ChapitreⅩⅩ:塔
こうした不幸のどん底に落ち込んだ人間には、
勇気を出すという手段が残っているだけである。
スタンダール『赤と黒』
「――飛鳥が今どこでどうしてるのかは知らない。俺はつい最近まで、そんな人と出会っていたことさえ忘れていたんだ。そうやって、自分を守ろうとしたんだ。でも、シリウスに出会って全部思い出した。あいつの顔は、飛鳥にそっくりなんだ。単なる偶然かも知れない。でも、もしあいつが俺達と同じようにこの世界に来た飛鳥だったらって考えたら、途端に怖くなるんだ。トラウマを思い出すんだ」
スピカはアークの手を強く握り、もう一方の手をそこに重ねる。
「そんなはずないのにな。そこまで偶然ってのは出来ていない。あいつが俺のことを忘れているのは妙だ。何より、あいつは戦えるほどの元気があるんだ、同一人物ってことはまずないだろう」
二人はそのまま、しばらく黙る。僅かな外の喧騒と、二人の呼吸の音だけが、二人の世界を満たしていた。そこに気まずさはない。繋がれた手の高くはない温度、その感覚だけが全てだった。
「話はこれで終わり。少なくとも、楽しい話じゃなかったね。ありがとう、聞いてくれて。おかげで胸のつかえが下りたよ」
スピカはそっとアークに寄りかかる。
「だから俺は怖いんだ。誰かと、特に女の子と仲良くなったら、また彼女と同様に酷い目に遭わせてしまうんじゃないかって。だから俺はこの三年くらいか、まるで恋愛感情ってものを忘れていたんだ。だからといって、また恋が出来るとも思えないけど。だからもしスピカ、君がずっと俺と一緒にいたいなんて言い出すのなら、諦めてくれ。俺のそばにいると不幸が降りかかる」
スピカは何も反応しなかった。
「シリウスには謝らなくちゃいけないな。俺はあいつに期待させるようなことを言って、自分勝手な理由でわざと傷つけたんだ。許される事じゃない」
スピカは握っていた手を離すと、そのままアークの頭を撫でた。彼の泣きそうな目と彼女の慈愛に満ちた目がぶつかり合う。二人は同時に同じことを考えた。言葉がなくても言いたいことは伝わる。だけれど、言葉が通じないことがこんなにももどかしいとは思わなかった。
「ダメだよスピカ、そんな事したら、好きになっちゃうじゃないか。俺はさ、まだ過去の女のことをずっと引きずってる最低な男だ。しかもそいつを破滅させて、俺は忘れていた。最低だよ」
至近距離で見つめ合ったまま、スピカの手は相変わらずアークの頭に置かれている。その状況に気づいた彼女は慌てて手をひっこめた。そして彼は、つい先程少女の白い髪にあった黒いシミが広がっているのに気がついた。一房持ち上げてみたが、どうやら根本からではなく先端部から、水を吸い上げるかのような形で黒く染まっていることが分かる。髪だけではなく、背中の羽にまでそれは及んでいた。自分の体の変化を目の当たりにしたスピカは狼狽えるような目でアークに何かを訴えた。
「ダに、ごレ!」
喉の風邪でもこうはならないだろうという掠れた不快な声。二人は最初、それがスピカのものだとは気づかなかった。
「スピカ? 今のは……?」
喉のあたりにある違和感、他に喋る人のいない状況、それが自分の声だと気づいたスピカは口を押さえて一目散に出口へと駆けだした。
「待ってスピカ!」
アークは少女を追いかける。しかし彼女は、部屋を出てすぐのところで立ち止まっていた。彼は女中が引き止めてくれたのかと思ったがそうではなかった。目の前に、怖い顔をしたベテルギウスがいたからだった。前と後ろ両方から同時に人が現れたことに驚いているシオンとシルマを無視してテルは言う。
「大変なことになりそうだぞ」
「大変なこと? 何が起こるって?」
アークがそれに応じる。
「逃げる準備をした方が良い」
「逃げるって、一体何からだよ」
「この村からだ」
何の冗談だ、と返す気も起こせないくらい、彼の目は文字通り真剣だった。
「隠し通路とかあるのか?」
「あるにはあるが道は暗くどこに通じているか誰も知らない。ゴミ捨て場にされているものもある」
やはりあの隠し部屋は脱出用ではなかったようだ。
「じゃあ正面突破かよ」
「それしかないんだ。今は門を閉鎖して何とか抑えこんではいるが、いつまでもつか分からない」
「とりあえず二階に行って様子を見よう」
いつの間にか来ていたポーラを加えた六人は、二階の南側の会議室に入った。そこでは何故か大臣らがお茶を飲んでいたが、それを押しのけて窓側に陣取る。ところがガラスの表面が歪んでいるからかぼんやりとしか見えない上に窓が開かない。仕方ないので廊下から外周に出る。外から見つかることを恐れたアークは首だけを外に出し、南の方角を見た。
オフィユカスを囲う壁と門を挟んで、村民と兵士が集まっていた。武器を手にしている者もいる。
「何が起こっているのか詳しくは分からない。ただ、向こう側はシリウスを真の村長にするためにアークを殺す必要があると主張しているようだ」
「セラトナさんが何かやらかしたってこと?」
「さあな。今シリウスが先頭に立ってなんとか説得しているみたいだが、話し合いで解決するものか、あいつにかかっている」
言われてアークは彼女の姿を壁の内側に認めた。瑠璃色に輝く髪と翼は非常に目立つのである。
「どっちみち秘密の抜け穴でもない限り逃げられないな。こんな時に限ってマチルドさんがいない。マーテルさんに連絡が取れれば……出来れば向こうの代表者と話がしたいが、この様子じゃ無理か。そうだ、前線にいる兵士を一人連れてきてくれ。要求が分かれば、突破口も見える」
「分かった、そうしよう」
テルが一旦その場を離れる。一緒に戻ってきた兵士が言うには、誰もが違うことを言っていて対応不能の状態らしい。シリウスの説得に耳を傾けようともしない人々もいて、どうやら一致団結した集団ではないことが窺い知れた。これでは要求に応じるどころか、話をすることさえ出来ない。分かるのは、どの勢力もオフィユカスにいる人物に用があるということだけだ。門の前にいる誰か一人を話し合いの場に引き出せるだけでも大きいが、一人だけで済むとも思えない。それに乗じて何十人も乗り込んでくる可能性もある。そうなったら手がつけられない。
「せめてセラトナさんがいればな」
反乱軍を束ねた彼女なら大人しく言うことを聞く者は少なくないはずだ。しかし彼女の居場所はつかめていない。大きすぎる人波にはさすがに勝てないということなのだろうか。
「兵隊の方には何か変わったことは? 一切の遠慮はいらない、何でも言ってくれ」
アークが兵士に尋ねた。
「シリウス様ばかりが仕事をされてアーク様と全くお会い出来ないでいるというこの状況を許して良いのか、という小競り合いが続いていました。村長を選び直すべきではないかという風潮もありました。ラザル様に認められていて婚約者もおられるテルさんか、人々の信頼を得たシリウス様を村長に格上げするか、というものでした」
「それか。結局俺が危ないんだな……おい待て。そりゃつまり、屋敷の中にも敵はいるってことだ」
目に入る者全てが敵になる状況。既に笑い事ではなくなっている。座して死を待つ以外の手が思いつかなかった。
「こうなったら、俺の攻めとシリウスの守りで強行突破するか?」
「待って下さい、テルさん、スピカ様が……へ、ん……そう? 変装されるのですか?」
スピカがシオンの掌に文字を書いて言葉を伝えた。
「他の誰かになりすまして襲撃をやり過ごす。うーん」アークが顎に手を当てる。「あの群衆に上手く溶け込めたとして、上手く逃げられるかどうか。それ以前にあの門以外に出入口はないのか」
「あるならもう使っている」
念の為にとテルが隣室にいる老爺に尋ねてはみたが、やはりそんなものは知らないと断言した。それより、彼らは一切の危機意識がないようだった。正面突破以外の道はないようだ。そうなると変装、つまりはその目立つ身なりを隠すことには一定の意味がある。もちろんそれだけでは不十分だ。
「テルとシリウスの力だけで突破できるのか? いや、シリウスがそもそも協力するとも限らない」
「俺が何とかする。この村で殺しはさせない」
「なら急ごう。シオン、頼む」
「お任せ下さい」
遠くから、聞き覚えのある群衆の叫び声が聞こえた。女性ばかりだからか、声が妙に高く、威圧感は少ない。それが四方八方から浴びせられる。それが異様に不安感だけを煽る。しばらくしてシオンが、六枚の灰色のローブを持って現れた。必要なのは二枚だけのはずだが。
「私が囮になります」
「危険だ!」
「良い作戦だ」
アークが諌め、テルが肯定する。
「誰が敵なのか分からない以上は下手には動けない。囮で敵の注意を分散させられれば、生存率はぐっと高まるはずだ」
「だったら足の早い兵士にさせるべきだ」
「そいつを探している余裕も、誰の味方か確かめている時間もない!」
「誰かを犠牲にして俺が生き延びたって意味がないだろうが! シオンが囮になったとして、誰が守るんだ。俺を狙っているならシオンが狙われない理由はない。シオンの無事が保証されないなら、囮作戦には俺は反対だ」
「ならどうする! このままだとお前は殺される。のこのこ死ぬつもりなのか!」
「俺一人が犠牲になってこの問題が片付くならそれで良いじゃないか!」
テルとシオンがその愚かな自己犠牲に反論を入れようとしたその時、パン、という乾いた音が響いた。アークは右の頬に痛みを感じていた。スピカが目を吊り上げて彼を見ていた。彼女が平手を食らわせたのだ。彼の手首を取り、強く握りながら視線だけで訴える。
『そんな悲しい事言わないで!』なのか、『君が死んだら私はどうなるの!』なのか、『自己犠牲が美しいなんて思ってる?』なのか。
それから彼女はシオンを通して、もっと冷静になってと伝えた。
「ありがとう、スピカ。俺どうかしてた」
痛む頬に手を当てて、最良の手段を考える。とは言え、会話による解決はシリウスが苦戦しているので期待は難しい。セラトナが現れても焼け石に水状態だろう。一番頼りになるマチルドは不在で、マーテルの庇護下に入ればある程度は安全だが、そこに辿り着くまでが大変だ。やはり、前回の戦争を勝利に導いたという剣に、何百という一般人を切り捨てさせるしか方法がないのだろうか。このまま大人しく殺されるしかないのだろうか。
「空を飛ぶっていうのは?」
「この時期は寒さに備えるために体が重くなっている。まともには飛べないし、飛ぶために服や装備を捨てたらすぐに凍え死ぬ。無理だろうな。そもそもこの場所は鳥にとって暮らしにくい場所なんだ。まあシリウスと同じで俺の半分は別の種族の血が入ってるから、俺が言うのも変な話だが」
「あの見張り塔から滑空するのは?」
「それこそ無謀だ!」
「でも他に良い手が思いつかない」
ハンググライダーの経験もないのにいきなり身一つで猛禽のように滑空するなど、どう考えても不可能であるし、それ以上に恐怖に打ち勝たなければならない。しかし彼はそれとは別にこの作戦の意味を思いついていた。
やはり、護衛対象や要人を別の場所に移した上でオフィユカスを明け渡し、その隙を突く形で最小限の敵を蹴散らしながら村を脱出する、それ以外の策はなさそうだった。人々の目的は侵略ではなく特定の人物の身柄だろうから、屋敷に立ち入らせて不都合ということはあまりないのである。
門のところにセラトナかマーテルがいたら状況が変わることを期待したが、いよいよ実行しようかという段階でも二人は結局来なかった。
避難場所はオフィユカスを囲う壁の東側に沿うように建てられた兵団キャンサーの宿舎が選ばれた。屋敷の裏口から重要書類などを持ち出し、アリアや大臣ら、それにミニーもこちらに押し込められた。灰色のローブに身を包んだ人々は、その外から門の様子をうかがっていた。
一人を中に入れて話し合いをさせる、そのために門を開けるという演技を始める合図を出そうとしたその瞬間、彼らの許へ数十人の集団が武器を携えて向かってきていた。それはキャンサーの部隊、テルの部下である。武器を前に構えていることから、襲撃が目的であろうことは明白だった。その奇襲に怯まず、顔を隠した二人の兵士が迎撃し、アークとスピカは手を取って逃げた。どこへ逃げるでもない、逃げ道はないのだ。二人に先行する一人はキャンサーを回りこむように逃げるが、結果的に門に少しずつ近づくことになる。
アークが背後を見ると、先ほどの部隊の半分ほどが追いかけてきていた。
(テルの馬鹿、お前が真っ先に離脱してどうする!)
「追手への対処はお任せ下さい!」
「頼んだわ!」
護衛隊後方の一人が離脱して臨戦態勢に入り、先頭の女性がそれに答える。
予想通り壁の内側にも村長への反逆を企てる者がいた以上、屋敷に戻って体制を立て直すことはもう出来ない。今するべきことは、屋敷から離れた場所に身を隠すことだ。だが、それももはや叶わないことを、ローブの集団は屋敷の前を横切った瞬間に悟った。屋敷の反対側から別のキャンサーの一団が進軍し、また村民が鉄の門を乗り越えて侵入し始めたからである。
「アーク! ここはひとまずお屋敷に――」
「それじゃ袋の鼠だ! 塔を目指せ!」
村長が示したのはもちろん、見張り塔である。幸助とシリウスが最初の出会いを果たした場所だった。距離的に、どちらの勢力とも接触しないでそこに駆け込むのは不可能だ。
「まさか本当に?」
「このままだと本当に死ぬぞ!」
先頭の女性と走りながら話す。体が慣れ始めていたとはいえ、この高地での激しい運動はかなり体に堪えて、少しずつスピードが落ちていく。それは、もっと後ろを走るスピカとシオンも同じだった。
「アーク様、私のことはお気にせず先へ!」
良心が痛むが、彼はシオンを助けに入る余裕がなかった。スピカの手を取って、少しでも助ける。
「シルマ以外はシリウスを援護!」
彼の指示で、後方を走っていたシリウスの信奉者達が一斉に前へ出る。彼女らはアークに合流したシリウスが急遽集めた最も信頼できる仲間である。その中には、幸助の墜落現場に居合わせたピースも含まれていた。
「スピカ様! 大丈夫ですか!」
シルマが辛そうな主人に声をかける。
「も……無理……」
「では失礼!」
すると彼女は腕をスピカのお尻の下に滑り込ませ、そのまま膝を抱える形にさせて抱え上げた。以前ミニーが女中に運ばれていく時にされていたポーズである。しかもそれを走っている人を相手にやってのけるのだから、スピカは最初何をされたのか理解できなかった。アークは驚きのあまり繋いだ手を離す。それでいてシルマは走る速度を落とさない。もはや驚く暇さえなくなっていた。
護衛隊はシリウスを先頭に魚鱗陣形で展開、その後ろに出来るスペースにアークとスピカが食い込む形になる。さすが最も多く得票した彼女が信頼できると断言した部下である、良く連携が取れているとアークは感心していた。迫る敵に走りながら対処する腕も大したものだった。
「アルドラ、先に行って!」
シリウスの指示に彼女の左にいた兵士がはいと威勢よく返事し、塔へと急加速する。そうして出来た僅かな隙を突こうとする者をシリウスが許すはずもなく、走る勢いに乗せた飛び蹴りで吹っ飛ばし、先行するアルドラを狙う敵を撃ち落とすという荒業を見せた。この戦場において、戦闘要員で武器を持っていないのは彼女一人である。それでも戦えるというのはつまり、彼女がずば抜けた強さを持っているからなのだった。
そんな恐るべき龍の血の力に感動している暇もなく、アークの背後に槍の先が迫っていた。これ以上スピードを上げる体力もなければ前衛に助けを呼ぶ余裕もない。やっぱ一人残しておくべきだったかと後悔しかけたところ、背後の気配が一瞬にして消え去った。振り返りたい衝動をこらえ、ひたすらアークとシルマは前へと走る。
「後ろは俺一人で何とかする!」
テルの声だった。最初の襲撃を迎撃して離脱していた彼がもう合流したのである。その強さと速さはやはり本物だった。最強の戦士を後ろ盾に得て、気分が軽くなった。最後のスパートをかけ、アークとスピカとシルマは、塔の中へと突入し、そのまま倒れこんだ。直後にアルドラが扉を閉ざす。他の仲間が角材を持ってそれを補強する。これで少なくとも息を整えるだけの余裕が出来た。外では兵団最強の二人が睨みを効かせていることだろう。
「アーク様、これでしばらくは時が稼げますが、どうされるおつもりですか?」
彼は深呼吸を繰り返し、まともに話せる状態になってから、問いに答える。
「二人で上まで行く。護衛はいらない、出来るだけここで食い止めてくれ」
「はっ」
登れるだけの体力が回復するのを待つ間、塔の前で言い争いをしているのが聞こえた。
「お前達、一体何をしようとしているのか分かっているのか!」
「あんたこそ、あの男が何をしたのか分かっていて庇うのか!」
「一体何故なんですシリウス様! 何故! 私達はあなたのためを思っているのですよ!」
「お願いだから話を聞いて!」
断片的に拾ってもこうだ、実際にはもっと多くの人が話しており、対話は成立していなかった。いやもとより、話をするつもりなど最初からなく、単に自分の主張を相手に押し付けることしか考えていないように見受けられた。暴力による民衆の弾圧もやむなしというところまで来ていた。
その時、上から一人の女性兵士が降りてきた。
「これは一体どういうことなのです?」
「説明している暇はありません。見張りを全てこちらへ呼んで下さい」
アルドラがそう説明すると、兵士はアークとスピカの存在に気づく。
「アーク様? ああなるほど、ついに動き出したのですか。だったら何故まだ生かして――」
アルドラが剣の柄で女性の喉元を突いて弾き飛ばす。悶え苦しんでいるところを踏みつけた。
「アーク様、準備が出来ましたら顔を隠してからお登り下さい。まだ上に二人いるはずです。お気をつけて」
「分かった。ありがとう」
それから二人は、ゆっくりと階段を登る。明かり取りの窓にはガラスがないところも多く、群衆に囲まれている光景が見て取れた。程なくして二人分の足音が上から響き、踊り場で対峙した。茶色の短髪で小柄な若い兵士と、長身の中年の胡麻塩頭。
「一体何が起こっているのだ」
若い方が鋭い目つきで言った。
「分からない。下で応援を求めているそうだ」
言ってから彼は失態を犯したことに気がついた。結局顔を隠したところで不審者が塔を登っているのだから怪しまないはずはないし、声を聞いて男だと分かればなおのことだ。
「お前は一体何者だ」
槍を構える茶髪。アークはスピカに下がるよう手で合図し、自らは敵の懐に飛び込んで押し倒す。体格差があるだけに簡単に転び、後頭部を石の床に打ち付けて身悶える。そこに容赦なく拳を鳩尾に打ち込む。その湿った呻き声を聞いてもう一人の兵士は怯えて後ずさる。アークは立ち上がり、
「悪いけど、俺に刃を向けるならたとえ女の子だろうと手加減はしない。道を開けろ」
その脅しに、中年の女兵士は対応に困った様子を見せた。倒れている少女は掠れた声で戦え、と力なく叫ぶ。アークは彼女が落とした槍を蹴飛ばした。
「出来れば手荒な真似はしたくない。武器を捨てて道を開けろ、こいつみたいになりたくなければ」
結局、その女性も鳩尾に肘の一撃を食らって倒れることになった。
「俺らしくないな、こんなの」
彼は不良に混ざって喧嘩のやり方を研究していたことを思い出していた。そしてそれが原因で飛鳥だけでなく母や妹をも傷つける結果となった。それ故に彼は女性を傷つけまいと誓ったのだが、それを破ったことの自責の念に駆られていた。
スピカがそんな彼の背中をポンポンと叩く。
「……仕方ないことだよな。急ごう」
そして再び塔を登り始める。以前一度最上階まで行ったことのある彼だが、その時以上にこの道程を長く感じていた。
「ここらへんで良いかな」
適当な踊り場で一休みする。スピカがきょとんとした顔をしていた。しかし、彼の次の一言で、その理由を全て察した。
「聞こえてるんだろ、魔女さんよ。分かるか、この状況。俺達は今この村にとって悪人だ。村から追い出されるか、あるいは殺されるかも知れない。それはあんたにとっても望むところじゃないだろ? しかも俺達にはもうどうしようもないところまで来ている。魔女さん、あんただけが頼りなんだ。ここで俺達が死ねば良いと思っているのでない限り、するべきことは一つしかないはずだ!」
彼が欲しかったのはこの状況だった。自分の生命が脅かされている環境で、部外者のいない、暗い場所。彼らをこの場所へ送り込んだ魔女がコンタクトを取るならば今しかない。彼は、その可能性に賭けていたのだった。
ところが、一向に声は聞こえない。話しかけても、それは独り言にしかならなかった。
「マジかよ。来て欲しい時に限って来ないとか」
かと言って、他に打つ手はない。最上階に出て空を飛ぶ、という冗談が現実になるとは到底思えない。上を目指すしかないのか、と階段の方を見た次の瞬間、下の方から何かが壊れる音がした。
「さすがにもたなかったか……」
元より、魔女の手を借りて脱出する腹積もりだった。誰もいない場所に行けるだけの時間稼ぎが出来ればそれで十分だったのだ。迷っている時間はなかった。二人は、再び屋上へ向けて走り出す。集団の足音が少しずつ大きくなってくるのを感じていた。反響するので、距離も数もどれほどのものか分からない。ひたすら行き止まりへ向けて駆け上がる。隠れてやり過ごせそうな場所もなかった(あったところですぐに見つかるだろうが)。戦っても確実に数で押し負ける。奇跡が起こることを信じて、ただ上を目指すしか道はない。程なくして二人は風が吹きすさぶ屋上へと躍り出た。
直径にして四メートルくらいの円形の空間があるだけだ。周囲には床と同じ青みがかった石で胸の高さに壁が出来ている。その内側には腰かけだろうか、足場のようなものもある。そこに立って二人は下を覗き込む。
「逃げる隙もないくらい囲まれてる。まだまだ塔に入る勢いは止まりそうにないな」
アークが状況を説明する。誰かが少しでも抵抗していることを期待したが、距離がありすぎるのか、視認は出来ない。それを見たスピカが、顔を青くしてアークに何かを訴えた。屋上の入り口を指し、手招きをする仕草。それから、両手で見えない壁に押されているかのような動き。
「階段、来る、押される……まずい!」
このままでは、袋小路であるこの場所にいたずらに人が押し寄せることになる。そうなると人が押し合い圧し合い、最悪の場合転落死しかねない。それだけでなく、屋上や階段で将棋倒しが起こり多数の死傷者が出る危険性もある。どうにか下へ伝えようにも声が届かない。届いたところで聞き入れてはくれないだろう。
やがてその時がやってきた。
「さあもう逃げられないぞ!」
一番に踊りでた金髪の兵士が、息を切らせて槍をアークに向けながら勇ましく叫んだ。
「頼む! 後ろのやつに下がれと指示してくれ!」
「この期に及んで命乞いか!」
「違う! こんな狭いところに大勢詰めかけたらみんな死ぬぞ!」
「何だと!」
直後彼女は後ろから現れた兵士に突き飛ばされてつんのめった。その後も止まらない人の勢いを見て、彼女は槍を振り回しながら止まれ! 退け! と必死で叫ぶ。残念ながら、その程度では人の勢いは止まらない。屋上はすぐに人で溢れかえった。足場に乗ってやり過ごすのも限度がある。下を見ても相変わらず人の流れは塔へと向いていた。兵士も足場に乗り始める。アークは危険を承知で高い方の壁に跨って少しでも距離を取る。
「頼む、気づいてくれ!」
外に出した足を揺らすことで少しでも気づいて貰おうとするが、効果は薄いだろう。なおも詰めかける足並みは止まらない。下から次々に入ってくるので、止まりたくても止まれないのだろう。
「俺のせいでまた犠牲者が出るのか?」
スピカは縋るようにアークの手を掴もうとする。彼の頭に槍がぶつかった。幸いにも石槍なので大事には至らない。このすし詰め状態の中で持ち主が手放したものらしい。
「当たったらごめん!」
叫んで、彼は槍を放り投げた。たとえ一人が死ぬことになろうとも、それで誰かが気づけばもっと大勢の命を救える。苦渋の決断ではあった。ところが、最初の犠牲者は彼の目の前にいた人物だった。アークを真似て壁に乗り出した兵士が、背後から人に押されてそのまま墜落してしまったのである。アークは思わずスピカを抱き寄せて目を伏せた。
(これでこっちの危機に気づいてくれれば、犠牲は最小限で済む! 間違っても俺が投げ落としたんだなんて思い込むなよ! それより魔女さんよ、あんた一体どこで何してる! 俺達を見捨てるのか!)
互いに強く抱き合って踏ん張っていないと、今にも落ちてしまいそうだった。
「最後に言っておきたかったことがあるんだ。俺、最初に会った時から美奈のこと、好きだったんだ。妹に似てて、守ってやりたくなる子でさ。でも、美奈が何か隠してるのに気づいて、俺、怖かったんだ。フェミニストなんて上辺だけで、本当は全く信用されてないんじゃないかって、不安だった。それが思い過ごしって分かって、俺、嬉しかった」
体を少しだけ離し、お互い真っ赤な顔を至近距離で見つめ合う。
「飛ぼう、スピカ。死なばもろとも」
美奈が頷いた瞬間、アークを何者かが突き飛ばした。いや、突き飛ばした方も誰かに押し出されたのだろう、上半身を壁の外にぶら下げていた。目の前から消えたアークトゥルスは、視界の下方で彼女を見ながら墜落していた。スピカはそんな彼を見ながらも、彼の名を呼ぶことさえ出来ず、ただ目の前で消滅するのを見ているしかなかった。下へ手を伸ばし今にも落ちそうな少女を、例の金髪の兵士がすんでのところで救い上げた。




