IntervalleⅥ:親友
友人の果たすべき役割は、間違っている時にも味方すること。
正しい時には誰だって味方になってくれる。
マーク・トウェイン
あり得ない。この状況を表現するのにこれ以上適切な言葉はない。そして不意に口をついて出た言葉でもある。幸助ほど頭の回転は速くない欽二でさえもこの状況が理論的に説明できないことがよく分かっていた。
美奈は、直接そう言った訳ではないが幸助が転落するところを目撃したそうだし、事実、柵の一部が破損していた。最初見た時は劣化していたとはいえ、そんな損傷がなかったのを確かに記憶している。ならばそこから幸助が落ちたと見るのが筋なのだが、そこから身を乗り出して下を眺めても人影を見つけられなかった。いくら風が強くても一人の男を吹き飛ばせはしないし、崖の下は岩場で水深は浅く、物陰になるような場所はない。海の方に視線をやっても、荒れた海が広がるだけだった。
それから、美奈を疑う訳ではないが、菜摘と手分けして崖の周辺を捜索した。が、それはほんの気休めに過ぎない。幸助が何も言わずに防風林の中に入り込む理由が考えられないし、脅かすだとかそんなことをするような男ではないからだ。
「くそっ!」
欽二は悪態を吐きながら、八つ当たりするように近くにあった木を蹴った。足を上げたまま動きを止め、幸助ならこういう時どうするか、と考えてみた。
(あいつなら……落ち着いて、状況を冷静に判断しようとするだろうな)
今の彼は、自分でも信じられないくらい冷静になっていることに気づいた。彼だって、美奈のように動揺したっておかしくはない。
(だめだ、判断しようにも、情報や手がかりが少なすぎる。俺だけじゃこれ以上進展のきっかけは見いだせそうもない)
手詰まり――神隠しという、美奈の説を除けば。
「そんな非現実的なことがある訳ねえ」
苛立ち紛れにもう一回蹴り、歯を食いしばる。
では逆に、突然消えた幸助はその状況を把握した時どのような行動を取るか、と考えてみた。この一帯は電波も圏外であるから必然的に声で助けを呼ぶしかないが、未だ彼の声は聞こえない。彼が声を出せない状況にあるのか、激しい風の音に阻まれているだけなのかは分からない。欽二は再び崖へと進路を取った。その時、背後で何かが落ちる音がした。振り向くとそこには、さっきまではなかったはずの人影があった。その奇妙さなど気にするまでもなく、欽二は駆け寄る。
「幸助!」
彼は草の上に目を閉じて転がっていた。息があることを確認して、欽二は安堵する。そして、この青年の若干の変化にも敏感に感じ取った。すなわち、眼鏡をかけていないのと、頬に傷があることだ。それが何か異変のあったことを暗示していた。
欽二は近くに菜摘がいないか呼びかけてみたが、返事はなかった。代わりにその声で幸助が目を覚ました。
「幸助、大丈夫か?」
「……ああ、なんとかな」
彼の目は若干虚ろだが、それでも親友の姿をはっきりと認識できていた。
「何があったんだ?」
「それより、あれからどれくらい経った?」
「あれって、お前がいなくなってからか?」
「そうだ」
男二人はポケットから携帯電話を取り出す。幸助のそれは電源が入らなかった。腕時計もつけてはいたが、少なくともあり得ない時刻を指していた。
欽二は車から降りた時間しか覚えていなかったが、幸助にはそれだけで十分だった。およそ一時間が経っている。計算すると、幸助が誘拐されてから三十分ほど経過した時間に『戻された』ことになる。
(これが魔女の能力? あるいは漫画で良くある時間の早さが違うって……いいやそれより)
「美奈はどこだ?」
「車の中で待ってるぞ」
「見に行こう。方向は?」
「あっちだ。一体何があったんだよ? 何かただ事じゃない事が起きたのは明らかだろうに」
焦る幸助の真横を歩きながら、欽二が言った。
「悪い、それは後で話すから、あの崖から帰ろうとしてから何があったのか話してくれ」
「俺と菜摘が先に行ってたら、後ろにいた美奈が悲鳴を上げたんだよ。で、崖を指さしながらお前の名前を呼んでたから何を見たのかはすぐに分かった。急いで崖から身を乗り出してはみたが何もなくてな。気を失った美奈の介抱と車の鍵を菜摘に任せて、俺一人で捜索を続けたがどこにもいない。車の中で待ってる二人の様子を見て、菜摘と二人で手分けして捜して、俺が幸助を見つけた。こんなところか」
「そうか……ありがとう」
美奈が誘拐されたのは幸助が消えた直後ではない。戻ってきたこの時間は美奈が異世界に飛ばされてからそう経ってはいない、と幸助は推測した。美奈と魔女が接触する前という可能性はまずあり得ず、美奈は気絶してしばらく菜摘と一緒にいたと欽二が証言したし、犯人はその後、対象が一人になった瞬間を狙ったと見て間違いないだろう。美奈に現場を目撃されながらだった自分のケースに比べればかなり慎重だな、と幸助は思った。いや、逆に彼の場合が大胆すぎたのかも知れない。
程なく、二人は広場に出た。広場といっても整備されておらず小石と雑草だらけの空き地だ。そしてそこにある一台の乗用車に近づくと、後部座席のドアが開け放たれたままになっていた。中には誰もいない。
「くそっ!」
悪態を吐いたのは幸助だった。元の世界に戻ったことに気づいたその瞬間から、彼は美奈のことが気がかりでならなかった。もしかしたら、戻れたのは自分だけなのではないか、と。
(いいや、まだそうだと決まった訳じゃない。俺の時みたいに森の中に、ってことも)
頭の中で必死に思考を巡らせる幸助は、自身を取り囲む深緑を睨めつけた。鳥が一羽飛び立つのが見えた。
「参ったな。幸助が見つかったと思ったら今度は美奈がいなくなるとは……おい、あれ」
欽二は不意に、地面の一点を指さした。幸助が近づいてそれを拾い上げる。落ちていたのは、片方だけのスニーカーだった。かかとが踏まれている。大きさから言って美奈のものであろう。
(美奈はここで誘拐されたのか……)
近づいてきた欽二も、また同じ結論に至る。
「靴片方で一体どこに行ったんだろうな。何かやばそうなのは確かだが」
「車は荒らされてなかったから強盗の類じゃなさそうだけど……まだ近くにいるかも知れないな」
と、幸助はわざと的外れなことを言った。二人は視線を交わし、手分けして捜索に当たることにした。幸助はそうして一人になった。
(俺と一緒に戻されたなら近くで倒れてるはず)
森の中を彷徨って呼びかけても、美奈の声は聞こえなかった。ふと、靴を持ったままだったことに気付き、溜め息を一つ吐いて木にもたれかかった。
「なあ、お前、見てるんだろ?」
『ええ、どうやら再転送は問題なかったみたいね』
今ほど、この気まぐれな魔女がいてくれて嬉しいと思った瞬間もないだろう。
「美奈……スピカはどこだ」
『あの子ならまだ向こう側の世界にいるわ』
やっぱりか、と幸助は心中で呟く。
「あいつを一人にしておけない。今すぐ俺を向こうに連れて行け!」
『あら、そう? でも、気をつけて。二つの世界を行き来するトンネルはね、時間と空間が歪んでいるの。大まかな座標指定は出来るけれど、もしもう一度行っても、元いた場所と時間である保証はどこにもない。それでも?』
「それでもだ!」
少女の言葉に引っかかりを覚えながらも、幸助はそれを考えることを放棄し威勢良く答えた。その危険性など、彼は顧みることも出来なかった。
『そう……それじゃ、目を閉じて』
木にもたれかかるように座り、幸助はそっと目を閉じた。




