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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
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【3】「声を聞かせて?」 3 



 頭の中にさっきのカルメンがエンドレスで回ってる。情熱的で忘れられない音が、ぐるぐるぐるぐる。


 手を引かれながら〝なんで?〟の言葉しか浮かばない。このヒトはただの駅員さんじゃないの? そりゃあ、普通じゃないほどカッコいいし、会ったばかりで何も知らないけどそれでもさっきあそこにいたのは、わたしの全然知らないヒトだった。


 不意に立ち止まって、駅員さんが手に持ったままだったわたしのコートを肩にかけてくれた。荷物は渡してくれない。……人質ならぬ物質のつもりなのか。そうして、やがて小さな公園に入り、街灯のあるそのベンチに導かれるまま腰を降ろす。しばらく静かな間があって、駅員さんはわたしに頭を下げた。


「すみません。あのままあそこにいたらもっとイヤな思いをさせてしまったでしょうから」


 さっきのか。ハイソなセレブとの未知との遭遇。駅員さんが悪いんじゃないのに。


 ため息をついて、隣りに座る駅員さんを見るわたしを、困ったように見返して来る。何かを請う眼差し。言いなよわたし。〝虫除けだったんですね〟とか〝びっくりしちゃいました〟とか〝素晴らしいヴァイオリンでした〟とか。いくらでもあるでしょう。〝全然気にしてません〟って、言え、わたし!


 笑おうとした頬が引きつる。開こうとした唇が強張る。少しだけ駅員さんの表情が悲しそうに歪んだ。


「すみませんでした」


 深々と頭を下げて、そして真摯な眼差しがわたしを射る。ほら。ぐずぐずしてるから困らせちゃったじゃない。バカ! 何か言おうと思うのに、どうしてだか泣いてしまいそうだった。出ない言葉の代わりに頭を小さく横に振りながら視線を落としたわたしの手に、そっと駅員さんが触れた。貴婦人にキスするみたいにわたしの手を持って、切なそうに目を眇める。


「声を聞かせて。……咲紀さん」


 初めて駅員さんがわたしの名前を呼ぶタイミングが今なんて、ずるすぎる。ますます顔が上げられない。


「咲紀、さん?」


「……駅員さん、真哉さん……ヴァイオリン、やってたんですね」


 ようやく出た言葉は少し掠れていた。駅員さんがホッとしたように息を吐いたのがわかった。


「はい」


「あんなに上手なのに、ヴァイオリニストに、どうしてならなかったんですか?」


 諦めて駅員さんになったという腕ではなかった。あれは神に選ばれた人の音だ。もう少し続けていたならどっちのリサイタルかわからなくなっていただろう。それくらい特別な音だった。


「ならなかった、というか……その、演奏家だった時期はあります」


 やっぱり。さっきの駅員さんはライトを浴びなれている人のそれだった。むしろあの場所が本当の駅員さんの居場所なのだと思ったくらい。


「でも僕の夢は駅員になることだったから」


「……嘘」


「本当です」


 駅員さんという職業を下に見るわけじゃないけど、あれはあれでなりたい人がいっぱいいる人気のある職業だと思うけど、えーと、この駅員さんに限っていえばそれは宝の持ち腐れっていうんじゃないだろうか。もしくは世界の損失。駅員さんを殺してでもあの能力を奪いたいって人はいっぱいいるだろう。


 でも怖々顔を上げたわたしの目の前で浮かべる笑顔は、わたしの大好きなほんわかした優しいそれで。本気で言ってるんだって、わかった。


「どう、して?」


「両親とも音楽家で、僕は小さいころからヴァイオリンばかり弾いてました」


 小さいときの駅員さんも可愛かったんだろうなと咄嗟に考えてしまったわたしも相当だ。


「ずっとヴァイオリンを弾くことが当たり前だったけど、それが本当にやりたいことなのかと言われると、はっきりそうだという自信がありませんでした」


 普通なら贅沢な悩みだと言われるだろう。溢れんばかりの輝く才能を持ちながら、なぜ迷う必要があるのかと。平凡なわたしも残念ながらそちら側の人間だ。


「僕は負けず嫌いな人間で、うまく弾けないとよく泣いたんです」


「……意外、ですね」


 イメージとしては次から次へと難しい曲をサラッと弾いてしまえたのかと思った。そうじゃないことを知って何となく少し嬉しい。


「はい。ヴァイオリンを投げ捨てたくなることもしょっちゅうで、そんなことしたくないからそんな時はいつも電車を眺めに行ったんです」


 それだけで気持ちが落ち着きました、と本当に好きなんだなという顔をする。


「親について海外のあちこちに行ってましたからね。たいてい駅の近くだったから色んな電車を見ました。……中でも夕方の電車が好きで、降りて来た人が改札を出てなんとなくホッとしたような顔を見るのが好きでした。どこかに帰り着く、というのが羨ましかったのかもしれません」


 小さな駅員さんが一人で駅の改札で通り過ぎる人たちを眺めているのを想像すると何となく切なくなった。寂しかったんだろうか。今ならぎゅっと抱きしめてあげられるのに。


「どこの駅だったかもう忘れてしまったんですが、滞在中駅員さんがとても親切にしてくれたことがあったんです。その人は休み時間には僕を肩車しながら電車の説明を楽しそうにしてくれました。お客さんともすごくフレンドリーに会話をする人で、みんなが楽しそうで、色んな人に必要とされてるのが格好良くて、初めてこんな人になりたいと思った。単純ですよね……でもいつの間にか僕も駅員になりたいという夢を抱くようになったんです」


「駅員さんになることに躊躇いはなかったんですか?」


「全くないと言えば嘘ですね。……でも、ヴァイオリンは趣味でも弾けるけど、駅員は趣味じゃできないから」


 一瞬言葉を失う。それは、まあ、そうだけど。駅員さんの演奏で盛り上がって楽しくなって、みんなが必要としたと思うんだけど、それは駅員さんの望んでいるものではなかったんだろうか。


 もっとも駅員さんが駅員さんじゃなかったら、多分こうして出会うことはなかったんだろうけど。きっと周りの人はもの凄く反対したんじゃないだろうか。多分さっきのソリストも。今も多分納得してないんだろう。


「すごく、反対されましたよね?」


「それは……ええ、とても」


「でも、駅員さんになったんですね」


「ええ。僕にとって大切な夢でしたから」


 大切な、夢。——どうしても譲れないもの。すごいな。駅員さんはすごい。お互い顔を見合わせて破顔する。次の瞬間駅員さんが肩を落としてはーっと息を吐いたのを見てびっくりする。


 え、どうしたの!?


「よかった。咲紀さんが笑ってくれて」


 まさかそんな答えが返って来るとは思わなくて、たじろぐ。


「ご……ごめんなさい」


「いえ。悪いのは僕です」


 そうかな、と考えてそれもそうだと一人頷く。今日はもうドキドキさせられっぱなしだ。少しは恨み言をいってもいいだろう。


「そうですよ。びっくりさせすぎです。それに、意外と平気で嘘つくし」


「嘘?」


 いつつきました? と駅員さんが首を傾げる。可愛い、なんて思ったのはスルーだ。


「ついたじゃないですか。あの二人に」


「あの二人?」


 考えるような間があって、ああ、と呟く。


「ついてませんよ」


「だって、」


 わたしのこと。


「正直に言っただけです」


 手が、まだ掴まれたままだ。それを目線まで上げて、わたしの手の甲に触れるか触れないかのキスをした。


「咲紀さんは、僕の大切な人ですよ」


 爆弾が、破裂したみたいだった。緩く掴まれているように見える手は動かない。言葉を見失ってぱくぱく、と口を動かす。冗談なの? 本気なの? これ、駅員さんにとっては普通の出来事なの?


「け、けど」


 そんな風に思われるほど駅員さんはわたしのことを知らないはずだし、わたしだって駅員さんのこと知らない。


「会った回数じゃありませんから」


 これがもし口説き文句じゃないのなら、恐ろしい男だ栗生真哉! どこまで本気にしていいのかわからない!


「……ひょっとして真哉さん、イタリア人だったりします?」


「いえ? 両親とも日本人ですよ」


「わたし……男の人からこんな風にされるの慣れてないので勘弁してください」


「慣れてない?」


「慣れてません! て、手にキスとか、初めてですから……!」


 あいつとは手だって殆ど繋がなかった。甘い言葉なんてなかった。だから嬉しいんだか恥ずかしいんだか困るんだか逃げたいんだかなんなのかわからない感情の海に襲われる。


 駅員さんは少し考えて、いきなり掴んだままだったわたしの手を引いて、ベンチを立たせた。


「少し遅くなってしまいましたが食事に行きましょうか」


「え? あ、はい」


「このままだと、咲紀さんの別な声を聞きたくなるから」


「……は?」


 一瞬だけ艶めいた眼差しをわたしに向けて、さっさと駅の方へと向かう。


 別な、声? ——別な声って? それはつまりと考えて、いきなり体温が上昇する。繋いだ手が汗ばんでしまうんじゃないかとどきどきした。


 振り返らないで。


 勘違いだったら恥ずかしい。


 赤くなった顔はどうやったら元に戻るのだろうかと必死になって考えた。

 




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