第201話 嘉兵衛は、旅立ちの朝に
永禄4年(1561年)3月中旬 尾張国古渡城 松下嘉兵衛
越後の長尾景虎が関東に攻め込んでから来月で半年を迎えようとしていた。北条方の城はその多くを奪われて、本拠地・小田原すら危ういという話はちらほら、この尾張にも届いていた。
そして、そんな小田原・北条家を救う一手として、武田家は北信濃に兵を出すことを決めて、俺たちはその援軍に向かう。同行するのは、百名余りの兵と藤吉郎と慶次郎、それに武田家に帰還する源五郎であった。
「いいか、小一郎。儂の留守中、頼んだぞ」
「兄者……無理だって。簿記は覚えたけど、お家の財政を管理しろって言われても……」
「なぁに、誰にだって始めはある。ほな、任せたぞ!」
「兄者!?」
端から聞いていたら、かなりの無茶振りのような気もしないが、方久殿に頼んで、銭勘定に明るい手代を二人ほど派遣してもらう手はずは整えているとか。だから、余計な口を挟まずにこの場は見守ることにしている。
「藤吉郎さ!」
「寧々殿!」
ちなみに、今やって来た寧々とは上手くやっているようだ。あずさなどは、「まだまだ勝負はこれからよ!」とか、喚いているが……実際には勝負ありだ。川中島から帰ってきたら、祝言を挙げると聞いている。
「道中、お気をつけて!これ……お守りよ!」
「こ、これは……かたじけない!ちなみに、寧々殿のお手製か?」
「そうよ!裁縫は得意だからね。心を込めて作ったわ!」
へぇ……前世の知識とは異なり、欠点だらけでどうしょうもない不良娘だと思っていたけど、寧々にはこういった一面があったのか。その仕上がり具合は、神社で売りに出してもいいほどの出来だった。
「おや?寧々殿。俺にはないのかね?」
「ありません!藤吉郎さだけ無事だったら、わたしはそれでいいので!」
だけど……それをここで言うかな?からかった慶次郎が固まっているが、寧々は周りを見た方が良いと思う。後ろに目を吊り上げたお鈴殿が拳をスタンバイさせて、もう間もなくその頭に落とそうとしているのだから。
「いたっ!?」
「貴女も松下家の一員なのですから、恋人の事を思うよりも、まずは殿のご無事をお祈りするのが筋でしょうが!それを……自分勝手なことを!!」
部屋に帰ったら反省文を書いてもらうと告げるお鈴殿に寧々は「ええ!!」と抗議の声を上げるが、その時何かを思い出したのか。もう一度藤吉郎に近づいてから、小包を渡した。「お弁当です。食べてください」と頬を染めながら。
「ち、ちなみに……これももちろん、藤吉郎殿の分だけだよな?」
「すみません……皆さんの分までは頭が回らず。おにぎりだけでいいのなら、今すぐ作ってきましょうか?取っておきのキノコもまだありますし……」
「い、いや!それには及ばぬ!そうですよね、殿?」
「お、おう。我らは一刻も早くここを発たなければならないからな。その気持ちだけで十分だ……」
俺と慶次郎が必死にその申し出を断ると、寧々も無理強いはしなかった。藤吉郎が口をパクパクさせて、何か救いを求めるような目を向けてきたが、こればかりはどうしようもない。
強く生きろよと念じて、目を背けることにしたのだった。
「ところで……お鈴殿」
「はい、何でしょう?」
「おとわとあずさはどこにいるのかな。さっきから姿が見えぬが……?」
川中島に行けば、おそらく何か月かの間は留守にするはずだ。それゆえに、綾や菊幢丸、それに虎松は居るのに、なぜ二人の姿がないのか。不思議に思って俺は訊ねたわけだが……
「実は……」
お鈴殿が言うには、おとわは今朝から気持ちが悪いと厠と寝所を度々往復しているらしく、今は安静にさせているとか。加えて、あずさはそんな母の側でお世話をしていると。
しかし、その症状って……はっきりいって、心当たりがあった。
「もしかして……また子ができた?」
「おそらくそうでしょう」
身に覚えのあるタイミングで考えると、産まれるのは秋頃になるはずだ。果たして、それまでにいくさを終えて帰れるのだろうか。
ただ、それよりもまずは見舞いに向かう。出立は……それが終わってからだ。




