第2話:乱世の奸雄、曹操の台頭
第2話:乱世の奸雄、曹操の台頭
幽州の地で劉備たちが「桃園の誓い」を結び、義勇軍として産声を上げていた頃、漢王朝の中枢である都・洛陽は、饐えた腐敗の臭いと、いつ弾けてもおかしくない殺伐とした空気に満ちていた。
宮廷内では、皇帝の威光を傘に着る十人の宦官「十常侍」が権力を私物化し、忠義ある臣下を次々と処刑していた。政は滞り、金で官位が売買される。もはや国家としての体裁は崩れ去り、都は煌びやかな外見とは裏腹に、中から腐り果てた大樹のようであった。
この閉塞感漂う都に、一人の若き官僚がいた。
名を曹操、字を孟徳。
家柄は名門であったが、祖父が宦官であったという出自が、常に彼に複雑な影を落としていた。曹操は若くして洛陽の北部尉(警察機構の長)に任命されると、たとえ権力者の身内であっても法を犯せば容赦なく打ち据えるという苛烈な法執行を行い、その名を轟かせた。
背はそれほど高くはないが、その体躯からは針のような鋭い覇気が放たれている。何よりも、その細められた瞳の奥には、天下のすべてを冷徹に見通すような、底知れぬ知性が宿っていた。
かつて、希代の人相見である許劭は、若き曹操を見てこう評した。
「貴殿は、治世の能臣、乱世の奸雄なり」
曹操はこの言葉を聞くと、否定するどころか大笑いしたという。彼にとって「能臣」か「奸雄」かなど、取るに足らない区別であった。重要なのは、この狂った時代をいかに御し、己の望む形に作り変えるか。その一点のみであった。
事態が決定的に動いたのは、黄巾の乱の混乱に乗じて、西方から涼州の軍閥・董卓が都へ入り込んだ時であった。
董卓は、十常侍と大将軍・何進が共倒れになった隙を突き、二千の精鋭を率いて洛陽を占拠。幼い皇帝を廃して新たな皇帝を立てると、自ら「太師」を名乗り、王朝の主権を完全に掌握した。
董卓の支配は、筆舌に尽くしがたい暴虐を極めた。気に入らぬ臣下がいれば宴の席で首を撥ね、宮中の侍女を凌辱し、さらには歴代皇帝の墓を暴いて財宝を奪う。洛陽の街は、昼は董卓軍の略奪に怯え、夜は絶望の嗚咽に包まれた。
この暴君の傍らには、常に一人の偉丈夫が控えていた。
名を呂布、字を奉先。
「人中の呂布、馬中の赤兎」と称される天下無双の猛将である。彼が方天画戟を携えて背後に立っている限り、董卓に刃を向けられる者など、この世に一人も存在しないかのように思われた。
そんな絶望的な状況下で、曹操だけは一人、虎の懐へ飛び込む準備をしていた。
曹操はあえて董卓に阿諛追従し、その信任を得ることで、側近としての地位を築いていた。周囲の老臣たちが「曹操も董卓の犬に成り下がったか」と蔑む中、彼は司徒・王允の邸宅を密かに訪ねた。
「王允殿、お嘆きになるだけでは天下は救えぬ。私にその家宝、七星宝刀を貸していただきたい。私が董卓の胸を貫いて見せましょう」
王允は、曹操の瞳に宿る本物の狂気と覚悟を見て、涙ながらに宝刀を託した。
翌日、曹操は董卓の寝所を訪れた。
外では呂布が馬の調練に出向いており、室内には董卓が一人、昼寝をしていた。董卓は肥え太った体を横たえ、壁の方を向いて深い寝息を立てている。
(今だ……!)
曹操は音もなく歩み寄り、懐から七星宝刀を抜き放った。刃には七つの宝石が嵌め込まれ、鈍い光を放っている。曹操がその刃を、董卓の背中に向けて突き立てようとしたその瞬間――。
壁に立て掛けられた鏡が、曹操の姿を映し出した。
「孟徳、何をしている!」
董卓が跳ね起き、その巨体に見合わぬ速さで振り返った。同時に、廊下からは呂布が戻ってくる重い足音が聞こえる。
千載一遇の好機は、一瞬にして絶体絶命の窮地へと変わった。しかし、曹操の思考は、その極限状態においてこそ、研ぎ澄まされた。
曹操は、刃を突き出す動作をそのまま滑らかな礼へと変え、両膝を突いて宝刀を捧げ持った。
「太師公、滅多に手に入らぬ名刀を入手いたしました。これを公に献上しようと、こうして差し出した次第にございます」
あまりにも自然な、一点の曇りもない振る舞い。董卓はその言葉を信じ、刀を手に取って眺め始めた。
「ほう、これは見事な……」
その隙に、曹操は「馬の乗り心地を試してまいります」と告げると、風のように寝所を辞した。
用意させていた快速馬に飛び乗ると、曹操は洛陽の城門を死に物狂いで駆け抜けた。背後からはほどなくして、騙されたと気づいた董卓の激怒の声と、呂布の追撃の足音が迫っていた。
逃亡の道中、曹操は中牟県で一度捕らえられるが、その際、土地の役人である陳宮と出会う。曹操の語る「古い王朝を壊し、新たな覇業を成す」という壮大な野心に心打たれた陳宮は、官職を捨てて曹操に同行することを決めた。
しかし、逃亡を続ける中で凄惨な事件が起きる。曹操の父の旧友である呂伯奢の家に身を寄せた際、曹操は家人が豚を屠るために包丁を研ぐ音を「自分を殺して董卓に差し出す準備だ」と誤解し、一家全員を惨殺してしまったのである。
間違いに気づいた陳宮が愕然として「なぜこれほど無慈悲な真似を」と問うと、曹操は血塗られた剣を握りしめたまま、月夜の下で冷酷に言い放った。
「俺が天下を裏切ろうとも、天下の人間が俺を裏切ることは許さん」
この一言に、曹操という男の本質が凝縮されていた。陳宮は恐怖のあまりその場を去るが、曹操は一人、孤独な闇の中を突き進んだ。
故郷の陳留に辿り着いた曹操は、家財を投げ打ち、各地の諸侯に「董卓を討ち、漢王朝を救え」という偽の詔――檄文を飛ばした。
彼の呼びかけに応じ、名門の袁紹を筆頭として、十八路の諸侯が立ち上がった。その中には、公孫瓚の配下として参陣していた劉備、関羽、張飛の姿もあった。
都を追われた一人の指名手配犯が、わずか数ヶ月で天下を動かす巨大な連合軍を組織したのである。曹操の才知と野心が、ついに乱世という名の舞台に火を放った。
「奸雄」としての翼を広げた曹操。彼の冷徹な意志が、これから歴史という名の激流を、自らのもとへと引き寄せていくことになる。
(第2話・完/第3話へ続く)




