第3話:美女・貂蝉の連環の計
第3話:美女・貂蝉の連環の計
曹操が発した檄文により結成された「反董卓連合軍」は、一時は董卓を追い詰め、都・洛陽を灰燼に帰せしめた。しかし、連合軍の諸侯たちは己の利権を巡って対立し、足並みは乱れて霧散してしまう。董卓は皇帝を奉じて長安へと遷都し、そこでも変わらぬ暴虐を続けていた。
長安の宮廷では、董卓が皇帝以上の権勢を振るい、気に入らぬ臣下がいれば宴席の真っ只中でその首を撥ね、流れる血を肴に酒を飲むという地獄絵図が繰り返されていた。
「このままでは、四百年続いた漢の火が絶えてしまう……」
司徒・王允は、毎夜、自邸の庭で嘆き悲しんでいた。武力では、天下無双の呂布を擁する董卓を倒すことは叶わない。曹操の暗殺計画も失敗に終わった。もはや、人の手で成せることは残されていないのか。
その時、暗闇からすすり泣くような、鈴の音のように清らかな声が聞こえた。
「義父上、なぜそのように悲しまれるのですか。私のような身分の低い者でも、お役に立てることはございませんか」
そこに立っていたのは、王允が幼い頃から実の娘のように慈しみ育ててきた歌姫、貂蝉であった。その美しさは、夜空に輝く月ですら自らの光を恥じて雲に隠れる「閉月」の美と謳われるほどであった。
王允は、月光に照らされた彼女の凛とした姿を見て、一つの恐ろしい、しかしこれ以外に道はないという計略を閃いた。
「貂蝉よ、お前に国家の命運を託したい。董卓と呂布……あの二人の怪物の間に、入り込んでほしいのだ」
それは「連環の計」と呼ばれる策略であった。
一人の女性を巡って、董卓と呂布の「父子の絆」を内側から引き裂き、互いに殺し合わせる。そのためには、貂蝉は自らの身を汚れの中に投じなければならない。王允は床に伏して謝罪したが、貂蝉は静かに微笑んだ。
「義父上、顔を上げてください。この身が国を救う礎となるのなら、本望にございます」
数日後、王允はまず、血気盛んな若き猛将・呂布を密かに自宅へ招いた。
武勇には秀でているが、その心は単純で欲望に忠実な呂布。宴の最中、王允は極上の衣装を纏わせた貂蝉を呼び寄せた。
一歩、彼女が広間に入った瞬間、呂布は手にしていた杯を床に落とした。これまで数多の女を見てきた呂布であったが、貂蝉の、この世のものとは思えぬ美貌と、憂いを帯びた瞳に、一瞬で魂を奪われてしまったのだ。
「将軍、この娘を貴殿の妻として差し上げましょう」
王允の言葉に、呂布は狂喜乱舞した。「これこそが俺に相応しい宝だ!」と確信し、婚礼の日を指折り数えて待つことを約束して帰路についた。
しかし、その翌日。王允は今度は董卓を自宅へ招いた。
好色で独占欲の強い董卓に対しても、王允は同じように貂蝉を見せた。董卓の濁った瞳が、獲物を見つけた獣のようにギラリと光る。王允は、呂布に言ったこととは正反対の言葉を告げた。
「この娘を、太師公(董卓)の側室として献上いたします」
董卓は「これぞ天からの贈り物だ」と大喜びし、その日のうちに、貂蝉を強引に自らの屋敷へと連れ帰ってしまったのである。
これを知った呂布の衝撃は、天が崩れ落ちるほどであった。
「王允め、俺にくれると言った女を、義父上に差し出すとは!」
呂布は激昂し、董卓の屋敷へと乗り込んだ。しかし、奥の部屋にいた貂蝉は、董卓の影に隠れながら、呂布に向かって涙を流し、悲痛な目配せを送った。
(私は貴方を愛しているのに、この老いぼれに無理やり奪われてしまいました……)
その涙は、呂布の心に嫉妬という名の猛毒を流し込んだ。
一方で、貂蝉は董卓に対しても、怯える小鳥のように振る舞った。
「呂布将軍が、私をいやらしい目で見つめてきます。いつか襲われるのではないかと、夜も眠れませぬ」
董卓は自らの「所有物」を奪われることを何よりも嫌う。こうして、最強の「父子」の間に、抜き差しならぬ猜疑心の種が蒔かれた。
決定的な事件は、ある日の鳳儀亭で起きた。
董卓の留守中、呂布は庭園で貂蝉と密会した。貂蝉は泣き崩れ、呂布の胸に縋り付いた。「いっそこの池に身を投げて死にたい」と。呂布が彼女を強く抱きしめたその時、予定より早く戻ってきた董卓が鉢合わせした。
「不義理なせがれめ、我が女に手を出すか!」
怒髪天を衝いた董卓は、呂布が傍らに立てかけていた方天画戟をひったくり、全力で呂布に向けて投げつけた。
戟は風を切って呂布の耳元をかすめ、庭石に当たって火花を散らした。
辛うじて逃げ延びた呂布であったが、その屈辱と怒りは、ついに「殺意」へと変わった。
そこへ王允が近づき、耳元で毒を囁く。
「将軍、董卓は貴殿を実の息子とは思っておりませぬ。彼を討ち、真の英雄として天下を救えるのは、貴殿だけだ。貂蝉もそれを望んでおられる」
ついにその日が来た。
皇帝の譲位の儀式と偽られ、宮殿に呼び出された董卓。彼が意気揚々と馬車を降りた瞬間、王允が「逆賊を討て!」と叫んだ。
周囲を取り囲む兵士たちの後ろから現れたのは、方天画戟を構えた呂布であった。
「呂布! 何をする、私を助けぬか!」
董卓の叫びに対し、呂布は冷徹に言い放った。
「私は詔を奉じて賊を討つ。老いさらばえた醜物め、地獄へ落ちろ!」
一閃。天下無双の武勇が放った一撃は、董卓の太い首を軽々と跳ね飛ばした。
長安の民は、暴君の死を狂喜して祝い、董卓の死体は広場に晒された。そのあまりの皮肉な末路に、人々は言葉を失った。
しかし、この計略の立役者である貂蝉の姿は、いつの間にかどこにもなかった。
彼女は、自分が愛した男と、自分を汚した男の破滅を見届けた後、霧のように歴史の表舞台から消えていったのである。一説には、王允への義理を果たした後、自ら命を絶ったとも、あるいは静かに市井に紛れて余生を過ごしたとも言われている。
董卓という巨悪は滅びた。だが、それは平和の訪れではなかった。
呂布は最強の武を持ちながらも、政治的な器量はなく、再び長安は混乱に陥る。
そして、この混乱を虎視眈々と見つめていたのが、東で力を蓄えていた曹操であった。
時代は、一人の暴君の死によって、より複雑で過酷な「群雄割拠」の局面へと突き進んでいく。
(第3話・完/第4話へ続く)




