第242話 嘉兵衛は、隠居の裏事情を知る
永禄4年(1561年)10月中旬 信濃国深志城 松下嘉兵衛
「隠居って……どういうことですか?」
信玄公の、突然の隠居宣言に俺は戸惑いを覚えて、ついそのように口にしてしまった。
「なんだ、大蔵は反対なのか?」
ただ、返す力でそのように言われると冷静になって考えることができた。そもそも俺は部外者だし、別に隠居されたとしても困らないわけで……だから、まずはその理由を伺う事から始めた。
「儂が隠居する理由はいくつかある。そのひとつは、此度の和約による北条家への対応だ」
そして、信玄公は語り始めた。今、口になされた北条家への対応だが、上野に援軍を送ることができないと言っても今の充実した武田家の状況では納得のいく説明が難しく、それゆえに、代替わりを行うことで、その事を兵が出せない理由にしたいと。
「まあ、確かに代が替われば、家中が落ち着くまでは……という言い訳はできそうですね」
「そうだ。儂の狙いはそこにある」
俺が提案した際には、北条の弱みを付け込んで押し切るという流れであったが、信玄公は仰せられた。それでは後の世に禍根を残しかねないと。だからこそ、北条が納得できる理由を用意したいらしい。
「それで他には?」
「家中に穴山を誅したという噂が広まっている。これについては……大蔵。そなたに心当たりがあるだろう?」
「心当たり……?」
「それって……前に海津城で、武田の方々に訊ねられて答えた話ではないのか?俺は止めたのに、大蔵殿は『穴山殿は殺される』……と」
「あ……!」
そういえば、確かに言った覚えがあった。すぐに上杉との和睦とかの仕事で忙しくなったから忘れていたけど……なるほど、あの話が家中に広まっていたところに今回の病死が報じられたら、疑いの目が向けられるのも無理のない話だ。
「これは、申し訳ありませんでした」
「謝られてももう遅いわ!三条からも怒りの書状が届いたし、どうしてくれるのだ!儂……家に帰れなくなったのだぞ!!」
信玄公は苦笑いを浮かべられて、義信公に家督を譲られるのは、三条の方様を宥めるという目的もあることを認めた。かねてより、代替わりを望んでいたからと。
しかし、それが隠居の理由って……だめだ、笑いが止まらない。奥さんに家を追い出されたからって、いくらなんでもあり得ないだろ!
「笑うな、大蔵!そもそも、おまえが原因なんだぞ!!」
「くく、はは……ですが!」
「……なんなら、おまえも同じ目に遭わせてやろうか?嫁に全部知らせるぞ。此度の出張でおまえがどんだけ遊んだのかを……」
あ……我が身に降りかかって、やばいと思った。そんな事をされたら、間違いなく俺は家の敷居をまたぐ前に蜂の巣だ。
「重ね重ね申し訳ございませんでした!もう笑いませんので、どうか……おとわに知らせるのだけはご勘弁を!」
「ふん!その分、佐保を幸せにしろよ。泣かしたら、全部バラしてやるからな!!」
俺は「わかりました」と全力で誓った。嫁が怖いのは……俺も一緒だ。
「しかし、隠居なされて今後どうなされるのですか?」
「それよ。儂はこの機に乗じて、この深志城を足掛かりにこれより飛騨……さらにその先の北陸を目指そうと思っておる」
それは俺が義信公に提案したことを入れ替えただけの話だった。飛騨を征したら、信濃を返上して半ば独立して後は好き勝手にやるつもりらしい。そして、それらの領地はいずれ四郎君に譲るつもりだと仰せられた。
「では、四郎殿が尾張に来るという話は……」
「それはそのまま進めたいと思う。もちろん、尾張殿が嫌だと申せば、考え直すが……」
「いえ、某としては問題ありません。いつの日にかお返しする日まで、我が弟と思ってお預かりしましょう」
「うむ、よろしくお頼みしますぞ」
俺は聞かされていなかったが、四郎君は犬姫との結婚を期に織田家で預かるという話が進んでいたらしい。武田家のお家騒動に巻き込まれないためにと。
「もちろん、太守様の了解を得ている」
「ならば、某からは何も言う事はありませんな」
それにしても、帰国したら祝言が重なるな。目出度い話だ。




