EpilogueⅡ:宮守飛鳥の嘘
愛する――それはお互いに見つめ合うことではなく、
一緒に同じ方向を見つめることである。
サン=テグジュペリ
鷹巣幸助が宮守飛鳥と再び会うことになったのは、美奈の告白からおよそ四ヶ月後、町の装いが西洋風から急に和の色に変わる、そんな季節だった。元恋人と再び連絡を取るのは難しいように思われたが、実際は拍子抜けする程に簡単だった。欽二が時々ではあるが飛鳥と連絡を取り続けていたからである。故に、旅行から帰った直後に幸助が飛鳥ともう一度会って話がしたい、と打ち明けただけで、全ての過程は難なく果たされたのであった。
その気になれば九月の中旬にでも会うことは出来ただろうが、それは飛鳥側の都合で叶わなかった。それだけの時間があれば、美奈が告白したこと、それに対する幸助の反応、幸助と欽二の過去と美奈の嘘が旅行サークル全員に共有されるのも文字通り時間の問題だった。そして、彼らの秘密が暴露されてもその絆が揺らがなかったのもまた事実だった。
飛鳥は事故が原因で一年留年し、今は短期大学の二年生で就活の真っ最中だと欽二から聞いていた。だからなかなか都合がつかず、年末のこの時期になったのだと幸助は推定していた。
帰省した実家から歩いていける距離に、待ち合わせ場所はある。交際していた時には何度か待ち合わせに使った、駅から少し離れた寂れた広場だ。誰のものなのか知らない銅像が建てられている。
焦げ茶色のコートにオレンジのマフラーを巻いた幸助は、約束の二十分前に到着した、年末の忙しさで人通りはあるが、この寒空の下、広場で休もうという人間はいなかった。飛鳥がまだ来ていないことを辺りを見回して確認してから、彼はベンチに腰掛けた。腕時計を見て、良く分からない銅像を見て、小雪の舞う空を見て、あるいは行き交う人の流れを見て、彼はそわそわとした態度で時間を潰していた。飛鳥からのメールは入っていない。そろそろか、と思った待ち合わせ五分前。ついにその人は現れた。
「おまたせ、幸助」
青年は立ち上がって振り返った。だが、目の前にいる水色のダッフルコートを着た女性が宮守飛鳥だとは認識できなかった。彼女が元気そうに、二本の足で立っていたからである。
金髪のウィッグのために短かった栗色の髪は長く伸ばされて頭の後ろでまとめられている。当時より化粧はかなり薄く、面影があるかと言われれば答えに窮する。しかしその声と笑顔は間違いなく、彼の記憶にある飛鳥の姿そのものだった。
「本当に来てくれたんだ。嬉しい」
「どういうことなんだよ……」
幸助は状況が飲み込めなかった。飛鳥は幸助の二輪車にはねられて骨盤を痛め、もう歩けない体になったと、そう語った。だから彼はずっと、彼女が車椅子に乗って現れるものだとばかり思い込んでいた。だというのに、杖さえ使わずに立っている。
「話したいことはいっぱいあるよね。今日一日のデートで全部話すよ」
呆然としている幸助の手を取って、飛鳥は駆け出した。
学校帰りに二人で並んで歩いた並木道。街路樹の葉はすっかり落ちて、風が吹く度にびゅうびゅう言っている。
「欽二から話は聞いてたよ。私のことがトラウマになってて、記憶の底に封印しようとして知らないふりをしてたって」
「封印したかったんじゃない、いや、忘れたかったのは本当だけど、俺は無意識のうちにお前のことを忘れてしまっていたんだ」
「何それ、マジ?」
「本当に記憶から消えてた。体が飛鳥の記憶を拒否したんだと思う。ひょんな事で思い出すまでの三年くらい、完全に記憶は消えていた」
「ひょんな事って?」
「お前にそっくりな人に出会った」
「おー、私のドッペルゲンガーに会っちゃったんだ。不思議なこともあるもんだね」
二人は既に手を離していた。飛鳥は飄々と笑顔で歩いているのに対し、幸助は俯きがちに飛鳥に疑いの目を向けながら彼女を左前に見ていた。
「そうだよ。その人に会って、俺は過去の罪を思い出して、飛鳥を傷つけたことが心の底にわだかまっていることを思い出したんだ。なのに、なのに何なんだよそれは! 俺が今まで苦しんでたのは、あの時間は一体何だったんだ」
「ね、あそこ入ろうよ」
彼女が指したのは、デートコースだったドーナツ屋だった。互いに欲しい物を注文して、二人掛けの席に向かい合って座る。
「つまり私は、幸助を騙したってことなの」
「やっぱり、そういうことか」
深刻な事を話していても、飛鳥のテンションは相変わらずだった。まるで昨日見たテレビの内容を話しているかのようなトーンだ。
「冷静になった今なら分かるけど、確かにあの話は嘘だったって証拠がいくつもあったよな。例えば、歩けなくなるくらいの重症だったなら、打撲の俺と同じ病室に入れられるはずがない」
「へえ」
「俺に対する損害賠償だってかなりあったはずだ。なのにそういう話が舞い込んでこなかった。お前が実は軽傷だったからなんだな」
「そう。私が自殺するつもりだったって言ったのも理由かなとは思うよ」
「歩けなくなったっていうのも、妊娠できなくなったっていうのも、完全な口から出任せだったのか」
「そうだよ。本当にそういうことが起こるかどうかなんて私は知らないもん。適当な事を思いつくままに言っただけ」
「じゃあどうして嘘を吐いて俺を騙したんだ」
「幸助を私から遠ざけるためだよ。君は優しいし真面目だからさ、これだけ傷つけたってことにすれば、二度と私には近づかないだろうし、まともな道を歩んでくれるんじゃないかって、そう思ったのよ」
「そんな事しなくたって、俺はお前から逃げる道を選んでいた」
「そうなんだ。でも理由は一つじゃない。大地はあの事故で、私があわよくば死ねば良いって思ってた。だから怪我をしない訳にはいかなかった。それで私は大地を納得させる嘘を言ったのね。そういう死んだも同然の大怪我なら、満足して私からも幸助からも離れていくだろうって考えたの」
「それで、鴨宮さんは?」
「幸助を殴ったあの日以来、一度も会ってない。文字通り見捨てられたんだよ」
彼女は相変わらず明るいトーンで語る。何事もないかのように振る舞う彼女の姿が、幸助には辛かった。自分が記憶を失うくらい苦しんでいたのに、この女は嘘を吐いて全てを切り捨ててのうのうと生きていた。受け入れることも、許すことも出来ない。
飛鳥はブレンドコーヒーに口をつけた。対する幸助は完全に言葉を失っていた。
「どうしたの? 何か喋ってよ」
「何だよそれ」
幸助はテーブルに肘をついて、その手に額を載せた。これ以上飛鳥の顔を見ていられない。自分の情けない顔を見せられない。
「これなら、忘れたままの方が幸せだった。思い出したくなんてなかったよ。だったらこんな気持ちにもならなかった」
「幸助?」
「もういいよ、飛鳥。お前はそのままお前の順調な道を歩んで行けば良い」
抑揚のない声で言って彼はドーナツを口に押し込み、ジュースで一気に流しこむ。トレイを持って返却口に置くと、そのまま逃げるように店を後にした。
店を出てから彼は、とにかく飛鳥を振り切れるように曲がり角を駆使して逃げた。何度となく携帯電話が鳴るが、鬱陶しいので彼は電源を落とした。逃げたとはいえ、この小さな町にいる限りはいずれは見つかってしまうだろう。そうしなかったのは、彼も心の何処かで本当は逃げずに向き合わなければいけないと分かっているからだろう。
彼は川沿いの道にいた。さく、さくと雪を踏みしめながら彼は歩く。時折吹き付ける風が彼の髪やコートを揺らした。後ろを振り返っては、誰かが追いかけてきていないか確認する。彼はこの街に一人だった。故郷であるはずなのに、頼れる人が一人もいない街。信頼できる人の住まない街。居心地が良かったはずの場所は、数年で様変わりしてしまった。
彼の目の前に現れたのは、いつかの橋。彼から見て右側の道路からバイクで一直線に突っ込んで、飛び込んできた飛鳥と接触し転倒した。その『事故』があったからか、歩道と車道の間にある柵は以前より高くなっている気がした。右側からピザ屋のバイクが来て、交差点を突っ切って橋へと突入するのが見えた。幸助はそのバイクを目で追い、その橋へと足を踏み入れた。
風が一際冷たくなったような心地がする。山に挟まれて流れるこの川は、風が強く抜けることでも知られている。背中側には丘に築かれた市街地、正面にはまだ緑の残る山と、そこを切り開いて作られた団地がひしめいている。飛鳥はその団地の一つに住んでいた。すれ違う人の姿はない。彼はゆっくり歩きながら意識が遠のきそうになるのを感じていた。風が吹く度、あるいはタイヤチェーンのガリガリいう音がする度に、彼は現実に戻された。
橋も半分に差し掛かる。川幅自体はそれほどでもないが、両土手を直接結ぶので橋は思った以上に長く感じられる。だからこそ彼は速度を上げて、あのような事故を起こしてしまったのだ。当時は街灯が壊されていて視界は悪かったが、それも考慮して安全運転だったら、自分と飛鳥はどうなっていただろうかと彼は思う。鴨宮大地は、二人を罰するために計画を建てた。それは事実だろう。そのためには小さくない怪我をする必要があり、飛鳥はそのための嘘を吐いた。怪我が出来ないレベルの衝突だったら、一体どのような仕打ちが待っていたのか想像さえ出来ない。河原に投げ落とすくらい、平気でやってのけるだろう。生きているだけ良かったと言うことも出来る。
しかし、彼はそれで良かったのかと迷い始めていた。これは、自分が犯した罪に対する罰なのだ、そう思わずにはいられないからである。親の言葉を無視したこと、不良の道へと足を踏み入れたこと、他人の恋人を奪ったこと。刺激に満ち溢れた生活ではあった。しかしそれは、彼が歩むべき、人としての真っ当な道を踏み外したことによる犯罪的刺激に過ぎない。もしあんな馬鹿なことをしなければ、家族の中に不和を起こすことも、誰かの人生を破滅させることも、罪の意識に苛まれることもなかった。それに対する罰は、死が相応しかったのではないだろうか、そんな事を彼は思い始めていた。ここから川に飛び降りれば、低体温症で死ねるかも知れない。
彼はこんな時、その判断は正しいのかともう一人の人格に相談をする癖があった。彼に問う。ここで死んで償いをするべきだろうかと。彼は答える。それで償いになるなんて頭おかしいんじゃないのか、お前はそんな事をするためにわざわざこっちに戻って飛鳥と再会したのか、と。
脳裏に旅行サークルの仲間の顔が浮かぶ。欽二は絶対に彼のことを許さないだろう。彼は彼で、幸助を支えることが償いだと思っているのだから。菜摘は、どうだろう、表面上は案外ドライな反応かも知れない。それでも、大事な友達を失った悲しみで、一人で泣くだろう。そして美奈は……もしここで自殺しようものなら、一番悲しむのは彼女だ。好きだと告白して、彼の心の整理がつくまで待つと約束し、今がその時だというのにそういう結果で終わったら、きっと美奈は自分が彼を好きになったことで死なせてしまったと酷い後悔に襲われるに違いない。仲間を裏切るような真似は、彼には出来なかった。戻って、もう一度飛鳥と話し合おう、そう思って顔を上げた、その時である。
「やっぱりここにいた」
飛鳥が現れた。
「よくここだって分かったな?」
「勘!」
「敵わないな」
「あのさ、幸助――」
「分かってる。俺も突然逃げ出して悪かった。歩きながら少し話さないか」
二人は自然の残る向こう岸へと渡った。
「私は幸助との連絡を断ってからも、欽二とはメールのやり取りを続けてたんだ」飛鳥は言う。「それで幸助の変化のことも聞いてた。私のことを忘れてるっていうから、無理矢理忘れてるふりをしてるんだとずっと思ってた。でも、本当に忘れてるだなんて思いもしなかった」
今度はきちんと二人で横並びに、前を向きながら歩いている。
「欽二には、私が幸助に言ったことは嘘だっていうことと、それを絶対に教えないように言ってあったの。それで、私が幸助を救うために吐いた嘘で幸助が苦しんでるって欽二から聞いて、私も辛かった。私達と関わりを持たないことでもうこんな事は起きないだろうって思ってしたのに、こういう結果になっちゃうなんて、悔しいと思った」
だから彼女も彼女で、いつかは幸助に本当の事を言って謝ろうと思っていた。しかし、幸助が飛鳥のことを忘れようとしていたならば、たとえそれが謝罪目的でも会うことは憚られたのだ。それでもいつか彼がもう一度会うことを望む日を夢見て、じっと欽二とのパイプを維持し続けていた。そして別れの日から約四年後、彼女は欽二から念願の連絡を受けたのである。それを聞いた彼女は、声を上げて喜んだ。彼女は短大生なので忙しいと欽二に言わせたものの、実際には四年制大学に現役で合格しており、九月中に会うことは本来可能だった。だが彼女は、今幸助に会ってもどういう顔をして、どういう言葉をかければ良いのかが分からなかった。そういう訳で、彼女自身も心の整理をつけるためにも時間を必要とし、結果としてこの時期になったのだ。
「ごめんね、私のわがままのせいで」
「別に良いよ。俺もいきなり会うってなってもどうしたものか分からなかったから」
二人は山を登りながら、団地の中に入って行った。雪にはしゃぐ子供達の姿が見える。
「ごめんね、私が幸助に勝手な縁を感じてアプローチ仕掛けなければ、こんなことにもならなかった」
「縁ならしょうがない。単なる偶然、だろ」
突如として現れた藤のトンネルを抜ける。階段を覆うように金網が張られ、藤が絡みついていた。
「さっさと大地と縁を切っておけば良かったのに。どうしてそうしなかったんだろ、私の馬鹿」
「何言ってんだ、人のものだと知ってて乗り気になってた俺だって同罪じゃないか」
登るにつれて、景色が良くなっていく。ここも、彼ら二人で何度か訪れた場所だ。
「それに、私が嘘を吐いたせいで多くの人を巻き込んだ!」
「それは……」
フォローする言葉が見当たらない。
「嘘を言うのは大地だけで良かったのに! 幸助には本当のことを言うべきだったのに!」
「でも飛鳥、もし俺に本当は軽傷なんだけど鴨宮さんには重症だって言う、なんて言ってたら、俺はやっぱりお前との関係を続けてたと思う。それはやっぱりいけないことなんじゃないのか」
「どうだろう。私もう分かんないよ」
彼らは、この団地の一番高いところにある公園にやってきていた。広場にはベンチが幾つか並び、団地と街をある程度見降ろせるようになっている。気づけば雪が止んでいた。彼らの眼下では徐々に明かりが灯り始めていた。毎日変わらない、この街の日常がそこにあった。公園にいるのは二人だけ。まるで彼らが世界から取り残されてしまったかのように錯覚しそうになる。
幸助が手すりにもたれかかって感傷に浸っている間、飛鳥はベンチの雪を払って二人分のスペースを作っていた。二人はそこに、隙間を開けて座る。
「欽二からも色々聞いた」
飛鳥が正面を向いたまま言った。
「例えば?」
「どうして幸助が急に私と決着をつけたいって言い出したのかとか」
「お前のことを思い出したからだって言ったろ」
「それだけなら、あんなに焦るようにしなくても良かったよね? 最初のメールからそういう感じが伝わってきたよ」
「まあ、そうかも知れない」
「本当はね、こういうのはいけないんだけど」と飛鳥は一呼吸置いて「欽二は幸助から直接聞けって言って話してくれなかったんだけど、どうしてもって聞き出したの。私に会う本当の理由」
幸助はゆっくりと横顔を見る。
「好きな子が出来たからなんだってね。彼女の方から告白したけど、私のことが引っかかっててOK出せないから保留にしたって」
「あいつは口の堅い奴だと思ってたのにな」
「私の嘘のせいでその子まで悲しむことになっちゃうのなら、私に大きな責任があるよね」
「嘘のせいで多くの人を巻き込んだってのは、美奈のことも含めてだったのか」
「そうだよ。あのグループに関わってた人ならまだしも、無関係な人、幸助の過去を知らない人まで不幸にするのなら、私それに耐えられない! だからね、幸助。私も、そのトラウマを治すのに協力したいんだ。私の体は傷ついてない。きちんと歩けるし子供も産める。全部、嘘だったんだよ」
飛鳥もようやく幸助に向き直って、その涙に濡れる目を隠さなかった。
「だからもう心配いらないでしょ」
「飛鳥……」
幸助は思わず、彼女の頬に触れてしまいそうになった。
「許してくれる?」
「そんなの当たり前だろ」
「不器用な私でごめんね」
そう言って泣き始めた彼女に、幸助は優しく出来ずにいるのが辛かった。彼女と決別して美奈との関係を始める、そのつもりであったのに、飛鳥を慰めてその絆を取り戻してしまったら、美奈の思いを裏切ることになりかねない。彼はもう飛鳥の姿を見ていることさえ出来なくなった。
「やっぱり、私まだ幸助のことが好きなんだ。幸助に怒られるか許されるかして、新しい恋を始めさせるつもりだったのに、どうしてかな、会ったらやっぱりよりを戻したいって思っちゃう。それはいけないことだって分かってても、しがらみのなくなった状態でまた最初からやり直したいって、心の何処かで私思ってた。ああいう出会い方さえしていなければ、もっと素敵な恋人同士になれたはずだって、そんな風にも思うんだ」
飛鳥が一方的に喋るのを、幸助はじっと聞いていた。短い間に起こった様々な出来事を反芻し、これは、特定の一人と愛で繋がっていたからこその喜びだったのだ、と。彼女も幸助と別れて以来、異性関係は完全にご無沙汰だったと告白した。
「二人して同じだったなんて、馬鹿みたい」
幸助は最後の暴露が嘘だと直感的に確信した。だが、それをわざわざ口にして咎める程彼は愚かでもないし心の余裕もなかった。
「だったらさ、その子には悪いけど、もう一度やり直さない?」
無理矢理幸助の手を取り、顔を近づけてキスをせがむ。幸助はそれを冷たくあしらった。
「お前のことは嫌いじゃない。でもな、だからといって、やり直すつもりは俺にはない。美奈を裏切る真似は、俺には出来ない」
「さすがだよね。でもいいでしょ、ちょっとくらい」
「本人が見ている前でなくても出来ない」
「あれ、幸助も気づいてた?」
「まあな。欽二が尾行してたら、嫌でも気づく。というか飛鳥、分かっててキスしようとしたのか」
飛鳥はいつものテンションに戻り、軽い足取りですっくと立ち上がり、踊るようにターンする。
「そういう真っ直ぐで真面目なところが私が好きになったところだし、美奈ちゃんも気に入ったんだと思うよ」
「まさか俺の知らないところで会ってるんじゃないだろうな?」
「さあどうだろう。私には関係のない話だし……これで吹っ切れた?」
「お前がか?」
「私はね。あとで連絡先とメール、また全消ししとくね」
「別にそこまでする必要はないんじゃないか」
「幸助も消してよね。前の女と連絡を取り続けてるって知られたら怖いよ。嫉妬と復讐に関しては女はプロだよ。偉い人がそう言ってた」
「どんなプロだ。美奈は……大丈夫だよ、俺のことを信頼してくれてるし。メールくらい、別に何とも思わないさ」
「あーもー! 惚気話が聞きたかったんじゃないのに! で、そこまでの関係ってことは、週一ペースでヤってる系?」
「お前は中学生男子か」
「実際はどうなのよ」
「間接キスに抵抗がないくらい」
「お前らは小学生か」
「おい、誰のせいだと思ってる」
「ごめんごめん、そんなムキにならなくてもいいじゃん。いつもの軽い冗談でしょ」
「あのなあ」
「私の分まで大事にしてやりなよ、そこまで思ってくれてるんだったら」
「もちろん」
「じゃあはい、これは餞別」
飛鳥は肩から提げていたバッグから紙袋を取り出して、幸助に渡した。表面には街の本屋のロゴが入っている。サイズ的に実用書のようだ。
「何の本?」
「それは開けてからのお楽しみ。じゃあ私は帰るね。彼女によろしく――言わなくて良いか。またね」
「ああ、またな」
飛鳥は柵に沿って公園を去った。尾行している連中と鉢合わせしないようにするためだろう。
幸助は手渡された本を入れられるポケットがないか探したが、本が大きすぎた。携帯電話を操作しながら目の前に広がる風景を見る。夕日が差し込んで、町並みが赤く染まっていた。美しいはずなのに、どこかもの寂しい。彼が異世界に連れ去られたあの崖と似ていると思えた。
飛鳥が自分の許から去ったが、喪失感は不思議となかった。彼女のことを忘れたままで生きていたせいだろう。わだかまりがなくなって心が晴れやかになったような、それでいて大事なものをどこかに忘れてきたかのような、そんな複雑な心境だった。まるで目の前の、夕刻の雪の街のようだ。
戻ろう、俺のいるべき場所へ。
彼は『彼女』へと電話をかけた。




