最終話 エーゲ海に捧ぐ
「リュシアス――!」
イリアは夜を切り裂くほど鋭い声で叫んだ。
全速力で駆けたため、そこにたどり着いた時はすでに息が上がっている。物見櫓からリュシアスが落ちたと思われる、丘の真下の岩場近く。その場所で彼女は声が嗄れるほどの大声を張り上げ、彼の名を呼んだ。
幾度も繰り返すうちに、頭が冷えてきたせいだろうか。それとも、闇に目が慣れてきたためだったろうか。不意に、イリアはその岩場の地形が微妙に違っていることに気づいた。
「どういう…こと……?」
昼間、物見櫓から真下を覗いた時、そこは岩肌も露わな、切り立った断崖になっていたはずだった。だからこそ、そこに落ちれば間違いなく助からないと思っていたのだ。それなのに彼女の足は今、踝まで水に浸っている。夜の海水の冷たい感触が自分の足首を撫でているのに、彼女はようやく気がついた。
そう、目の前には月光を反射してきらめく海面があった。アルゴス湾の水が崖下にまで流れ込んでいるのだ。闇の中で目を凝らしてみても、険しい岩はみな海水に潜って見えなくなっている。地形が変わったのではない、海面が急激に上昇しているのだ。
困惑しながら辺りを見回すイリアの背後から、静かな声が上がった。
「君が道を開いてくれたんだね。お蔭で助かったよ」
振り向いたその先には、月光に照らされた白い頬が浮かび上がっていた。少し自嘲気味に引き攣れたその微笑を目にした瞬間、イリアは膝の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
――生きていた。
そのことがわかって嬉しいはずなのに、イリアの胸は喜びであふれるどころか、自分でも驚くほどの空虚が満たしていた。
そんなイリアの胸のうちを知っているのかどうか、五体満足で生き延びていたリュシアスは、無言で彼女の手を取ると近くの岩場に連れて行った。
ちょうど物見櫓から死角になる崖下には、人が一人やっと通れるほどの小さな洞穴があった。
「こんな場所があったなんて――……」
イリアのかすかな呟きに、リュシアスは無言で頷いた。地元の人間でも、人気のない切り立った崖の真下に、このような洞穴があるとは誰も知らない。だからこそ彼はこの場所を選んだのだ。
ほのかに差し込む月光を頼りに、リュシアスは腰を少しかがめて洞穴に足を踏み入れる。足元を注意しながら、イリアも恐る恐る彼に続いた。灯のない洞穴は、濃い闇に満たされている。だが、月明かりに照らされて、足元のすぐそばまで海水が流れ込んでいることがわかった。
次第に闇に慣れてきたイリアの目は、やがて奥に一つの影を見つけた。鈍い銀色に反射する水面に揺れる、黒い物体――それは岩場につながれた一隻の舟だった。せいぜい二人が乗れる程度の小さな舟。それを見て、イリアは固く目を閉じる。
――なぜ今まで気づかなかったのだろう。
彼が何を考え、何をなそうとしていたのか。彼の正体を知った後も、どうして無条件に信じることができたのだろう。人助けという使命を自分に課し、奔走するのに精一杯で、現実と向き合うことを避けていた。
そして今、それをまざまざと見せつけられて、イリアは闇の中で深く吐息する。
「すべて……計算ずくだったのね」
ぽつりと呟くイリアの言葉に、リュシアスは背を向けたままゆっくり口を開いた。
「あの屋敷には、遠い昔に施された仕掛けが残っている。それを動かすと、上の物見櫓までの地下道が開くようになっているんだ」
その鍵こそが、祈りの言葉を刻んだあの壁石だった。あれを動かすことで、牢の真下に地下道への入り口が開き、リュシアスは誰にも見咎められずに物見櫓へたどり着くことができたのだ。
「そして道が開くと同時に、この崖下へ海水が流れ込むようになっている。かつてあの屋敷に住んでいた主が、緊急時の抜け道として造らせたんだ」
「それが……あなたの先祖なの?」
「まさか。抜け道を使って脱出していたら、むざむざ滅ぼされたりはしなかっただろうよ。僕の先祖は、その仕掛けを造った職人だったんだ。それで代々言い伝えられてきたけど、本当にちゃんと動くかどうかはわからなかった。だから今回のことは、ほとんど賭けみたいなものだったよ」
そして彼は賭けに勝ったのだ。イリアは小さく息をつく。
はるか昔の言い伝えがどこまで正しいか、彼自身も確証があったわけではなかっただろう。だが、それでも彼はこうして生きている。ならば、敗者は滅び去るより他に道はないのだろう。
薄く笑むリュシアスの視線は洞穴の外の、水平線の向こうに注がれている。いつのまにか、海と空の境から夜の色が薄まり始めていた。去りゆく闇を見つめながら、リュシアスはゆっくりとイリアに向き直った。
「――もうすぐ夜が明ける。そうすれば街の人間が僕の死体を捜そうとするだろう。その前にここを出なければいけない」
「……そうね」
イリアは濡れたつま先を見下ろしたまま、力なく答える。夜風が、二人の間を凪いだ。闇に沈んだ水面を風が撫で、かすかな波音を立てる。
波のざわめきの中で、リュシアスは重い口を開いた。
「イリア、僕と一緒にこの街を出ないか」
その問いかけに、イリアは大きく目を見開いた。振り向いた彼女と、見つめる彼の視線がぶつかり合う。しばらくの沈黙の後、イリアはようやく答えを告げた。
「私は……行けない」
「――なぜ?」
「私はこの街を捨てて、出て行くことなんてできない」
うつむきがちに放ったイリアの言葉に、リュシアスは少し戸惑い気味に言った。
「イリア……この街はもう長くない。もうすぐ北から大量の異民族が押し寄せて、この街を根こそぎ滅ぼすだろう。そうなる前に逃げなければいけないんだ」
「あなたが――手引きしたのね」
イリアの口調は疑問というより確認だった。だが、リュシアスはあえて否定しようとはしなかった。
「だとしたら、軽蔑するかい?」
まるでイリアの言葉を肯定するかのような台詞に、彼女は首を振った。
「いいえ……あなたにはそうする権利があるわ。私たちを憎み、復讐するのも無理はないもの」
「そう、君ならわかってくれると思った。だからこそ君を助けたいんだ」
少し嬉しげに語るリュシアスの様子に、イリアは顔を曇らせた。胸の痛みとやるせなさに、彼女は一瞬、言葉を詰まらせる。
「……それでも、私は行けない。たとえ私が今、あなたについていったとしても、あなたがいつ私を見捨てるかわからないわ」
「な――」
リュシアスの表情は初めて驚愕に変わった。絶句する彼の顔からイリアが目をそらすと、暗闇に浮かぶ一隻の小舟が視界に入る。
――周到に用意された舟。
よく見れば、その中には荷と思しき袋が積まれている。つまり、彼は捕らえられる前からすべての算段をしていたのだ。
ここでイリアが現れなければ、彼は一人でこの街を出て行っただろう。もしかしたら今、自分を連れて行こうとするのも、事情を知る者を街に残さないためなのかも――そんな考えが浮かんで、イリアは唇を強く噛みしめる。
つい先刻までのイリアだったら、リュシアスの差し伸べた手を取っていただろう。自分を信じ、自分の身を案じてくれる人を、無条件で信じていただろう。
だが、今は違う。
彼と立場が逆転した今だからこそ。
「――だけど、その時私は、あなたを責める資格なんてない。この街を見捨てた私には」
リュシアスの無言の視線を受けながら、イリアは首を振ってかすかに笑む。
「だから私は行けない。私は大事なものに背を向けなかったって、堂々と生きたいの」
伏せていた睫毛を持ち上げ、イリアはまっすぐにリュシアスを見つめた。もう迷いはない。だから彼女は毅然と言い放った。
イリアの瞳に射抜かれて、リュシアスは肩をすくめて息をつく。そうか、と小さく呟くと、彼は静かに背を向けた。その背中を見やりながら、イリアは強く唇を噛む。
(――君を助けたいんだ)
そう告げた彼の瞳は真剣だった。たとえ夜の闇の中でも、その輝きは確かに感じられた。もちろん彼は本心から言ったのだろう。このままでは生き延びられないと知っているからこそ、見捨てることができなかったのだろう。
息をつき、瞑目する彼女の脳裏に、記憶の中から今度は別の声が甦る。
(――放っておけば死ぬとわかっているのに、目を背けて逃げることができなかったんでしょう? 私も多分同じよ)
それは先刻、イリア自身がラウィニアに向かって放った言葉だった。リュシアスを助ける理由として、彼女はそう告げたのだ。自分の言葉を思い出して、イリアは冷たく自嘲する。
――結局、同じなんだ。
イリアがリュシアスを助けようとしたのも。リュシアスが今イリアを助けようとするのも。
自分が優位な立場にいることを自覚しているからこそ、相手を救ってやりたいと思う。だがそれは結局、強者の弱者に対する驕りではないのか。相手から哀れみの目を向けられて、初めてそのことに気づく。
そう、だから――
だからこそ、伝えなければならない。今しかその時はないのだから。
イリアは闇を振り返り、今にも舟に乗り込もうとする彼に告げた。
「――また、会いましょう」
凛と響くその声に、リュシアスの動きがぴたりと止まる。そこへ彼女はさらに続ける。
「滅ぼされたはずのあなただって、こうしてここにいるんだもの。私だって、しぶとく生き抜いてやるつもりよ」
リュシアスはゆっくりと彼女を振り返る。月光を受けたその瞳には、驚愕と疑問の溶け合った色が映し出されていた。
「君は……僕を恨まないのか」
「次に会う時は、同じ立場になっているでしょう。互いに滅ぼし合った後は、痛み分けってことにならないかしら?」
もし互いに会うことがあるとすれば、それはイリアたちの種族が滅亡した後だろう。かつて滅ぼした者と滅ぼされた者が、過去のわだかまりを捨てることができるとしたら、それは両者が同じ境遇に立たされた時でしかない。だからこそ彼女は言うのだ。滅びの時が近づいているにも関わらず、いつか再びめぐり会おうと。
リュシアスは深く吐息した。そうして、彼女の視線をまっすぐ受け止めた。
「その時は、また会いに来るよ」
「ええ――待ってるわ」
イリアは地上に戻り、リュシアスは舟を漕ぎ出した。
すでに夜は明け、太陽が水平線から昇り始めている。朝日が海面に乱反射して、金色の瞬きをまき散らす。
黄金への道――陽光の溶け込む水平線の彼方へと、舟は次第に遠ざかる。消えゆくその影を見送りながら、イリアはかすかに喉を震わせた。
奏でられるのは祈りの言葉。彼が以前なぞった壁の文字を思い浮かべながら、彼女は静かに唱える。
そうして遠い昔に消えた祈りを捧げながら、やがて来る滅びの時を待った。
*
紀元前十二世紀、ミュケナイに強大な王権を誇ったアカイア人は、北方から侵入してきたドーリア人によって滅ぼされた。勃興から滅亡まで、その期間はおよそ二百年であったという。ミュケナイ時代の繁栄は、滅亡より三千年の後、ようやく発掘された遺跡から窺い知ることができる。
一方、彼らより先に定住していた民族については、地中海人種と小アジア人の混血だったと推測されるにとどまる。詳細が不明なのは、彼らの残した資料が読まれていないためである。
アカイア人も先住民族も、ともに文字を残した。前者の文字は線文字Bと呼ばれ、二十世紀に入ってようやく解読された。
しかし先住民族の用いた線文字Aは、三千四百年もの時を経た現在に至るまで、いまだ解読されていない。




