【3】「声を聞かせて?」 2
翌日、本当なら何もなかった日曜日。わたしは朝からそわそわしっぱなしだった。よく眠れなくて早く目が覚めて、午前中は昨日出来なかったシーツを洗濯したり、シャツのアイロンがけをしたり、今週分の常備菜を仕込んだりした。お昼のあとは本を読みかけたけど結局集中できなくて早々にやめた。時間が経つのが妙に遅い。
そうだ。何を着ていこう。
リサイタルってなに? コンサートとは違うの? 何着ていったらいいの? クローゼットを全開にして、うーん、と悩む。駅員さんはどういう服が好きなんだろう。ロマンチック系? スタイリッシュ系? それとも……? ってか、こんな気合入れて誰かと出かけるの、いつぶりかな。ふと浮かれてる自分に気づいてため息をついた。
ちょっと舞い上がり過ぎだ。急に恥ずかしくなる。それでもあれでもないこれでもないと選んでるうちに時間が結構経っているのに気づいて焦った。さっきまであんなに時間ゆっくりだったのに! どうしよう!
「あ、そうだ」
あれ、どこだったかな。がさごそとクローゼットの奥を探し、隅っこにあったまだ袋に入ったままのそれを取り出した。オフホワイトのモヘアのニットワンピ。季節柄まだ早かったのと、勢いで買ったはいいけどちょっと可愛すぎ? とか思って放置だった。それにこれはもともとあいつとのデートのために買ったものだったから。……なくなったけど。
じっとそれを見つめる。
「服に罪はないし、もったいないし」
どうせ新しい服を下ろすなら、特別な日がいい。裾からレースの見えるロングのキャミソールの上にワンピースを着る。少し短めだから厚手の黒のタイツ。
「やっぱ、可愛すぎ、かなあ?」
くるっと鏡の前で回って、悩む。いや。なら尚更今着ないといつ着られるかわからない。両サイドの髪を無造作にとって、後ろで白いレースのシュシュで束ねた。濃すぎない程度のメイクを何度もチェックして、忘れ物がないか確認する。全身が映る鏡を見て、よし、と頷く。
ワインレッドの内側がレースになってるフードのついたロングコートを羽織った。バッグとロングブーツは黒だ。時間は三時半。早すぎだろうか? だけど家にいても落ち着かない。早すぎたら本屋にでも行けばいい、と家を出る。
わたしは、あの人が好きなんだろうか。それともこのシチュエーションに酔っているのだろうか。それでも、デートの誘いを断らない程度には駅員さんのことを知りたいと思っているのだ。
案の定駅には早く着きすぎて。本屋に寄ってはみたものの、本のタイトルは全部頭を素通りした。こんなんで今日大丈夫なの? わたし。浮かれる心を戒めるようにゆっくり歩く。落ち着け。冷静になれ。このままじゃうっかり何かやらかしても不思議じゃない。
考えてみればあいつのときはこんなどきどきふわふわはなかった。常に自然体で気取らないですんだとか、楽だったとか色々言いようはあるけど大好きからはじまったんじゃない恋は、ときめきとかを通り越していつの間にか一緒にいるのが自然って感じになったっけ。あれはあれで恋だったんだと思うけど。
改札に辿り着くと、丁度駅員室から駅員さんが出てくるところだった。
「あ、駅員さ……」
ふわり、とこちらを向いた瞬間、思わず息を飲んだ。黒いロングコートに、フォーマルなスーツ。
え、フォーマル!? 聞いてませんけど!
文句を言おうとしたけど、その素敵さに立ち尽くした。なにこれ。カッコよすぎ。そこだけまるで別世界みたいだった。高級ファッション誌からそのまま抜け出て来たみたいな。着慣れてる、なんてレベルじゃない。輝いてる。……駅員さん、何者?
凝視しているわたしに駅員さんが気づいた。そのままこちらにやって来て「よかった。来てくれて」と、にっこりと笑う。周囲の女性の視線独り占めだ。慣れてるのか本人は全然気にしてないようだけど、わたしの方が何だか居たたまれない。
「咲紀さん?」
「来ないと思ってたんですか?」
「いえ。来てくれると思ってました」
考えてみればメアドはおろか電話番号すら知らないのだ。もっとも昨日までは名前も知らなかったのだから当然か。軽く教えて欲しいと言えばいいのに、こちらから聞く、というのは何となくがっついてるみたいで変なプライドが邪魔をする。そういえば今まで自分から聞いたことないや。これは、タイミングを逃すと難しい。今日聞けるかな。あ、今ひょっとしてチャンスだったのかな。
「行きましょうか」
「あ、はい」
自然に促されるまま定期をかざして改札を抜ける。芸能人が電車を使うとこんな感じなのかな。すごい違和感。こういう人はリムジンとかに乗った方がしっくりきそうだ。その場合わたしが場違いになってしまうけど。ああ、もう少し違う服にすれば良かったかな。……スーツくらいしか思い当たらないけど。しかしこの駅員さんに負けないスーツなんて持ってない。そんなわたしの気持ちに気づいたわけではないだろうに、駅員さんがなんだか嬉しそうにわたしを見る。
「似合いますね」
「え?」
「可愛いです」
ようやく自分の服を褒められているのだと気づいて、「あ、アリガトウゴザイマス」と片言の礼を返してしまう。褒められるのはわたしじゃなくて駅員さんでしょう! そう思ってもすんなり言葉が出て来なかった。何を言っても陳腐になってしまいそうだった。それに褒められたあとだと取ってつけたみたいだし。それでもさっきまで服でぐずぐずと考えていたわたしの気持ちを一瞬で吹き飛ばしてしまうのだからすごい。イケメン、恐るべし。
ホームに向かいながら、ちらりと駅員さんを見上げる。すぐに気づいて、なにか? と問いかけるように首を傾げた。
「駅員さん、何者ですか」
「その駅員さんっていうの、やめませんか」
ちらりと横目でわたしを見て苦笑する。確かに今の彼は駅員さんには見えない。どこかの御曹司みたいだ。生御曹司、見たことないからあくまでイメージだけど。駅員さんがダメなら……。
「ええと、じゃあ、栗生さん?」
駅員さんは少し考えるような素振りをみせ、歩きながらわたしの耳元に囁いた。
「できれば、名前で」
うきゃーっ! み、み、みみみみ……ッ! 跳ねるな心臓っ! こういう甘いスキンシップには免疫がないのでやめていただけませんかね! 寿命が縮まる気持ちになる。
「え、と。し、真哉さん」
はい、と笑う。その美しさに見惚れて二の句が繋げなくなった。そこへタイミングよくやってきた電車に乗り込む。
何だかヘンなの。駅員さんと電車に乗るなんて。
行楽帰りの客が多いのか、車内は適当に混んでいて、よろめいたところを駅員さんの腕がとっさに支えてくれた。
「あ、りがとうございます」
「良かったら掴まっててくれて構いませんよ」
言いながら、駅員さんの左手はつり革に。右手は掴みやすいようにかわたしの目の前を通ってドアに。その近い距離にどきどきしながら、お言葉に甘えて右腕に掴まる。これは断じて作戦とかじゃない。本気で電車が揺れていてこのままだと駅員さんの高そうな服にファンデーションがつきそうで怖かったからやむにやまれずだ! 怖い。これ汚したらいったいクリーニング代は……! 請求してくれなさそうだけど。
それにしても、こんな体勢だとまるで恋人同士みたいだ、と思ったらまたぐわっと顔が熱くなる。なんだこりゃ。わたしは恋愛初心者か。落ち着け。今日は駅員さんの人となりを知るために来たのだ。こんなんじゃ観察もできない。なのに冷静になろうとすればするほど落ち着かなくて。目的地に着くまでわたしの胸はどきどきしっぱなしだった。
「ここです」
「……え?」
ビル?
リサイタル、って聞いてたからてっきりコンサートホールみたいなところでやるのかと思ってたわたしは、目の前の古そうな雑居ビルにちょっと驚いた。駅から少し離れたビル街に行くのでこんなところにそんな建物あったかなあ、と疑問に思いながらついて来たのだ。あ、でもライブハウスとかそんな感じなのかなひょっとして。そんなわたしを尻目に、ゆっくりと中に入っていく駅員さんの後を追う。何の変哲もない普通のエレベーターで地下三階。
チン、と音が鳴ってドアが開いたとき……わたしは思わず言葉を失った。
「驚くでしょう」
楽しそうな問いかけにただこくこく頷く。サロン、だ。一面に敷かれた高そうな赤い絨毯はふかふかで歩いても足音がしない。ドレープのあるビロードのカーテン。ギリシャ神殿みたいな柱。なんで? なんでうらぶれた雑居ビルの地下がこんな秘密セレブサロンみたいになってるの? え、こういうの普通なの?
かしこまった人のいる受付で駅員さんが名前を名乗ると、すぐに別の人が現れてわたしと駅員さんからコートと荷物を預かって去って行く。チケット、とかじゃないのか。あ、そういえば友人のリサイタルとか言ってたっけ。ご招待、なのかな。
「ここのビルの持ち主は音楽好きで、本当に音楽が好きな人たちのためのコンサートを開きたいとここを作ったんだそうです」
大仰な舞台はなく、少し段のあるステージの上にスポットライト。それを囲むようにゆったりとした布張りの椅子たちが置かれていた。基本二つか三つずつで、その間には丸い小さなサイドテーブル。隣りを気にしないですむような間隔で置かれたそれには既にあちこちにハイソな感じの方々が座っていて、何だか別の世界に紛れ込んでしまったみたいだった。
こんな世界があるんだなあ、世の中には。
「どうぞ」
シャンパングラスの中で琥珀色の液体が輝く。駅員さんに差し出されたそれを受け取ると、微かにグラスを触れ合わせた。発泡がパチパチとはぜる。喉越しのいいそれを一気に飲み干した。
おいしい。これは多分お高い。しまった、これワンドリンク? 別料金? ——考えが一々庶民で嫌になる。
「いい飲みっぷり」
ハッと気づく。いきなり一気飲みはないでしょわたし。いくら喉が渇いてたからって。
駅員さんはにっこり笑って自分のグラスも同じように飲み干してしまうと、真っ赤になってるわたしから空のグラスを取り上げて、通りかかったボーイさんから新しいものに取り替えてもらってくれた。
「……ありがとう、ございます」
躊躇いがちにそれを受け取ったわたしに、駅員さんが首を傾げる。
「どうかした?」
「……いえ。いきなり慎みなくお酒を一気飲みした自分に自己嫌悪というか……」
「なにかまずいかな。僕も好きだから気にしないけど」
どきどきするな! 好きなのはお酒だ!
「実はあれから何度か行ったんです」
「え?」
「テンペスト」
駅員さんの目が、じっとわたしを見つめる。
えーと、それは……。
「もう一度会いたくて」
誰に?と思う間もなく耳元に〝きみに〟という囁きが落とされる。
よく、グラスを落とさずにすんだものだと思う。きゅ、とグラスを持つ手に力が入る。
「わたしのこと、覚えてたんですか?」
「もちろん」
凶悪だ。人の心拍数を上げてこっそり喜んでるに違いない。それとも世の中のあいつ以外の男の人はこういうの普通なの!? 駅員さんだけが特別仕様? ……それにしても気づいていたならどうして最初から言ってくれなかったんだろう。
「座りましょうか」
内心転げ回ってるわたしの背中に触れるか触れないかのところに駅員さんの手があって、これは絶対エスコートしなれてる人だと何となく思う。ホントに、何者なんだろう。だんだんちょっと不安になる。
二つ並んだ椅子の間のサイドテーブルにグラスを置いて座った。これ絶対コンサートの椅子じゃない。前の職場が今も続いてたら絶対即落ちして安眠してるだろう。程よく身体を包み込む、今まで座ったこともないような上質な椅子だ。
「これは栗生さん珍しいところで」
不意に駅員さんの前に年配の男性とその娘という風情の二人が立った。気づいた駅員さんが立ち上がり、にこやかに男性に手を差し出した。
「お久しぶりです」
日本人で握手する人種というのは結構珍しいんじゃないだろうか。何だかわたしだけ座っているのも失礼かと、急いで立ち上がって後ろに下がる。駅員さんに声をかけた男性の隣りに居た女性が好奇心を抑えきれないといった様子で興奮気味に口を開いた。
「お父様、こちらがひょっとして」
「栗生真哉さんだ。これは娘の千晶です」
「お会いできて光栄ですわ。栗生さん」
「こちらこそ」
現実味のない情景だ。駅員さんの何がひょっとしてで、何が光栄? 入れない雰囲気に立ち尽くす。
「ぜひ今度拙宅においで下さい」
「そうですね。機会がありましたら」
ゆったりと答えを口にした駅員さんに、オジョーサマが媚びるような目を向ける。
「こちらで一緒にお座りになりません? ぜひお話をお聞きしたいわ」
なんで!? 声が喉まで出かかって、飲み込む。まあ、わたしが連れだなんて思わないか。頭のてっぺんから足の先までわたしとは桁違いのお金がかかっているであろうオジョーサマに、ますます場違い感にかられてじりじりと後ずさる。なんかよくわかんないけど、これがセレブのお付き合いとかいうもの? じゃあ駅員さんはお坊ちゃまなのかな。ひょっとして。
「申し訳ありませんが、連れがおりますので」
そしてようやくオジョーサマがわたしに初めて気づいた、とばかりに冷ややかな視線を向けた。
「こちらどなた?」
いっそ気持ちがいいほどの上から目線だ。どこのオジョーサマかはしらないけど。いきなりどなたってなんだ! 普通初対面なら名乗り合ってこんにちはだろう! そうは言っても駅員さんの知り合いらしい人に喧嘩をふっかけるわけにもいかない。なるべく愛想良く口を開きかけた瞬間、駅員さんがわたしを守るように前に出た。
「僕の、大切な人です」
へ? いま、なんて?
驚いたのはわたしだけじゃなく、その親子もだった。
「ほう。それは……いや、残念です。あなたにそんな方がいらっしゃったとは存じませんでした。ぜひうちの娘を、と思っていたのですが」
露骨にわたしを睨むオジョーサマとにこやかな微笑だけでその申し出をあっさりとかわす駅員さん。
あ、そっか。わたしダミーの風除けか!
いきなりはた、と腑に落ちた。ようやくわかった。なら突然こんなところに連れてこられたのもわかる気がする。こういう手合いを避けたかったんだろう。それがわたしってところがちょっと納得いかないけど、……ちょっとだけ何かが萎んだ感じがしたけど、人生でこんな機会はめったにないだろうし、少しくらいならのってもいいかもしれない。おろおろしかかってた自分を封じて、いかにもそうなんですよ、とばかりに余裕の愛想のよい微笑を浮かべてみせる。
わたしは女優だ。女優! 内心汗をかきつつ必死に自分に言い聞かせる。やがて納得したのか「ではまた」と、いかにも残念そうに親子が離れていく。それを見送ってわたしに苦笑してみせた駅員さんにわたしも小さく笑ってみせた。わたしはうまく役目は果たせたんだろうか。
それにしても、ますます駅員さんの謎が深まる。
「始まりますよ」
部屋が暗くなり、袖からタキシードを着た男性が出てくる。それを見て慌てて椅子に座った。明るい茶色の髪がライトで金色に見える。すらっとした長身は痩せている、というよりは華奢な感じで、その手にはヴァイオリンを持っていた。
まるで天使みたいだ。色が白くて目鼻立ちがはっきりしている。結構若そうなんだけど、この人が駅員さんのお友達、なんだよね?
挨拶もなくその人は息をするみたいに楽器を構え、神がかり的な演奏がいきなり始まった。
《ラ・カンパネラ》から始まって、観客が感嘆のため息を押し殺すのがわかった。普通のコンサートでいうなら、いきなり一番人気の曲から始まって客が〝キャーッ!〟と叫ぶ勢いだ。よくヴァイオリンは人の声に近いというけれど、楽器が歌うというのをわたしは初めて強く実感した。
全身に鳥肌が立つ。
難曲を何の苦もなくあっさりと弾きあげて、観客の割れんばかりの拍手が終わるのも待たずに、さっさと《クロイツェル》を奏で始める。わたしは昔クラッシック好きの唯史ちゃんに誘われてよくコンサートに行ってたせいで、多分小さい頃からいい音を聴いてきた方だと思う。唯史ちゃんのお父さん経由でプラチナチケット手に入りやすかったし。
だから、わかる。これは……レベルが違う。顔がいいからアルバム出しましょうのヴァイオリニストじゃない。
ホンモノ。
世界中の名だたる楽団からオファーが来る指折りのソリストだ。どうしてこんなヒトが国内で知られてないの?
そっと駅員さんの様子を窺うと、少し不機嫌そうに眉根を寄せて聞いていた。どんな知り合いなんですか? ——聞きたいことはたくさんある。
長いはずの時間の長さをまるで感じさせず、曲が終わった。豪雨みたいな拍手。立ち上がって〝ブラヴォー〟と叫ぶ人もたくさんいる。でもソリストはにこりともせず、むしろ怒ったような表情でそれをそっけなく流した。驚いた。客を大切にするのが当たり前の世界で、酷く愛想が悪い。だから知られてないんだろうか、なんて下世話なことを思う。
その不遜なソリストは、何かを探すようにぐるりと客席に視線をめぐらせ、そして瞬間ある一点で釘付けになるのがわかった。なんとなく予感はしていたのかもしれない。見た目だけは天使のそのソリストは、もはや真っ直ぐその人だけを見ていた。わたしの隣りの席——つまり、駅員さんのことを。
え、えーと? まあ、知り合いだとは言っていたけれど。なんだろう、この空気。駅員さんをチラッと見るとまるで舌打ち寸前みたいな顔をしていた。まずいのに見つかった、みたいな? 違うな、なんでこのタイミングで自分を見るんだ、かな?
ソリストは初めてそこで笑みを見せた。観客におもねるようなそれではない。楽しそうに、ニヤリと。獲物を捕まえていたぶろうとする猫みたいだった。そこからはあっという間の出来事だった。ソリストがつかつかと歩み寄り、駅員さんの腕を掴んで立ち上がらせる。
「来い」
見た目も不遜なら声まで不遜だ。ソリストはそのまま駅員さんを舞台に上げて、自分の持っていたヴァイオリンを押し付けるように手渡した。そして一度袖に引っ込むと、素早く別のヴァイオリンを手に現れる。
駅員さんは困ったような曖昧な笑みを浮かべたまま立ち尽くしていた。どこか観念した様子で。
……ナニガハジマルンデスカ?
ソリストが駅員さんに何かを囁く。駅員さんは一瞬逡巡して、……頷いた。やがて始まったのは。——《カルメン幻想曲》。誰でも知っているカルメンの曲がソリストから始まる。
そして、駅員さんが。
「嘘……」
信じられなかった。駅員さんから放たれたその音は、いきなり舞台に上がった謎の人物をいぶかしんだ観客の不安を一瞬で蹴り飛ばすような音だった。導入を一気に駆け抜けて、嵐みたいに周りを巻き込んで、心臓を鷲掴みにするかのようなその熱情に浮かされたまま、終わったときには全員がこのアクシデントに惜しみない拍手を送っていた。
わたしは拍手することも忘れて食い入るように駅員さんを見つめていた。
あの人は、何? 何なの?
ソリストが情熱的に駅員さんを抱きしめる。駅員さんはそれにぎこちなく応えて、袖に消えた。
そのあとのソリストによる《ツィガーヌ》も泣きそうなほど見事な演奏だったけれど、全部耳を通り過ぎる。
隣りの席は空いたままだ。
駅員さん。駅員さん! こんなところに一人にしないでよ。早く戻って来て、説明して。
不意に照明がさっきより少し落ちて、アンコールは《トロイメライ》。そのセレクトは正直意外な感じがした。もう少し派手で技巧的な曲の方がこのヒトには似合うような気がしたからだ。
終わりかけたその時、誰かがわたしの手を掴んだ。とっさに振り払いかけて、それが帰り支度を整えた駅員さんだということに気づいてやめた。その手には預けてたわたしのコートと荷物。
〝行きましょう〟と口が動いて、そのまま身体を引かれる。
瞬間曲が終わって、一際大きな拍手と全員によるスタンディングオベーション。
誰も出て行くわたしたちに気づかなかった。




