかわたしがこれを着て寝てたせいで、きちんとプレスされていたはずのシャツは皺だらけだった。ええと、これどうしよう。駅員さんは着替えがないはずだ。これ渡さなきゃ。えーと、えーと。起き抜けで頭がよく動かない。そうだ、わたし着替えなきゃ。
のろのろと身体を起こして、ぺたりとベッドの上に座りこむ。ふと手を伸ばした。
「……おっきい」
着やせするんだな、駅員さん。やせて見えるのにやっぱり男の人だ。袖から手が出ないし、裾は膝の少し上。ああ! アイロンかけよう。そう決めて、ふあ、とあくびをしたとき部屋のドアが開いた。
「おはようございます。咲紀さん」
「お、おはようございますッ」
「すみません、勝手にシャワー借りました」
「ど、どうぞっ!」
なんだか恥ずかしくてとっさに布団にもぐり込む。ああッ、駄目じゃん!! シャツがますます! ううう。それでも顔ぐらい洗いたい。何で先に起きなかったんだわたし。後悔してももはや後の祭りだ。
そんなわたしを駅員さんが布団ごと抱きしめる。
「顔、見せて下さい」
「だッ、駄目です」
猶予を下さいーっ、と泣き言を言ってみるけど、無情にも駄目です、と駅員さんは楽しそうにわたしと同じ言葉を返して容赦なく布団を剥いだ。
「ひーどーいーっ!!」
「……可愛い」
そう言いながらくすりと笑い、往生際悪く再び布団を引き寄せようとしたわたしの手を遮って、そのまま朝にしては少し濃い目のキスがやってくる。下はズボン穿いてるけど、上半身は裸で。昨夜手探りで感じた意外にも筋肉質なその身体を目の当たりにする。
「すごい、腹筋綺麗に割れてる」
「駅員も楽器やるのも、意外と体力いりますからね」
ぎゅっと抱きしめられて、お互い顔を見合わせてとろけるように笑った。
「時間忘れそうです」
「ああっ!! お仕事何時からですかっ」
「あと一時間弱。……残念」
言いながら、駅員さんの顔がわたしの首筋に沈む。
残念!? 残念ってなにがですかーッ!!
「十分!! 十分時間下さいッ」
抜け出すにはものすごく惜しいその温もりを解いて、急いでコーヒーをセットして、着替えとポーチを掴んでバスルームに飛び込む。10分でシャワーを浴びて、服を着て、薄化粧。これは最短記録じゃないだろうか。
出ると丁度よくコーヒーがおちていて、マグカップに注いでTシャツを着た駅員さんに手渡した。
「ミルクとコーヒーは?」
「いえ。このままで」
「シャツ、すぐにアイロンかけちゃいますから」
「そのままでいいですよ」
一度家に戻って着替えますから、と言って、飲んだカップを置くと駅員さんは問答無用でわたしの手からさっさとシャツを奪い取り、着てしまう。うわあ、やっぱりくしゃくしゃ。
「でも」
なおも言いつのろうとしたわたしの口を塞ぐ、殺人的な威力を持つセリフを吐く。
「……咲紀さんの匂いがする」
一気に体温が上昇した。朝からそんな色っぽい顔でなんてことをッ!
「わ、わたし、どうして駅員さんのシャツ、着てたんでしょう!」
「……昨夜咲紀さんがそのまま寝ちゃったから、着せるものが他になくて」
「あ、ああっ、その、ごめんなさい」
そうだ。パジャマは引き出しの中だし勝手に探すタイプじゃないもんね。駅員さん。あああ、それにしても恥ずかしい。色々と!
「どうして? もう少しくらい堪能したかったのに」
「へ?」
「これを着た咲紀さん」
くい、とシャツを摘んだその様子が本当に嬉しそうで、こっちが照れてしまう。
「……ッ、それは、また今度」
冷静に、なんて無理だッ。いっぱいいっぱいの顔で言っただろうわたしを駅員さんが柔らかに微笑んで見つめる。
「楽しみにしてます」
ああ、もう。ダメだわたし。頭の中も身体も溶けたバターみたいになってしまった気がした。
「今日は、夜勤?」
「ですね。随分無理を言ったので当分休みなしです」
それを聞いたわたしの顔にはきっと〝寂しい〟と大きく書いてあったんだろう。くすりと笑われた。
「寂しいですか」
「そ、んなことッ」
「僕は寂しいです」
どうしてそんな、ものすごい口説き文句をそんな平気な顔で……ッ。
残ってたコーヒーを飲み干して、片手で緩くわたしを抱きしめる。その温もりに、匂いに安心する。してしまう。やだな。なんだか弱い女になったみたいでちょっと戸惑う。どこまで近づいていいの? どのくらいの距離なら許されるの?
「電話します」
「……はい」
別れ際の寂しさは前回の比じゃなくて。抱きしめられた温もりとか、唇の感触とか、いつまでもバカみたいに思い返してる自分をすっかり持て余してしまった。
しゃんとしろ、わたし。
その言葉をわたしはその日一日何度も呟いた。
*+*
四日。
最後のお正月休みの日、わたしはなぜか九重先生と一緒に喫茶店で向かい合っていた。うんざりするほどにこやかな九重先生を見つめてため息をつく。——せっかくさっきまでいい気分だったのに。
新春セールで行きつけのお店の狙ってたワンピとカットソー、新しいボトムやバッグや靴なんかを50%から70%引きで手に入れて、ついでに本屋さんに寄って好きな作家さんの新刊を手に入れた。さっさと帰ってにやにやしよう、と思ったところでばったりと会ってしまったのだ。なにやら嫌な感じに困った顔をしていた九重先生と。
「あれえ、咲紀ちゃん! いやー。偶然っ。これってひょっとして運命の出会いだよね」
絶対違う。そう思っても顔には出さないのが大人というものだ。
「……明けましておめでとうございます。九重先生」
「うん。おめでと。……やだなあ。智巳って呼んでって言ったじゃない」
「は?」
いつ?
「もう、咲紀ちゃんは照れ屋さんだなあっ。あ、荷物持ってあげるね」
有無を言わせずわたしから戦利品の数々を奪って、にっこりと笑う。これは、なに? ご乱心? 面食らったわたしを放置したまま、いきなり歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってください!! どこへ……ッ」
肩越しに振り向いて、口元に人差し指を立てる。
黙ってろ、ってことですか。
「お茶しない?」
余裕綽々。これまで断る女の子なんていなかったんだろうな。だが断る!
「しません」
「いや。咲紀ちゃんは断らない」
はっきり断言されて反応が遅れた。
「え?」
「これどういうこと!?」
そこにいきなり怒りに満ちた女性の声が割ってはいる。怒ってるけど、怒ってる顔でも美人だ。スーツが似合う感じの大人の女性。ブランド物のコートにバッグ。見た感じセレブなオジョーサマだ。……って、あれ? なんだかこの人見たことある、ような気がする?
その鋭い視線は九重先生と、なんと、わたしに向けられていた。待って、この状況すごくまずいんじゃ。
「今日はわたしと約束してたでしょう!?」
ヒステリックに、それでもやや声のトーンが抑え目なのは育ちの良さのせいなのか。まあ、残念ながら充分目立ってますけどね! わかりやすく九重先生は自分のものである、と主張するその眼差し。なのに当の九重先生はまったく平気そうにしれっと言い放つ。この人神経どうなってるの!
「約束なんてしてないよ。それに今日はダメって断りのメールちゃんと入れたでしょ? だいたいいつもドタキャンするのは君の方なのに、オレがしたら許せないなんてちょっとズルイと思わない?」
「だって、それは……ッ」
九重先生は女性を振り返り、にっこりと微笑んだ。なぜか背筋がぞっとするような、綺麗な笑みで。そして、そのまま残酷な言葉を突きつける。
「うん。仕方ないよね? 悪いけどオレさ、今彼女に夢中なんだ」
はっ!? 九重先生は荷物を持ってないほうの腕でわたしを抱き寄せた。
「こ、ッ」
九重先生ッ! と叫びかけたわたしの耳元に、あろうことか〝余計なこと言ったら今すぐここでキスしちゃうよ〟という囁きが落とし込まれて固まる。……多分この人は本気でやる。咄嗟にそう感じた。
バカな!! 悪魔かこの人は! それがいちゃいちゃしているように見えたのだろう。目の前で綺麗に口紅の塗られた彼女の唇が怒りに震える。
「わたしに飽きた、ってわけ?」
「ううん。この子に本気になっただけ」
周りの人がみんなめちゃめちゃ見てますッ! そして彼女の視線がものすごくイタイですっ! ああっ、すぐさまここから走り去りたいっ! 九重先生を殴り倒して。でも優男に見えるのにわたしを押さえる九重先生の手はびくともしなかった。
「彼女のこと恨むのはナシにして? オレが一方的に想ってるだけだから」
彼女の美しい顔がはっきりと歪む。この顔は多分泣くのを我慢している顔だ。
叫びたい。ここにいる男は大嘘つきだと!
「——わかったわ」
きゅ、と唇を噛んで、くるっと背中を向けてモデル並みに綺麗な歩き方で去ってゆく。それを呆然と見送って、わたしは九重先生をキッと睨んだ。事と次第によっては土下座だけじゃすまさない。
九重先生はそんなわたしにまったく悪びれた様子もなく肩をすくめてみせた。
「お茶、する気になったでしょ?」
説明するから、ってことなんだろう。わたしは苦い吐息をついた。
「奢りですよね」
「もちろん。咲紀ちゃんの仰せのままに」
ここでさっさと帰ればよかったのだとわたしが激しく後悔したのは、それから三十分後のことだった。いつもはおいしいクレームブリュレがこんなにも味気ないのは間違いなく九重先生のせいだ。
本当ならすごく美味しいであろうアールグレイを一口飲んで、〝で?〟と目線で促す。
「そんな怖い顔しないで。ね?」
可愛い顔が台無し、なんてやっぱりホストかこの人はってなセリフを平気で言う。ここまでの経緯でわたしが怒ってないと本気で思ってるのなら九重先生の頭の中は空っぽなんだろう。
「じゃあちゃんとさっきの説明してください」
「んー」
九重先生はへらりと笑って、ケーキのお代わりいる? とか聞いてきた。
「いりません」
「あ、そ。でもね、そんなに気にしなくてもいいんだよ。彼女にはちゃんと旦那がいるんだから」
「えっ」
思わず大声を上げかけて、寸でのところでトーンダウン。
「え、と、じゃあ」
「うん。人妻ってこと」
そういう口調には悪びれた様子はない。
「……なんでそういう人と……」
付き合うかなあ!? 人にはそれぞれ事情というものがあるから、そもそも口挟まない主義だけど、こんな風に一方的に利用されるみたいに巻き込まれるのはごめんだ。
「あ、ひょっとして旦那さんとうまくいってなくて、とか」
「ううん。旦那はエリート代議士で、今もらぶらぶ」
「じゃあ九重先生が入る余地ないじゃないですか」
「うん。そう思ったんだけどね」
〝入っちゃったから〟とにこやかに笑う。
え? 今の受け答え、変じゃない!? わたしの戸惑いに構わず九重先生は続けた。
「咲紀ちゃんはわかんないかなあ」
イヤな感じだ。ざらりとしたもので肌を撫で上げられたみたいな。
「あるんだよ。そういうの。全部満たされてても満たされない何か、とか」
「は!?」
「咲紀ちゃん、彼氏がいるのに他の男、気になったりしたことないの?」
「ありません」
そりゃあ、友達の話では時々聞く。彼氏の愚痴を相談してたら、そういうことになっちゃった、とか。わたしにはとても信じられないけど。そもそも今のわたしは目が駅員さんしか追わないし、そもそも駅員さん以外を考える余地がない。一人でもいっぱいいっぱいなのにこれ以上なんて絶対無理だし考えたくもない。
ふーん、と感心したんだか呆れたんだかわからない相槌が聞こえてくる。
「そっかあ。幸せな恋愛しかしてこなかったんだねー。あるいは、お綺麗な恋愛ごっこ? 教科書通り、みたいな?」
ムッとした。今日の九重先生は変だ。まあいつも変だけど……あえて人を傷つける言葉を選んでる気がする。
「そんなこと、九重先生に言われる筋合いはないと思いますけど」
立ち上がりかけたわたしの気配を察したのか、九重先生の手がわたしの手を掴んだ。
「放してください」
もう本当に後悔していた。そもそものこのことここまでついて来たのが間違いだったんだ。
「ねー咲紀ちゃん、オレの彼女にならない?」
「なりません」
いい終わらないうちにきっぱりと言い切って、手を振りほどく。九重先生は、だよねー、とにやりと笑った。
「咲紀ちゃん彼氏できたんでしょ。相手はあの夜の駅員さんかな」
「だから、なんですか」
「うん。オレさ。……咲紀ちゃんのこと可愛いなーって思ってたけど、ホントにそれだけだったんだ」
なにが言いたい。
「でも、人のモノになった咲紀ちゃんには興味ある」
「……はあッ!?」
ちょっと待って。わたしの耳、おかしくなっちゃったのかな。今九重先生何ていった?
「ホンモノの愛なんて信じてる?」
「——悪いですか」
自分の恋が本物かどうかなんてわからない。だけど、今好きなのは駅員さんだけだ。
「ううん。咲紀ちゃんには信じてて欲しいんだ。……だから、試していい?」
ぞくり、とした。駅員さんのときに感じたような甘い痺れでも、金田のときの恐怖でもなく。目の前にいる人が全然知らない人に変わった、みたいな。わたしの知っている九重先生は……ニセモノだったんだろうか。ううん、あれだって本当の九重先生のはず。
「試す、って、なにをですか?」
「咲紀ちゃんの本気」
これ以上、聞いちゃ駄目だ。嫌な予感に咄嗟に首を振る。今の九重先生は暗い闇のようだ。しかも底なし沼。
「駄目ですイヤですお断りしますっ」
「うーん。そんなに嫌がられると却って燃える」
「唯史ちゃんに言いつけますよ」
「恋愛は自由だって、言うと思うけど?」
「唯史ちゃんはそんなこと言いません。……どうしてわたしなんですか」
他にもいる。にこにこには他にももっと美人さんが。
「知りたい?」
やめてくれないかな。まるでわたしが九重先生に興味があるみたいに。
「どうでもいいんですけど。……わたしで何か試したり、遊んだりするの不愉快です」
「うん。そういうとこ、かな。真っ直ぐで、綺麗な感じ。汚したくならない? 雪が降ったときの真っ白な地面とかさ」
「比喩が変ですよ。しかもなんか変態的です」
「うん。多分ね」
にこりと笑うこの顔はいつもの九重先生で。直前までの会話は嘘だったのかな、なんて思う。
「だからひと月、ためさせて。咲紀ちゃんがオレを見るかどうか」
「ヤです」
「いいよ。勝手にやるから。咲紀ちゃんがオレを拒み通せば咲紀ちゃんの勝ち」
「それ、わたしに何かメリットあるんですか」
「メリットは関係ないよ。オレがそうしたいだけ」
「迷惑ですッ」
「安心して。強引に抱いたりとかしないから。オレそういう男大っ嫌いだしね」
充分これだって強引なんじゃないの? 頭が、おかしくなる。話しているうち世界がぐらりと揺れるような感じがする。九重先生は何を言ってるの? 何がしたいの? 何が望みなの? にやにやと人を食ったような笑みを一瞬でかき消して、真面目な表情に変わる。
「信じさせて欲しいんだ。この世には揺るぎない本当の愛情があるってことを」
「九重先生……」
「なーんてね。じゃあ明日からゲームスタート。頑張ってね。咲紀ちゃん」
「お断りします!」
咄嗟に荷物を掴んで、自分の分のお金だけをおいて店を飛び出した。何だったんだろう、今の。まったくわけがわからなかった。
幸い乗ってすぐに電車が発車した。ドア近くにもたれて、流れてゆく景色をぼんやりと見つめる。自分の駅が近づいてくるにつれ、だんだん頭の中がはっきりしてくるのがわかった。それに比例して沸々と小さな怒りがわいてくる。理不尽だ。九重先生は最低だ。
あれだけ唯史ちゃんが信頼しているんだから、いい人だと思っていたのに。女をなんだと思ってるんだろう。——あの、何の感情も窺えない目を思い出す。九重先生に過去なにがあったのかは知らない。知りたくもない。でも、こんなやり方が間違ってることだけは確かだ。人を試すなんて、最低。
無意識に歯を食いしばっていた。
負けるもんか。あの様子だとわたしが断っても勝手にゲームを始める気だろう。棄権ができないのなら勝てばいい。もともとわたしはしつこいほど一途な質だ。唯史ちゃんはわたしの中でずっと特別で、その間別な男の子に告白されても小揺るぎもしなかった。ま、片思いは楽だからという考え方もあるけれど。進展しないかわりに傷つくこともないから。
ため息を一つついた。
逸れてしまった考えを戻すべく、肩からずり落ちてきた荷物をかけなおす。……このこと、駅員さんに話す? でもこれってわたしがしっかりしてればいい話なんじゃないの? わざわざ言って、駅員さんを心配させることはないのだ。逆の立場でも、もしわたしがそんなこと聞いたら、多分ずっと心配するだろう。——たとえ、駅員さんを信じていても。
だから、話さないのが正解。自分でなんとかする。
でも。金田くんの時は誰にも相談できなかったから、ああなったんじゃないの? 厳密に言えば江ノ上には言ったけど。
はー。どうしよう。とりあえず唯史ちゃんには相談しようかな。唯史ちゃんなら九重先生が伏せている何かも承知しているかもしれない。相談、しにくい部分はあるけど。ひょっとするとゲームを強制終了させてくれるかも。——ぐちゃぐちゃ思考をこね回している間に、降りる駅のアナウンスが耳に入ってくる。ドアが閉まりかけたところで慌てて飛び降りた。
「危なかったー」
危うく乗り越すところだった。しっかりして。しっかりしてわたし。
「お帰りなさい。咲紀さん」
ホッと胸を撫で下ろしたところへ、苦笑気味の駅員さんの声が聞こえて顔を上げる。
「真哉さん。……ただいま戻りました」
「買い物ですか?」
大漁ですね、と荷物を見て笑う。
「バーゲンの時は女の子は意外と力持ちになるんですよ」
欲しい本だったら何冊でも買っちゃうし、長時間歩くのも平気だし。家に着いたらどっと疲れが押し寄せてくるけど。でも今は妙な疲れに襲われてる。九重先生のせいで。
いきなり駅員さんが身を屈めてわたしの顔を覗き込む。
「なにか、ありましたか?」
「ええっ!? ど、うして?」
「……なんとなく」
どうしよう。多分動揺を隠せてない。駅員さんの心配顔に、わたしは目をそらせずに逡巡した。そんなわたしの迷いを見透かしたように駅員さんが先に口を開く。
「咲紀さん、夜、時間ありますか?」
「え? あ、はい」
「どこなら、話しやすいですか?」
どこなら? 問いかけられるまま考えかけて我に返った。……はッ! 気がつけば話すことになっている。くうっ。恐るべし栗生真哉。どうしよう。でも隠し事はしたくない。わたしも、されたくないから。
「……じゃあ、テンペストで」
「わかりました。仕事が終わったら迎えに行きます」
「お店で待ち合わせでもいいのに」
「また僕に同じこと言わせたいですか?」
——心配だから。ずるい。そんな風に甘く笑われたら反論できなくなる。
「すみません、まだ仕事があるので」
「ううん。仕事中なのにごめんなさい」
「気をつけて」
あとで連絡します、という声に見送られて家に向かう。敵わないなあ。少し悔しくて、でもそれがなんだか心地いい。
さて。どうすれば駅員さんが心配しないように今日の出来事を説明できるだろうか。
今度は別なことで頭がいっぱいになってしまった。




