7
夜のエメラルダ島は昼間とは一変して不気味な雰囲気だった。満月なのとわたしの呼び出した明かりで視界は十分なのだが、潮風で揺れる木もシルエットだけ浮かび上がる大岩も聞いたことのない虫の声も、果ての見えない真っ暗な海も言いようのない不安を呼び起こさせた。
「私を殺すのか?」
王弟の声に前を見る。小刻みに震え、顔を手で覆う王弟をアルダが振り返り見ている。呆気に取られた顔が徐々に歪んで汚いものを見るかのように変わっていった。
「なぜ?あなたに怨みなんか無いわよ、バカにしないで」
「じゃあなぜここに来たんだ、あの無関係な冒険者達まで連れてきて」
「解放の言葉が必要だったからよ、後は勝手についてきてるだけ」
イライラしたように吐き捨てると浜辺をずんずんと進んでいく。「もっとも」と呟いた。
「あなたに手を出せば必死に食らいついてくるかもね」
振り向いて手を突き出すアルダに、王弟は尻餅をつく。髪は風で逆立ち、顔も見るたびに変わっている彼女は王弟でなくても怖い。どれが本当の彼女の顔なのだろう。
「わたしの目的は最初から一つよ」
「なんだ、可能なら応えよう」
おどおどと答える王弟を睨みつけ、アルダは砂だらけになったパンプスを乱暴に脱ぎ捨てる。わざと王弟にぶつけるように蹴り投げるところに、子供の癇癪のようなものを感じた。
「アンリ王の宝よ!ここにあるのは分かってるの」
「なんだ、そんなものだったのか」
王弟はほっと息を吐き出す。アルフレートが何か唱え出した。次々と光の粒が漂い出す。わたし達の頭上、浜辺、そして海上と広範囲を照らしていく。見え始めた海底の金銀財宝にアルダの息を飲む声が聞こえた。
「なるほど……こんな所にあったのね」
乱れる髪をそのままにアルダは立ち尽くす。王弟は彼女に近づき、そっと声を掛けた。
「全部、君の物だ」
「当たり前でしょう!」
高らかな笑い声と共にアルダが駆け出す。わたしは悲鳴を押し殺すように口元を押さえた。
異変はアルダが海に足を踏み入れた瞬間から起きた。海面がせり上がり、まるで生きているかのように蠢く。
「な……」
吹き荒れ始めた暴風にここまでしかアルダの声は聞こえない。海水が巨大な手を形作り、アルダを捉える。何度か抵抗するように手足をばたつかせていたが、簡単に上空へと持ち上げられてしまった。竜巻が幾つも発生し、風の刃がアルダに襲いかかる。
「おのれ、おのれ……!」
まるで地面から湧き上がるような呪詛の声が響いてくる。わたしは恐怖でへたり込んでしまった。
アルダの姿が巨大化する。目は吊りあがり口が裂け、悪鬼のように変わってしまった。髪も一層長くなり、辺りを探るように漂う。まるでメデューサだ。覆うオーラが周りの景色をぼやけさせる。筋張った大きな手の先には真っ黒な鋭利の爪が伸びていた。フォルフ神官といい、こいつら何なの……?
怒りの炎がチラチラと灯る目でわたし達を睨みつけると、もがくように体を動かし始める。
「許さない、許さない!殺してやる!」
「誰を許さないっていうんだ」
そう答える王弟は先程までの動揺が嘘のように落ち着き払ってアルダを見ている。
「お前も、お前もだ!よくもやってくれたね……!」
王弟、そしてわたしを指差すアルダ。そんな彼女を王弟は鼻で笑った。
「それは困った、君を今捕らえているのは海神シュメルだというのに」
アルダの目が大きく見開かれる。その老婆のような顔はわたしの脳裏にしばらく残ってしまうに違いない。
一際大きな波が迫り来ているのに気付いた。辺りを真っ暗にしてしまう程のそれは、やがて触手のように伸びてアルダの体を絡め取る。
「いや!」
続く悲鳴はもはや女とは、いや人間の発する声とも思えない低音で地中から這い上がるようなものだった。デーモンのそれのような断末魔にわたしだけでなくフロロやローザちゃんも両耳を強く押さえていた。
吹き荒れる風が止んだのに気付いて目を開ける。海は平穏を取り戻し、また闇がたゆたうだけになっていた。アルダの姿ももちろん無い。
「終わった……」
わたしは呟く。わたしのライトの呪文もアルフレートの呼び出した光の精霊達も消え去っていた。ただ月明かりだけがわたし達の顔をぼんやりと認識させる。
「力の割に単純な女性だったんだ、彼女は」
「上手く誘導してましたね」
わたしは王弟を見ながら立ち上がり、体の砂を払う。アルダが湖の洞窟にいる、と気付いた時から彼女の狙いは分かっていた。ただ自ら海へ飛び込ませる方法は浮かんでいなかったのだ。完全に成り行きまかせだったが、ま、上手くいったからいいかな。
「怒ると周りが見えなくなったり、イライラすると後先考えなくなったりと……まあこれでも付き合いのあった女性だ、彼女の性格はよく分かっていたつもりだよ」
王弟は「それに」と続ける。
「誘導、と言ったが、私の方こそジルダをここまで誘導してくれる者を待っていたんだ」
苦笑しながら王弟は何かを拾い上げる。エメラルダ島の鍵である灰色の玉だった。
「それを返しに城へ戻らないかい?」
フロロがニヤッと笑うが、王弟はゆっくりと首を振った。
「ここでの生活が好きなんだ」
途端に彼とレオンの顔がリンクする。
「なんだかサントリナの王室の方は城にいたくない人ばっかりね」
わたしはからかうように言ってみる。王弟は返す言葉もない、というように肩をすくめた。 「しっかし……サイヴァの心臓の次はシュメルの手を拝んじゃうとはね。フローの一部を拝見する日も遠くないかしら」
ため息つくローザちゃんにみんなで笑ってしまった。
王弟が胸元から何かを取り出し、石の玉と一緒に渡してくる。
「兄に渡してくれないか」
見るとくしゃくしゃになった手紙だ。昨日今日書いたものではない。思わず王弟の顔を見るが返事を返せなかった。これを受け取ったら本当にこの人はサントリナには帰らない。
「受け取っておけ」
アルフレートに言われてわたしはゆっくりと手を下ろす。そして頷きながらポケットにしまった。
「ああ、君たちの方からここに訪ねてくれるなら歓迎しよう。毎月の最初の日はこちらから鍵を開けることになってるんだ。セレスタンとの約束でね」
片目を瞑る王弟の言葉にあの陰気な魔法使いが頭に浮かぶ。なるほど、こちらからは扉を開けられる一方通行の作りなのか。
「じゃあ、行きます」
ヘクターがそう挨拶して手を出す。それを握りながら王弟はにこやかに返した。
「さようなら、若い人。君らのお陰で久々によく寝られそうだ」
会うのは二回目だが、なぜか旧友のような気持ちにさせる不思議な人。本当にまた会うことが出来ればいい、と思いながらわたし達はエメラルダ島を後にした。
「国王に会いたい、ってそりゃ無理言うなよ!俺にそんな権限ないっていうのに」
わたしの懇願にヤニックは頭をかいた。
結局、別荘地から城に戻って一泊し、王弟との約束を果たす為に中庭にいたヤニックに声を掛けたのだが……。当たり前だが断られてしまった。彼にもどうにもならないのだからしょうがない。じゃあ出発の準備で忙しそうなエミールとブルーノに頼むしかないか、とヘクターと顔を見合わせる。その時だった。
「私に話しなら聞こう」
そう声を掛けてきたのがフェリクス国王本人だったので、わたしは木材の上にひっくり返りそうになる。隣には王妃までいるじゃないか。二人とも大分ラフな格好だ。忙しく動き回っているのだろうか。
「あ、あのこれ」
慌てながらわたしはポケットから手紙を引っ張り出す。元々折れ曲がっていたのだが、懸命にシワを伸ばした。
大きな手がそれを受け取る。丁寧に封を開ける肯定でようやく気付いた。封蝋が描くのはサントリナ王家の紋章だ。四つ折りになった手紙を開き、丹念に読む様子が瞳の動きで分かる。
わたしは息を飲んだ。周りも固まるのが気配で分かる。
国王の瞳から一筋の涙が溢れ、頬に線を描く。それを何気ない仕草でさっと拭き取るとわたしに向き直った。
「ありがとう、危険な役目を任せてしまった」
わたしはブンブンと首を振る。何が書いてあったのか気にならないと言えば嘘になるが、わたしは知らなくていいのだろう。去っていく国王夫妻を見てそう感じた。
「大丈夫?寂しいのね、フェリクス」
「大丈夫だ、ありがとう」
「じゃああなたのためにシュミシュミの実のパイを焼いて上げる」
「楽しみにしてるよ」
二人からそんな会話が聞こえてきた。
「やっぱり泣いてたなー王子様」
白い馬車の御者席、手綱を持ちながらフロロはぼんやりと呟いた。
ようやく、本当にようやくウェリスペルトへの帰路になる。知り合った人達のなるべく全てに挨拶して回っていたら夕方になってしまった。わたしはフロロの隣で夕日を眺め、目を潤ませた。
「わたしもファムさんとの別れはボロ泣きだったわ……手紙の約束はしたけどさ」
「『ファムさんと』はね、白状な奴」
フロロが意地悪な視線を送ってくる。だってしょうがないじゃない。エミールとはもう二回目になるし、また会えそうだけどファムさんはこれからもずっとお城にいるんだもの。一緒にいた時間も違うしね。
馬車の中でローザちゃん達が夕飯の相談をしているのが聞こえてくる。場所、時間、店の種類……聞いてるだけでお腹が空いてくる。この人数でも十分騒がしいけど、やっぱりデイビス達いないと寂しいな。イリヤの両親に会えるといいけど。
「ああ、そうそう、わたしフロロにちゃんと謝りたくって」
わたしが膝を向けるとフロロは「なんだよ、いきなり気持ちわりぃ」と眉寄せる。気持ち悪いとはなんだ。
「ほら、だって今回の旅はフロロに特に迷惑かけちゃったじゃない?レイグーンの件なんて特に!」
わたしはフロロと二人でフローラちゃんの中に閉じ込められた時間を思い出す。あの時も逃げる段階になってからも、みんなと合流するまでわたしを引っ張っていたのはフロロだ。
そんなことを踏まえた感謝の言葉を探しているとフロロがまた呟く。
「いやもう慣れたし」
「だから何によ!?」
怒るわたしを宥めるよう手を振ると、フロロはグローブを脱いだ小さな手を差し出してくる。
「まあまあ、これからもよろしくな、トラブルメーカー」
そう言って悪そうな笑顔を向けてくるのだった。
fin