第296話 嘉兵衛は、上洛を前に旗印を考える
永禄6年(1563年)10月下旬 近江国勢多城 松下嘉兵衛
信濃に居る信玄公から手紙が届いた。勝千代が生まれた事に対する喜びと近況報告も記されていた。武田軍はこの9月に飛騨を平定したと。
「なるほど、そちらはそちらで順調に進んでいるという事ですね」
「はい。それと、大殿様よりこれをお渡しするようにと……」
使者として俺の前に座る真田弾正(幸隆)殿は、風呂敷袋に包まれた小包を差し出してきた。中身を確認すると……それは、孫子の旗だった。
「これは……」
「もうじき今川軍は京に入られるのでしょう?大蔵殿は大殿の婿君にございますので、その際は我が武田家の名代として務めを果たして頂きたいと……まあ、そういうことです」
「は、はぁ……」
しかも、この話はすでに義元公の了解を得ているらしく、逃げ道は完全にふさがれていた。俺は仕方なく承諾したと弾正殿に伝えて、面会を終えた。
「それにしても、旗印か……」
頂いたばかりの立派な孫子の旗を撫でながら、俺は考える。今まではうちの家紋『平四つ目結』の旗を掲げて戦って来たけど、次郎三郎だって『厭離穢土欣求浄土』の旗印を今回の戦いでは掲げていたのだ。16万石の大名になったことだし、なにかないかと。
「ですが……今しがた、この孫子の旗を掲げると約束されたばかりでは……」
「もちろん、この旗も掲げるが……信玄公ももう一つ諏訪法性の旗も掲げているだろ?並ぶ形で掲げてもいいんじゃないかと思うんだけど……」
まあ、そうは言っても、そんなにすぐには思い浮かばない。藤吉郎とああだこうだと言っているうちに次の予定のお時間となって、俺は次のお客様を出迎える。それは、叡山からの使者だった。
「随風と申します。座主様の使いとして参上いたしました。まずは、こちらをお改め下さいませ」
差し出された書状を受取り、中身を確認する。そこには、覚恕殿に持ち帰って頂いた内容をすべて認めると書かれていた。加えて、お隣さんになったからには、今後平和的に付き合いたいとも。
「承知いたしましたと、お伝え下さいませ」
「畏まりました」
そして、これでこちらの用事も終わり、後は見送るだけのはずだったのだが……
「そうだ!」
藤吉郎が突然声を上げて言い出した。「折角お越しいただいたのだから、先程の旗印について相談しては」……と。
「な、何を言っている。意味が分からんぞ?」
「だって、次郎三郎殿の旗印は、菩提寺のお坊様に書いて頂いたと聞きましたぞ。それならうちも……これも一期一会の縁ではないかと左様に思いまして」
いやいや、確かにこういった旗印を僧に相談してというのはわかるけど、しかし、それがどうして初対面のこの随風殿に……となるのだ?益々意味が分からない。
「一期一会の縁とは面白い事を言われますな」
だが、その随風殿の方は、藤吉郎の申し出をクスクスと笑いながら承諾してくれた。そして、文言を見定めるために、俺の人となりを俺では無く藤吉郎に訊ねる。
「そうですな……殿は度が過ぎる程のお人好しで……」
「ふむふむ」
「ただ、その一方で下半身の方は暴君で、奥方様に幾度となく殺されかけるほどに不誠実でございまして……」
「おい、藤吉郎!そこまで話すこともないだろ!」
「いえ、これは非常に大事な事です。藤吉郎殿……その辺りのお話をもうちょっと詳しく……」
「承知しました!」
こうして口を封じられて、俺は褒められているのか、それとも貶されているのか微妙な藤吉郎の話を聞かされて、ライフポイントをごっそりと削られていく。挙句の果てにおとわまでやってきて、どれほど泣かされたのかと愚痴をぶち撒かれる。
「もういや……やめてくれ」
「わかりました。では、これで最後の質問にしますが……大蔵殿」
「なんでしょう……」
「あなたは、今川様を天下人にして、何を求めますか?権力ですか、それとも富や名誉ですか?」
「そうですねぇ……それらも欲しいと言えば欲しいですが、一番欲しいのは平和な世ですかな」
「平和な世ですか」
「誰もが命の危険にさらされず、揉め事は話し合いで解決する世の中だ」
前世では当たり前だったあの風景をこの世界で実現したい。俺が一番求めているのは、その一点だ。
そして、最後の質問を終えて、随風殿は静かに紙に向き合い、筆を走らせた。




