第239話 嘉兵衛は、甲越和睦の仲介をする(5)
永禄4年(1561年)10月上旬 信濃国海津城 松下嘉兵衛
上杉家から宇佐美殿と直江殿がやってきて、武田家の飯富殿、馬場殿と対面する。表向きはこの川中島における休戦協議だから、それぞれの当主は参加しない形式を取っている。これは、北条の目を配慮しての対応でもある。
だから、表向きの仲裁役を務めてもらう善光寺の住職も、「それではこれより休戦協議を始めましょう」と口にする。しかし、これらの全ては茶番であり、密約は……すでに成立している。
「では、双方これより10日以内に兵を退かれるということで……」
「承知した」
「こちらも同じく承知した」
なお、信玄公が懸念されていた小笠原、村上の去就だが、いずれも武田家への士官は拒むということだった。この結論については、俺も上杉家の方も特に何か干渉をしたわけではない。やはり、武士の意地があるそうだ。
「大蔵殿」
「これは小笠原殿」
しかし、それなのになぜ小笠原殿がこの海津城に居るのかと言えば、一族揃って今川家に仕官したいと言い出したからだ。上杉に残ったところで、先が見えているからと。もちろん、この件については岡崎に早馬を出して、義元公の了解は取っている。
「これからどうか、よろしくお願いいたしまするぞ」
「こちらこそ」
尾張に帰国すれば、次はいよいよ美濃攻めが始まる。ただし、前線に出れば、岡崎や駿府の状勢に疎くなりかねず、小笠原殿にはその辺りの情報を伝えてもらう役割をお願いしている。
「では、某は出立まで部屋に……」
「心得た」
そして、上杉家の方々が立ち去ったことで信玄公がお見えになられた。小笠原殿が部屋に戻ると言い出したのは、その信玄公と顔を合わせたくないということだろうが、一方で当の信玄公は「逃げなくてもいいのにな……」と笑う。
「まあ、仕方ないのでは?手酷くやったのでしょう」
「昔の話だ。儂はもう忘れた」
「あちらは、そうはいかぬのでしょう」
信玄公は愉快そうに「そうだな」と笑って、それから俺の肩をポンポンと叩いた。「よくやってくれた」と言って。
「それで……此度の労をねぎらい、そなたに是非貰ってもらいたいものがあるのだが……」
「何をくれるのですか?甲州金ですか、それとも太刀ですか?」
まあ、どちらでもいいなと思う。貰っておいても邪魔になるものではない。
だけど、信玄公は思いもよらぬものをくれるといった。それは……娘と。
「もちろん、側室で良い。何しろ、佐保は一度穴山に嫁いだ身だ」
「お、お待ちを!佐保姫様と言えば……穴山殿に嫁いでいるはず……」
側室として貰い受けるか否かという話以前に、明らかにおかしなことを信玄公は言っている。穴山に嫁いでいる娘を俺に嫁がせるということは、まさか……
「ほう……その顔、やはり気づいたか。もっとも、こんな立ち話で口にできる事ではないがな」
もっともだ。穴山は武田家の御一門で重臣の一人だ。それを暗殺する話など、こんな場所でなくても口にする事は躊躇われる話だ。
「それで、もらってくれるな?」
「いや、お待ちを。そういう話は嫁の許可を得なければならず……」
「そうなのか?」
「はい」
許可を得ずして連れて帰ったら、確実に鉄砲の的になってしまう。だから、その未亡人になる姫君の事は可哀想に思うけれども、何とかご辞退したいと俺は口にした。しかし、信玄公は退かれなかった。
「そなた、政虎とは浮気したくせに、うちの娘はダメだというのか?」
……喜兵衛の嫁にお菊ちゃん宛のラブレターを転送してやろうと心に決めたが、ただこうして浮気のネタを握られてしまえば、拒む道は残されていなかった。
「もちろん、そなたの立場は配慮する。義元に頼んで嫁の折檻を回避できるように手も尽くそう。だから、頼む。同情でも哀れみからでも構わんから、貰ってもらえないだろうか」
「……わかりました。それで、時期はいつ頃に?すぐではないのでしょう」
「ああ、そうだ。時期としては2年から3年後といったところだろう」
つまり、それまでに穴山は始末されて、それから心を癒されてやってくるという事か。しかし、どんな娘なのだろうか。齢は17歳ということらしいが……。




