#19 愛01歳の成長
少し前に知り合いから白いユリの花をもらった。
白いユリは妻が好きな花で昔いつもテーブルの上に飾ってあった。
ユリの花は甘い香りで僕を落ち着いた気分にさせてくれる。
でも時には鼻を突くような香りで不快に感じることもある。
僕も妻の影響で白いユリの花が好きになった。
もらった白いユリは気付いたら元気をなくし萎れていた。
まるでお辞儀をしているかのように下を向いていた。
花の扱いは初心者で花には申し訳ないことをした。
白いユリが差してある透明で細かい模様のある花瓶を見てみると水がほとんど入っていなかった。
前は妻が花瓶の水の交換をしていたみたいだが妻はもういない。
妻が亡くなった時、僕は思い切り泣いた。
目に涙が溢れて見るもの全てが歪んでぼやけていた。
透明な液体は頬を滑り落ちて頬の皮膚が生暖かく感じた。
味は海水ほど塩分濃度の高くない程よい塩加減だった。
妻が亡くなった後は不安になるほどの無音だった。
でも本当は無音ではなくて音が鳴っているのに落ち込みすぎて聞こえなかったのかもしれない。
亡くなる前、妻はこんなことを言っていた。
「愛は私のことを全部忘れてしまうのかな」
僕は言葉に詰まった。
出てくるのは答えにならないガラクタフレーズばかり。
僕は言葉を脳のあらゆる場所から必死で探した。
そして細い隙間から最適の言葉を見つけ出した。
「一歳の時の記憶がある人もいるからね」
一瞬だけ妻の口角は上がったものの信憑性のなさというモンスターが口角を無理矢理下に引っ張ったみたいだった。
妻の笑いは苦笑いという名前の最も美しくない笑いである。
妻の悲しい顔を見ていたら心がプレス機にかけられたくらい苦しい気分になった。
妻がいなくなった今、節約のために慣れない自炊をしている。
僕は味噌汁に入れようと乾燥ワカメを戻した。
ワカメは思っていたより増えてしまった。
乾燥ワカメのように幸せなこともこれくらい増えればいいと思った。
フライパンで鮭を焼いていると「パパ!」と目を覚ました愛が呼んできた。
それが初めて喋った意味のある言葉だった。
初めて喋った言葉がパパでとても嬉しかった。
そして愛は小さい体で必死に立とうとしていた。
ずっと見ていたけど愛はなかなか立ち上がらなかった。
その後もずっと見ていたら鼻が取れそうなほど臭いことに気付いた。
鮭は焦げてイカスミをかけたように真っ黒になっていた。
僕は慌てすぎてフライパンを素手で触ってしまった。
一瞬だけ手に電気が流れているような感覚になった。
厚い皮膚でも熱いものは熱いのだ。
フライパンを触ったことで焼かれる魚や肉の気持ちが理解できるようになった。
いや、そんな訳がない。
妻がいたときはいつも向かい合って食事をしていた。
今、見えるのは使われなくなった椅子の背もたれ。
そして椅子の後ろの見慣れない風景。
ご飯を食べていると「おいしい?」という聞こえないはずの妻の声が聞こえた。
味噌の入れすぎで涙より遥かにしょっぱくなった味噌汁を飲んで体が悲鳴をあげていた。
なので心の中で「まずいよ」と答えたのだが返事はなかった。
愛はその後すぐにひとりで立つことができた。
愛はどんどん成長していくが僕は父親として全然成長していない。




