ChapitreⅩⅩⅤ:そして世界は破滅へと
己がある刹那に向かって「とまれ、お前はあまりに美しい」といったら、己は存分に料理されていい。己は喜んで滅んでいく。
ゲーテ『ファウスト』
「昨日の夜中にシリウスさんが来たわ」
新たな問題を認識した彼らは、既に夜も更けていたので考えることをやめ、一眠りしてから策を練り直すことにしたのだった。今は、マチルドの荷車にあった保存食を食べている。
「何か伝言ですか?」
とアークが問いかける。
「伝言、かしらね。村長との交渉が失敗して、三日後、つまり明後日には戦争を仕掛けるそうよ」
「失敗したのか。じゃあそれまでに俺達もここから逃げないとまずいってことですよね」
「そうね」
続けて、シリウスの手紙のこと、冬場に戦うと鳥が有利なことを話した。
「そういうところも引き継いでいるんですね」
スピカが興味深そうに言った。
「ええ、だからこういう雪の降る場所に住むのは普通、獣系の亜人の集落なんだけど」
「猫、犬、狐、栗鼠、兎……会ってみたいですけどそんな場合じゃないんですよね」
「そうよね。いっぱい食べて頭を働かせなくちゃ」
それを受けて、幸助が魔女に問う。
「そういう鳥とか龍とか猫とかの力って、呪いとは無関係なのか?」
「関係ないわ。少なくとも、呪いが発動する前からそういう人々がこの世界における知的生命体であることを確認しているわ。私達には動物的な能力の代わりに魔法が備わっていた、そう考えて良い。そういう点で見れば、魔法使いはあなた達人間に限りなく近いと言えるわね」
「そうよ、あなた達だって魔法が使えるじゃない」
いきなりマチルドがそんなことを言い出すので、幸助と美奈は面食らった。
「だって、鉄の鳥が空を飛んだり、そのまま月に着陸したりしちゃうんでしょ?」
「月に行ったのは鉄の鳥じゃないですけどね。物理法則に則ってるだけで、魔法とは違うものです」
スピカが答えると、マチルドは違うのよ、と続ける。
「それを教えてくれた彼もそんなことを言っていたわ。でも私達にはそのブツリホーソクとやらと『能力』、まあ魔女の魔法の力との違いが分からないのよ」
「まあ、一から説明すると難しいだけですからね。それが人類の魔法だと説明した方が楽かも知れません」
「この世界には種族の特性や魔女がもたらした『能力』があるから文明の発達が遅いとも考えられますね」
アークがスピカに続くように言った。それにステラがその不自由さが人間の文明の世界があんなに発展した理由なのね、と嘆息を漏らした。
朝食を終えると、ステラとマチルドは追加の薪を作りに隣の部屋を荒らしに行き、一方スピカとアークは飲み水を確保するために金属の容器に雪を詰めていた。
「そうだ、マチルドさんにね、行商人が使ってる星図を写させてもらったの」
「へえ、さすが旅人だ。どうだった?」
「見たけど、やっぱり私の知ってる星空じゃなかったよ。北極星はあるけどぜんぜん違う星で、天の川があったけどそこにかかる星座もまるで違う」
「天の川はあったのか」
「うん。太いところと細いところがあるのも同じ。ただ、今は太いところが見づらい時期みたいだから、その模様まで同じかどうか確かめるのは難しそう。最近は天気も悪いしね」
「んー……」
缶に雪を押し込むアークの手が止まる。
「どうしたの」
「いや、何でもない。何か分かったような気がしただけ」
「ふうん。気のせいじゃなかったら教えてね」
四人は再び食堂に集まり、家具や壁を壊して手に入れた薪を暖炉にくべ、そのすぐ側に台を作って雪の缶を置いた。卓上のマグカップらしきものは、この家の棚にあったものを拝借した。
「じゃあステラ、問題点をまとめてくれないか」
「ええ。まず、本来ならばクラムの魔法を狭間の世界に置いて、それを頼りに帰還するの。それがないと、狭間の世界に通じる穴を開けるのは非常に難しい。闇雲に開けてもただの空間転移の穴にしかならないの。この魔法はもともとそういう目的で使っていた物よ。それがある日偶然、設定した転移座標が異世界へ通じて、思い切ってそこに飛び込んだのがそもそもの異世界研究の始まり。他の人が同じ設定でやっても上手くいかなかったから本当に偶然繋がったみたいね。最初に入った人がクラムを打ち込み続けていたから複数の魔法使いがそこに入って研究が出来ていたの。でも、私一人になるとそれを使う機会もごく僅かだから必要な時にしか使わない。だから、いつものやり方を頼るのは不可能、最初の人のように偶然発見するまで使い続けるのはかなり無謀」
「同じ方法でやり直しは出来ないってことか」
「そうね。もう一つ可能性としては、クランチが私を探しているだろうこと。クランチも、魔法を使ってこちらへと声を飛ばしたり、道を開けたりしてくれるはず」
「実用性は?」
「低い。ないと言っても。こっちに落ちてからの時間から言って、認識はしているはず。でも何もしてこないということは、体がないと魔法が使えない、少なくともこっちまで届かないということね」
「声を飛ばす?」
「ええそうよ」
「今までも何度か俺達と話をしたことがあったけど、あれはこっちに出てきてたんじゃないのか?」
「実際に出たのは、あなたが離れの小屋に閉じ込められていた時」
まだリゲルだった幸助がラザルに反抗し、頭を冷やせと放り込まれた時のことだ。それからスピカに対し、
「それとあなたを最初に送り込んだ直後。それだけ」
果樹園の中で、この世界で生きる指針を与えた時の話である。ステラはさらに、姿を見られると面倒なので人のいる場所には基本的に現れないのだと付け加えた。
「声を飛ばすだけなら、狭間からでも出来るわ。一人の時に話しかけてばかりだったと思うけど、別に制約があった訳ではないの」
「じゃあ何度か夢の中にステラが出てきたのは何だったんだ?」
「え、何それ私そんなの見てない」
「そういえばあなたとは夢の中では話さなかったわね。それで、その夢の仕組みだけど……」
ステラは急に押し黙った。
「どうした?」
「少し黙って」
魔女は真剣な眼差しを暖炉の炎に向け、不意に立ち上がる。彼女の赤い瞳に、炎の橙が反射していた。病的なまでの白い肌に、幼いとしか形容できない程にあどけなさのある凛とした顔立ち。考えてみたら、ステラの顔をちゃんと見たことは、ずっと側にいたアークでさえなかったのだ。薄暗いこの場所では、彼女の髪は黒にしか見えない。前髪が目を覆わない程度に無造作に切られていて、それ以外は今まで切ったことがないのではないかと思うくらいに長い。不老不死の霊体でも髪は伸びるのだろうかと、幸助はふと疑問に思った。
「接続――いやそれでは意味が……」
ステラは散々独り言を言った後、椅子にとすんと腰を落とす。
「ダメね。まだ足りない」
「一体何を考えてたんだよ」
「状況確認のために、誘拐した人間には、眠った時に自動的に意識の一部が狭間の世界と接続する魔法をかけておいたの。魂と変異した体が調和しすぎていないか、周りと上手く溶け込めているか、何か良からぬことを考えていないか、なんてのを調べるためにね。夢の中の会話はその時のものよ。忘れられたら困るから話が終わったらすぐ覚醒させる必要があるのだけど」
「それが何だって?」
「その魔法は、クラムがなくても狭間の世界へと繋がる力があるのよ。それを上手く使えばそこまで辿り着けるんだけど、さっきも言ったように魔法の効果は自分自身には効かないし、いくらあなた達が接続できたとしてもそれじゃ意味がないわ」
つまり、必要なのはステラにも睡眠時に狭間の世界に意識が飛ばされる魔法をかける方法、あるいは幸助か美奈が睡眠時に狭間の世界に細工をする方法である。
「帽子に翻訳魔法をかけているのとは訳が違うのよ。意識を飛ばすなんて高度な魔法は、直接脳にかけないと効果が出ないし、眠っている相手にかけないと危険なの」
「そっか」
「何かそこに上手く当てはまる『能力』を持っている人を探せば良いのかしら?」
とマチルドが助言した。確かにそれは方法としては正しいが、どういう能力が必要なのか、誰がその能力を持っているのか、また持っていても自覚していないのでは意味がなく、それでも難航は必至だった。
「困ったわね……そういえば、あなたが誘拐した男の子達には、私達と同じように『能力』が備わっていたのかしら?」
「そうね、クランチが決めた、その集落で役に立ちそうなものを入れているわ。少しでも村に受け入れられるようにね」
「じゃあ私にも何かあるの?」
スピカが興味津々に訊く。
「あるわよ。でもそれは、自覚してしまうと効力を失う種類のものだから、知らない方が身のためよ」
「何それ? そんな『能力』もあるの?」
「じゃあ俺には?」
「ないわ。この子を連れてくるためにあなたに対する細工は色々と省略したから、書き込んでいない」
アークは少し肩を落とした。だが、彼には何も特殊能力が『書き込まれていない』ことの意味をすぐに悟る。
「だったら、帰るのに必要な『能力』を俺に植え付ければ良いんじゃないか?」
一瞬の沈黙。
「それよ!」
魔女の顔がぱっと明るくなった。初めて見せた彼女の笑顔だった。
「本当に頭良いわね、それなら一番成功に近い!」
ところが、幸助にどのような力を書き込めば良いのかがまた問題となる。魔法を使えるようにする能力は幸助が魔法使いではないので使えない。幸助にかかっている魔法をステラに移し替えるものだと、必要のないものまでステラにかかってしまう。特に体を変異させる魔法である。リスクは多少覚悟するとしても、とにかく成功率の高い方法を模索しなければならなかった。
うんうん唸りながら議論し、その日の夕方になって、スピカのとある一言から、彼らは思いつく最良の方法を見つけ出した。実行役のステラ自身もそれで成功するかどうかは確証が持てないと言う。それでもその手段は、少なくとも失敗のリスクはない。あとはステラの自信。それが実行に踏み切る理由だった。
「今まで色々な人を見てきたけど、そんな『能力』を持った人は聞いたこともないわ」
準備のためにテーブルや椅子を端に寄せながらマチルドが言った。
「使い道が思いつかない力だもの、無理もない。集団で襲う盗賊を無力化するのとか、病人の痛みの場所を特定するのとかに使うことを想定して開発した魔法。確かに私もこれを使っているのを見たことないわ」
「ステラ、本当にそんなことして大丈夫なの?」
「最初に言った人がそんなこと言ってどうするの」
「そりゃそうだけど」
「あなたはこの作戦が成功する、自分達が無事に帰れるって祈ってるだけで良いの」
「分かった」
そして幸助は、ステラの言うままに床に横たわる。
「もしかしてスピカの能力って」
「ダメよ余計なこと考えちゃ。そのまま目を閉じて、ゆっくり息をして」
彼は息を深く吸い込んだ。外に吹き付ける風の音と、時々薪が爆ぜる音、それ以外の物音がない。ステラはそっと彼の額に手を当てる。幸助が眠りに落ちかけたところで、魔女は詠唱を開始した。
「Nir putreeim picno verbia rimrodnes――」
青年を中心に幾つもの銀色の同心円が浮かび上がる。風もないのに、ステラのマントがなびいていた。
「Nir dessa mei adadwaz warsathep」
誰にも理解できない言葉で、魔女は魔法を紡ぐ。やがて光は、極光のような赤や緑に変わっていく。
「Ria garosy rus khiamir――Iza uan poolgione ta yow」
暖炉の炎と魔法陣から漏れる光。二つの光はこの狭い部屋の中で不思議なことに調和していた。この幻想的な風景を、美奈はまぶたに焼き付けておこうと思った。ステラの顔は帽子に隠れて見えないが、美しい顔で呪文を唱えているに違いない。身動ぎもせず、ただ一心に魔法に集中しているのだろう。
どれだけその光を見ていただろう。気がつけば床の文様は消え、柔らかな橙の光だけが部屋を満たしていた。
「上手くいった?」
「ええ、術式は成功。あとは彼がこの力をちゃんと使えるかどうかね。しばらくしたら目を覚ますとは思う。でも疲れたから私は寝るわ」
「この部屋で?」
ここにあるのは、テーブルが二つ、椅子が数脚、食器棚らしきもの、暖炉だけだ。
「私は寝袋があるから良いけど、問題は三人よね。寝室らしき場所はこの家にはなかったし。村長さんを脅迫しても良いけど、この時間と天気じゃあねえ」
既に日は暮れ、また雪が降っている。
「じゃあ三人でくっつこう」
スピカは平然と言ったつもりだが照れていた。
「嫌よそんなの」
「寒くて眠れないかもよ?」
ステラは龍族の屋敷の牢屋に閉じ込められていた時、寒さに震えて仕方なくアークとくっついていたことを思い出した。暖炉がある分いくらかマシだが、それでも冷えることに変わりはない。
「分かったわよ」
マチルドは荷車から寝袋を出し、ステラは薪をくべ、スピカはアークを暖炉の前に座らせた。ステラはマントを剥ぎとって大きく広げる。
「あ、本当にセーラー服だ」
「いいからこっち持ちなさい!」
膝を抱えて眠るアークの左にスピカ、右にステラという形で、大きなマントに包まれて三人は夜を明かした。
翌朝、最初に目を覚ましたのはアークだった。彼は真夜中に一度目を覚まし、もう一度寝たので眠りが浅かったのだ。両手に花状態で動くに動けない。ステラは体重を預けているし、スピカはアークの腕を抱きしめている。その無防備な寝顔をもう少し見ていたかったが、マチルドがそれを許さなかった。
朝食を済ませた後、一同は準備にとりかかる。これが言葉を交わせる最後の機会になるかも知れない。三人は、感謝と別れの言葉を口にする。
「本当にありがとうございました、マチルドさん」
「マチルドさんがいなかったら、私達どうなっていたか」
「いいのよ、お陰様でこっちも面白い経験が出来たしね。消えようとしていた歴史を知って、しかも歴史の変わり目を目撃できる。こんなの滅多にないわ。本当にお別れなのよね。呆気ないわ」
「このご恩は一生忘れません」
「大げさねえスピカちゃん。どうせもう二度と会えないんだし、忘れて良いわよ。そういうのは慣れてるし。二人仲良く元気で暮らしなさい」
「えっ」
そこへステラがピシャリと言い放つ。
「まだ早いわよ。実験が成功しないことには、まだ何とも言えないんだから」
「そうだったな。じゃあ、始めるか」
言って、アークはステラの目の前に立つ。左手を自分の頭に、右手を魔女の頭にそれぞれ乗せる。
「その変化をイメージするの。腕を伝って、あなたと私が入れ替わる感じ」
「ああ、分かった」
傍から見ていると、何をしようとしているのか想像もつかない光景だ。しかしこれが、スピカが思いつき、ステラが最良と評した手段である。すなわち、幸助とステラの魂を入れ替えること。睡眠時に意識を狭間に接続する魔法は、魂にではなく脳にかけられている。体と魂を交換することで、ステラは狭間の世界に夢から干渉できるようになるのだ。
能力の使用が終わったのか、アークが腕を下ろす。
「何だこれ、ちっちゃい!」
「小さくて悪かったわね」
ステラとアークがそれぞれ言った。
「スピカが大きく見える」
「本当に入れ替わっちゃったんだね」
スピカがしゃがみこんで、ステラ(中身は幸助)を見上げる。
「なんか変な感じ。体があるのにないような」
「それが不老不死を可能にする霊体ってやつよ」
「女言葉のアークってなんか変!」
「俺の声もなんか変!」
「それで魔女さん、どうするの? 睡眠薬は言われた通り用意したわ」
三人が口々に言うのを破り、マチルドが制した。
「まずは睡眠薬で私が眠り、どうにかして狭間の世界に繋がる穴を開ける。そうしたらすかさず魂を元に戻して、私が二人を眠らせて連れ込むわ。これで完了。上手くいけばあっという間の出来事よ」
「お願いね」
「なら、私の手を握ってて。そして、成功するように祈って。そうすればきっと」
「うん、分かった」
アーク(中身はステラ)は椅子に深く腰掛け、差し出した手をスピカとステラが握る。
「じゃあ、行くわよ」
マチルドに渡された粉を口に含み、水で一気に流しこむ。すぐに彼女の意識は途切れ、椅子にもたれかかる。
「大丈夫かな」
「祈るしかないよ」
「スピカちゃん、アーク君、最後だから一つ聞いておきたいことがあるの。二人はこの魔女さんのこと、どう思う? 憎い?」
「許せないです」とスピカ。「身勝手な理由で人を巻き込んで、悲しませるのが目的だったなんて」
「逆に俺は、ステラこそが一番の被害者なんじゃないかって思うんです。だって、彼女は何も悪くないじゃないですか。彼女がしている全てのことは、彼女が望んでしていることではないはずです。一族の復讐のために千年近い孤独を強いられて、しかも呪いが完成したら彼女は消えてしまうんですよ。あまりにも可愛そうです。同情なんていらないって言ってましたけど、それは結局長い孤独と強制された使命によって心が歪んだからじゃないかって、そう思うんです」
もしかしたらステラは本当は心優しく責任感のある少女だったのかも知れない。だがそれを確かめる手段はもはやない。彼女が今協力的な態度を取っているのは単に使命を果たすために互いの利害が一致しているからに過ぎない。こちらの世界に住む全ての人々を憎み、復讐のために存在を犠牲にしなければならない魔女。彼女を救う手立てがない限り、本当の彼女は帰ってこない。
「確かに無関係な俺達を巻き込んだのは、許せることじゃありません。でも俺達への被害が出ないように努力はしているんですよ。そこは魔法使いなりの配慮だと俺は思います」
「アーク、君って敵にまで優しいんだね。やっぱり女の子だから?」
「どうだろう。目の前で破滅しそうな人を救えない悔しさ、かな。スピカの言うことももっともだ。こういう方法を取ったのは間違いだよ。でも、許してあげたいって思わない?」
「そりゃあね。話を聞く限り、可愛そうだなって思ったよ。でも、悪い事をしたら報いを受けるのは当然だと思う。罪って、許されるの?」
「俺は許されて欲しい。とある女性の人生を奪った男は、それを願ってる。話せば、きっと理解できる。許されない罪なんて、きっとない。俺はそう思う」
「そっか。じゃあ、ずっと好きな人を騙していたあの子も、許されるのかな」
「そうだと思うよ」
どこで道を踏み間違えたのか。始まりはきっと些細な事だったはずだ。魔法使いと周りの集落との間に、言葉の壁があったこと。そして、それを乗り越えようとする人があまりにも少なかったこと。それが憎しみを生んで止まらなくなった。世界にやがてもたらされるのは、独裁者という悲劇。果てには破滅が待っている。その意味を語り継ぐためにも、この世界に残るマチルドはそれをより多くの人に伝えなければならない。
「ありがとう、二人とも。なかなか面白い話だったわ。私達はこの魔女さんを許してあげるべき、むしろ大いに反省するべきなのよね。たとえその運命が変えられないとしても」
マチルドは眠っているアークの体と、アークの魂が入ったステラの体を交互に見た。
その時、アーク(の体)が目を覚ました。
「戻して、早く!」
ステラ(中身は幸助)が再び自分の頭とアークの頭を両手で繋ぎ、入れ替わった魂を元に戻す。
「Nir putreim picno verbia arlus pluto via kram」
呪文を唱えて、床を叩く。そこに、闇の円が発生した。混沌が渦巻き、その中に何があるのかは窺い知れない。ステラはその中に手を突っ込んだ。
「成功ね。繋がったわ」
アークとスピカは声を揃えて喜んだ。
「今すぐ飛び込んで! いつ切れるか分からない!」
「マチルドさん、本当にありがとうございました」
「お元気で! さようなら!」
アークとスピカがそれぞれ言って、躊躇いなく闇の穴へと身を沈めていく。
「またどこかで会いましょう」
叶わない願いと知りながら、マチルドは最後にそう告げた。最後にステラが言う。
「約束、忘れないで」
「もちろんよ」
魔女が穴に消えると、すぐに異世界への扉は閉ざされた。残されたのは、燃え盛る暖炉と行商人マチルド。その目には涙が浮かんでいた。
「さあて、次の村に行きますか!」
肺を満たす不快感、重力を失ったかのような目眩。湧き上がる吐き気のような感覚に耐え、三人は狭間の世界、その花畑にゆっくりと墜落した。アークは眠り薬の効果がまだあるのかぐったりしていた。
「ここがステラがいつもいる世界?」
スピカが空を見ながら言った。
「そう。空にある星が大いなるクランチ=ヴァニタス、この花が抽出した魔力。その下には、一族の肉体が全て時間を凍結されて眠っているわ」
「時間を凍結?」
「この世界は時間の流れから切り取られた世界だから、そうしておかないと腐るの」
「時間から切り取られた世界?」
「考えなくて良いわ。ここからは出入りする先の時間をある程度自由に設定できる、それを理解していれば良い」
「それで私達を誘拐された直後の時間に戻すの?」
「厳密には、彼がもう一度あの世界から離れた直後の時間に、だけど。その前に、他の二人の様子を確認しないといけないから待ってて」
ステラはその場でいくつか魔法陣を展開し、窓らしきものを作って世界の様子を垣間見た。そして、二人の少年を眠らせたままこの世界に召喚した。
一人は全身に土色の毛皮をまとった少年。高校生くらいだろうか。頭には細長く伸びた耳が生えている。もう一人は赤髪のかなり小柄な少年。小学生くらいに見える。金色のアクセサリを頭に乗せて、手には水かきがついていた。
「兎と、魚? 触っても良い?」
「別に良いわよ」
そしてステラは、少年を呼び出した二つの窓に手をかざして魔法を使う。
「Nir putreim picno verbia meide prac」
すると、その二つの窓と二人の少年の体から光の粉が迸り、花畑へと降り注ぐ。
「これで魔力の抽出は完了。後は二人を元に戻すだけ。それが終わったら、最後にあなた達二人を戻すわ。それで、何を調べてたの?」
「兎の耳がある時は人間の耳はどうなってるのかなって思って。まさか消えるとはね」とスピカ。
「耳の機能をそっちに移さないと気味悪がられるでしょうが」
「それも魔法で元に戻せるの?」
「出来るからやってるのよ」
続けて魔女は二人を元の姿に戻す魔法を使い、時間軸と空間座標を設定し、元の世界へと送り返した。
「さ、いよいよね」
「ちょっと良いか」とアーク。
「何?」
「お前、まだ続けるつもりなのか? 呪いが完成したらお前消えるんだろ」
「当たり前でしょ。そのために今までずっと続けてきたんだから。この呪いは私を縛る呪いでもあるのよ。それから解放されるのなら、喜んでやり遂げるわ」
「やっぱり、お前も被害者だったんだな。本当はやりたくなかったんじゃないのか?」
「そうね。あなた達と話していて思い出したわ。私は、いつ終わるか分からないこの計画の主犯になるのを躊躇っていた。出来ることならやりたくはなかったけど、私なら出来るって周りが言うから仕方なく引き受けた。復讐なんてしないで、あのまま滅んでいた方が良かったんじゃないかって思ったこともあったわ。いつからその感情を忘れてしまったのかしら。今私にあるのはそういう記憶だけ、もう感情なんて残ってない。ただ呪いの言いなりになるだけの道具よ。今更道を選び直すなんて出来ないわ」
「分かったよ、ステラ。お前はお前の運命を全うしろ」
「ええ、そのつもりよ」
「それでさ、私の能力って何だったの?」
「もう言っても平気か?」
「どうぞ」
「願った事が叶う力だろ、きっと」
「厳密には、願った事や口にした言葉が本当になる、あるいは未来に起こることが不意に口をついて出る能力ね。強運の能力、そう呼んでいるわ。もちろん、願いや言葉が全て実現される訳じゃない」
「そうか、それで私には祈っててって言ったんだ」
「そういうことよ。それと……普通ならね、あの世界での出来事の記憶を全て消してから元の世界に戻す、そうすることで世界のバランスを崩さないようにしているの。だけど、今回は少し例外が多すぎた。だから最後にも例外を適用しようと思う。ねえ二人とも、今回の三十日近い出来事の記憶、消す? 残す?」
二人の答えは同じだった。
「分かったわ。じゃあ、おやすみなさい。そして、お別れね」
ステラが腕を前に伸ばし、魔法を唱える。二人はすぐに眠りに落ちた。




