80 この手で掴むもの
家に辿り着く前に、私は前方からこちらに向かってくる見慣れた姿を見つけた。昨日床に丸まって寝ていた人間とは思えないぐらい、しっかりとした足取りで近付いてくる。
今日のユーリはいつもの騎士団の制服ではなく、白いシャツを着ていた。この真冬にコートを羽織っていないので私は驚く。
「団長様、体調が悪化しますよ!」
「もう戻る。問題ない」
「風邪の具合はどうですか?」
「回復したよ。誰かが食事を運んでくれたから」
無愛想な顔で「ありがとう」と言い添えるので私を目を丸くする。どうやら食べてもらえたようだ。
来た道を戻り始めるユーリの後ろを私はとぼとぼ歩く。昨日の話をもう一度、とはなかなか言い出し難い雰囲気だ。健康になったのは良い知らせなのだけれど。
「困らせて悪かった」
突然掛けられた言葉に、私はそれが何に対する謝罪なのか分からなかった。ユーリが足を止めたので、つられて私も立ち止まる。前を向いたままの表情は見えない。
「クレモルン男爵から君が家に帰らないと連絡があったとき、自分の行動を恥じた。まだ十分な時間も経っていないのに、早まったと」
「違います、家に戻らなかったのは……!」
「何もべつに自分のものにしたいわけじゃないんだ。ただ、」
言葉が途切れたので前を歩く広い背中を見遣るも、ぎゅっと目を瞑ってもう一度俯いた。
「笑っていてほしい」
落とした目線の先でユーリが振り返る。
私はその茶色いブーツを眺めていた。
「嫌なことを言うヤツを平手打ちして、貶めようとするヤツらに唾を吐く権利が君にはある。誰かのためじゃなくて、自分のために生きてくれ」
「……まるで、すべてお見通しみたいですね」
「少なくとも、ここ数ヶ月はずっと見てきた」
「ふふっ、恐ろしいパートナーでした」
肩を竦めて笑う。
恐る恐る顔を上げてみると、ユーリもまたこちらを見ていた。エメラルドの瞳が宝石みたいで綺麗だとぼんやり思う。
人を信じていないと言っていた変わり者の騎士団長。美しいけれど、恐ろしくて、心配なほど孤独な人だった。
「団長様の手はまだ空いていますか?」
私の質問に、ユーリは不思議そうに首を傾げる。
「昨日は家に帰らずに教会に泊まりました。勝手な行動は反省しています。だけど、そこで大切なことを教えていただいたんです」
「大切なこと?」
「はい。私の手は私だけのもので、この手で何を掴むかは自分で決めて良いって」
サァッと風が二人の間を通り抜ける。
私は静かに揺れる自分の長い髪を気持ちよく感じた。周りと比べて憂鬱になっていたこの黒い髪も、母からの贈り物だと思えば愛おしい。
私の手は綺麗になっただろうか?
死に戻ってみて、いろいろなものをこの手で触れた。忘れていたウェディングドレスの白い布地、クレマチスの花束、冷たい雑巾、ヘルゼン宝石店の美しい石たちに、信じていた薬。
この手で触れて、離れていった。
「私は欲張りなので、もう離したくないんです」
白い手を見つめたままで言う。
二十歳の私の両手。私だけの手。
顔を上げてユーリの瞳の奥を覗く。
知らないはずのまだ幼い頃の彼の姿が、エメラルドの奥に見えた気がした。この恐怖や不安が、誰にだってあるものならば。
「私を信じてください。貴方を一人にはしません」
「それは…………」
鬼と形容される騎士団長が、束の間困った表情で片手で口元を覆うのを見守る。私は念押しするためにその大きな手に自分の右手を重ねた。
自分がこれほど積極的に行動できるとは思わなかった。もしかすると、教会での出来事が背中を押してくれたのかもしれない。どこかで見守ってくれている、母が。
「……実は、一昨日はこれを探しに行っていた」
ユーリがポケットから取り出したのは四つ折りにされた白い紙で、そこに記された名前を読んで私は息を呑んだ。
「離縁状ですか……?」
「あぁ。まだヘルゼンが出し渋っているという話は団員から聞いていたから、確認を取りたくて」
「団長様が頼んだからイーサンが快くサインを?」
「快くかは分からないが、引き換えに商会の宝石店を買い取ったよ。彼らはもう要らないみたいだったし、どのみちヘルゼンの名前では売れないだろうから」
この通り、と譲渡書を見せてくれたので私は開いた口が塞がらない。
平然とした態度のユーリと彼の手に握られた紙をいつまでも見比べる私を見て、鬼の騎士団長はわずかに顔を曇らせる。
「君を困らせてばかりだな。宝石店の売り子たちが君は仕事を楽しんでいたと言っていたから、興味があるなら続けてほしいと思ったんだ」
「私が……?良いのですか?」
「きっと皆、その方が喜ぶ」
私はユーリの手からそろりと白い紙を受け取る。
譲渡の金額には心臓が跳ねたが、真面目に働き続ければいつか返せるだろうか。「売り子たちの何人かは雇用の継続を望んでいる」というユーリに、私は黙って頷いた。せっかく軌道に乗ってきたところだったのだ、どこまでいけるか挑戦したい気持ちは大きい。
「……ありがとうございます、団長様」
「役に立てたなら良かったよ」
私たちはしばらく見つめ合って、そのまま並んでクレモルンの家まで帰った。父ダフマンやメルトンは何か言いたげな顔だったが、ひとまず部屋に戻って机の上の日記を手に取った。




