【4】「誘ってる?」 2
じゃあね、と津田ちゃんと別れて電車を下りると、一気にキツイ疲れを感じたのは間違いなく江ノ上のせいだ。あの奢りだけじゃ全然足りなかった。どうしてくれようか、あいつ。こういうとき、男女の友人関係が成立するのかどうか、とかいう永遠のテーマについて考えてしまう。——成り立つ、と思いたい。もちろん、最初から友人なんかには絶対思えない人だっているけど。
例えば。と思った瞬間には具体的な顔が浮かぶ。
「お帰りなさい」
その筆頭の声に顔を上げると改札にいたのは駅員さんで、「ただいま戻りました」と、改札を通りながらへにゃっとした笑いを浮かべる。あー、わたし絶対お酒臭い。ガム噛んだけど! 飴も舐めたけど! 臭気は胃からやって来る……。オトメ的にはちょっと今は距離を取りたい。話したい気持ちは山々だけど。
「飲み会だったんですか」
「そうです。ごめんなさい。お酒臭いですよね」
つい手で口を覆う。
「いえ? 気にならないですよ」
そんなはずないし。あ、そうだ。きょろ、とあたりを見回して誰もいないことを確認してから小声で問いかける。
「放送、私用に使っていいんですか?」
正直とても嬉しかったけどちょっと心配だ。駅員さんは大丈夫ですよと鷹揚に頷いた。
「該当者が少なかっただけで、あれは業務の一環です」
目が、悪戯っぽく笑う。後ろから来る人の気配を感じて邪魔にならないように避けたその時、背後から声がかかった。
「咲紀」
振り返って、びっくりする。今ここにいるはずのない人だった。
「唯史ちゃん。……どうしてここに?」
「心配だったからね。咲紀の部屋は電気がついてなかったから、一応来てみたんだけど」
「過保護すぎ」
「合コン、って聞いたからね」
「あれは……ッ」
「津田さんの、だろう? わかってるけど」
なんともいえない表情で微笑む唯史ちゃんを見るとわたしまで何も言えなくなる。
「彼? 例の駅員さん」
ハッと我に返って振り返るとこっちを気にしている様子の駅員さんとばっちり目が合ってしまって。何だか泣きそうになる。
「あ、の!」
何を言うつもりだ? わたし。
従兄です、って? まあね。でも、ただの従兄じゃないよね。駅員さんです、って? そうだけどでも、ただの駅員さんじゃない。そこではた、と青ざめる。この状況、わたし結構ひどい奴なんじゃない? 両天秤、とかいうんだろうか。いや、でもどっちともまだ何も始まってないし! ってこれ、ただの言い訳? アウト? セーフ? わかんないよ。でもやらかした気持ちで一杯だ。
「なんて顔してるの」
くしゃっと笑って、唯史ちゃんの手がわたしの頭を撫でる。そこへ、最後の客が途絶えてひと段落したらしい駅員さんがやって来た。
「初めまして。咲紀の従兄で新堂唯史といいます。先日は咲紀が危ないところを助けて頂いたようで、ありがとうございました」
保護者らしく、唯史ちゃんの手がわたしの肩に回る。いつもは安心するはずのその重みが今はほんの少しだけわたしを苛立たせる。苛立たせる……? どうして。この手は唯史ちゃんなのに。
「いえ。当然のことをしただけですから」
「それでも、助かりました。咲紀は叔母からの大切な預かりものですからね」
どうしてだろう。二人ともにこやかなのにこんなにもいたたまれない空気なのは……ッ! わたしのヨコシマな想いのせい? でも、ただの従兄の行為にしては行き過ぎてる、と思うだろう普通。わたしが十代の女の子ならともかく、もう成人してるんだし。でも唯史ちゃんが心配したのは本当だろうから、わたしは口を挟まずに黙ってそれを聞いていた。
「今日は遅くなるというので迎えに来たんです。心配で」
「そうですか」
「また改めて御礼を」
「それは気になさらないでください。彼女に何もなくてよかったと思っているのは私も同じですから」
駅員さんの言葉にはいつもどきんとさせられる。その言葉は駅員さんとして? それとも。思わせぶりは困る。ホントに。
「そうですか。じゃあ、行こう咲紀。送るよ。車を回してくる」
「ん。降りたとこで待ってるね」
駅員さんに〝失礼します〟と会釈して車を取りに先に行く唯史ちゃんを見送ってちょっとだけため息をつく。ここで何を言っても言い訳だよなあ。
「新堂さんはあなたのことが好きなんですね」
一番指摘されたくないことを指摘されて、ぴくりと肩が震えてしまった。ゆっくりと駅員さんを振り返る。ここで違うと言えば、間違いなくわたしはズルイ女だ。
何も言えずに俯いたわたしに、駅員さんは続けた。
「でも、咲紀さんに何かあったら心配なのは確かだから」
携帯かしてくれますか? といきなり言われて、何で? と思いながらも言われるままそれを差し出すと、駅員さんはすばやく番号を打ち込み、発信できる状態でわたしに返した。
「僕の番号です。……何かあったらいつでも連絡してください」
いつでもいいですから、と駅員さんは言った。本当に優しい人だ。わたしは泣きそうになりながらそのまま発信を押した。
「……わたしの番号、登録しておいて下さいね」
「咲紀さん」
あんまり素直な顔で嬉しそうに笑うから、こっちが恥ずかしくなってしまう。
「お、おやすみなさい」
唯史ちゃんを待たせていることを思い出して、慌てて駆け出す。その手を緩く掴まれて肩越しに振り返った。
「かけても、いいんですか」
「……どうぞ」
上擦るな、わたしの声!
「おやすみなさい。咲紀さん」
「おやすみなさい」
名残惜しそうにその手が離れたと思ったのは、わたしの願望だったのかもしれない。
降りていくとすぐに唯史ちゃんの車がやってきて、待たせなかったことに少しホッとした。遠慮なく助手席に乗り込んでシートベルトをする。
「ありがと唯史ちゃん。でも車でうちなんてすぐに着いちゃうよ?」
まさにあっという間だ。
「じゃあ、このままドライブにでも行く?」
「ドライブかあ。……でも、もう遅いし遠慮しとく」
ドライブに行くのに適切な時間だとは到底思えない。夜明けの海とか綺麗だろうなと思ったけれど、それにはまだ随分時間があるし、何よりツライのはわたしじゃなくて運転手だ。それにこんな気持ちのまま唯史ちゃんとドライブに行っていいものかわからないし。
「明日は休みだから構わないよ」
そう唯史ちゃんは言うけど。うーん、と考えて、やっぱり首を振る。
「駄目。唯史ちゃん疲れてるでしょ」
「僕が疲れてるから? 駅員さんに悪いんじゃなくて?」
少し意地悪っぽい囁き。でも唯史ちゃんとどこかに行くなんて今までさんざん普通にあったことだし。ああ、でもそれは唯史ちゃんから離れる前だったか。ちょっと酔ってるからって色々迂闊かもしれない、わたし。
何て答えたらいいかわからなくて、困ったままそろりと唯史ちゃんを見つめた。
「……ごめんつまんないこと言った。じゃあ明日ドライブしよう。迎えに行くから」
すぐには答えられなくなる。どうしよう、という思いばかりが頭の中を駆け巡って、言葉が出てこない。だってわたし酷くない?
「あのね、唯史ちゃん」
ぽん、と唯史ちゃんの手のぬくもりが、頭に乗せられた。わたしの言葉を遮るように。
「何もしないから。咲紀に避けられるほうがツライ。従兄と普通に出かけるって思ってくれていいから」
すぐに遠ざかっていく唯史ちゃんの手を視線だけで追って、頷いた。
「うん。……ごめんね」
謝るわたしに、唯史ちゃんは前方を見つめたまま問う。
「そのごめんは何に対して?」
「……とりあえず、今日は心配かけてごめんなさい」
わたしは早く答えを出すべきなのだ。なんとも思っていないのなら江ノ上みたいにきっぱり断れるんだから。こんなにも迷うのは唯史ちゃんはもちろん昔から、そして駅員さんのこともわたしの中ではもうとっくに特別になっているから。
やっぱりズルイ。
「着いたよ」
「あ、うん」
やっぱり車ではあっという間で。思考は中途半端に中断してわたしの胸にわだかまりを残したままだ。のろのろとシートベルトをはずして、車のドアを開ける。
「咲紀」
「ん?」
降りる直前に呼びかけられて振り返ると、すぐ目の前に唯史ちゃんの顔があった。えっ、と思う間もなくその唇が重なろうとしたその時。——わたしの携帯が鳴った。その音に、一瞬一時停止したかのような二人の身体。引いたのはどちらが先だったのか。
わたしの手の中にあったままの携帯にはさっきの番号が表示されていた。駅員さんだ。
ええと、今の、なに。
「出ないの?」
それは数コール続いて、消えた。
「唯史ちゃんの……嘘つき」
携帯を見つめたままぽつりと呟く。
「何が」
「なにもしないって言ったのに」
「それは明日の話」
ごめんね、って聞こえた気がした。謝るくらいならするな、と思うけどそんな思いとは反してどきどき惑わされてるわたしがいる。このどきどきは驚いたから? それとも……。
「明日の約束、イヤになった?」
「なった、っていったらどうするの?」
胸の中がもやもやしすぎてわざと素っ気なく言ってしまう。
「そうか。どうしようかな」
自分の顎に片手をあてて本気で困ってる唯史ちゃんに見えないように少しだけ笑った。憎めないあたり、唯史ちゃんの人徳なんだろうか。それともわたしの中に未練がましく残っている想いのせいなんだろうか。それにしても……何か……。違和感。
「ね、唯史ちゃん、今の、本気だった?」
「……どうかな。ごめん」
そのごめんは、なんのごめん? でも唯史ちゃんの表情はそれ以上聞いて欲しくなさそうだったから少し考えて、引いた。
「未遂だったから許す。じゃあ、また明日ね」
そう言って、答えを待たずに車を降り、ドアを閉める。そのまま振り返らずに部屋に戻った。ズルイわたしを自覚するには充分な一日だった。もう少しでキスされてた。不可抗力と言えばそれまでだけど、このパターンには覚えがある。わたし、ひょっとして隙がありすぎるんだろうか。——たかがキス、されどキスだ。
Q:わたしは、誰とキスしたい?
部屋に戻ってぺたりと床に座り込む。絶対最近のわたしどきどきしすぎだって! 心臓に悪すぎる。——でもやっぱりさっきの唯史ちゃんはなんだか変だった気がする。どこが、といわれるとよくわからないけど。圧倒的にわたしの恋愛経験値が足りなさすぎる。
そして握り締めたままだった携帯を見つめた。助かった。今の自分が流れやすいとわかってるからこそ今は流されたくない。そうは言ってもキスされたくらいで選ぶほどチョロくはないはずだけど、気をしっかり持て、わたし。両手で思いきり自分の頬を叩く。
えーと。かけ直したほうがいいよね。でもまずは気持ちを落ち着けよう。着替えてから、冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を飲む。もう時間は遅いけど、どうしよう。待ってるかもしれないよね? じいっと携帯を睨むと、まるでそのわたしの視線に怯えたかのように携帯が震えた。
「はいっ、もしもしっ!」
あまりにも素早く気合の入った声を上げたわたしに、小さく笑う駅員さんの吐息が耳に響いてくる。
「先ほどはどうも、かな」
苦笑を含んだそれに恥ずかしくなる。
「こちらこそ、……すみません」
「何がです?」
何がって……、えーと、何がだろう。唯史ちゃんは保護者として駅員さんにわたしを助けてくれたお礼を言っただけだ。たとえそこに何らかの含みを感じたとしても。
「……さっき電話とれなくて」
「ああ、さっきのはちょっと、フライングです」
「フライング?」
「嬉しくて指が滑った」
「そうなんですか?」
「……どうかな」
わざと、なら少し嬉しい。わたしと唯史ちゃんがいるのを気にしてくれたのだとしたら。
「遅い時間に、すみません」
「帰って来たばかりだし、大丈夫です。駅員さんこそもうお仕事終わったんですか?」
「僕も今家に着いたところです」
「もう? じゃあ駅から近いんですね」
「寝に帰るだけですから、駅に近いほうが便利でしょう?」
どの辺なんですか? って聞くのは自然な流れ? なんてことを思うからタイミングを逃す。ホントわたしって流れに身を任せた楽な恋愛しかしてこなかったんだなあ。
「もしもし? 咲紀さん?」
「うあ、はいっ」
「電話迷惑じゃなかったですか」
「まさか。嬉しかった、です……う?」
しまった。わたし調子に乗って迂闊なこと言ってる?
「疑問形?」
また笑われて慌ててとりなす。
「いえ。嬉しいです」
「よかった」
電話の駅員さんの声は普通に聞くよりも少し低くて少し甘い気がする。
「咲紀さんの声、いいな。安心する」
「ええっ!?」
同じこと考えてたんだって、少しどころではなくどぎまぎする。
「……そんなこと言われたことないです、けど」
「本当に? 低くて柔らかい。耳に優しい声だと思うけど」
……こ、これは、普通に口説かれるよりも、どきどきするッ。
「ところで、僕は〝駅員さん〟に逆戻りですか?」
はっ。わたし、駅員さんって呼んでた? 無意識だった。
「ごめんなさい。ついうっかりです」
「よかった。じゃあ、また」
「おやすみなさい……。真哉、さん」
ほんの少し、間があって、ふっと緩むような気配がした。
「おやすみなさい、咲紀さん」
電話を切った後も、夢見心地だった。何度も会話が脳内で勝手にリフレインする。気持ちが勝手に舞い上がる。電話を切ったばかりなのに、またもう声が聞きたくなっていた。




