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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第三部 村長編

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FragmentⅣ:黄昏の街

恋愛は人を強くすると同時に弱くする。

友情は人を強くするばかりである。

ボナール


 誰かが言った、人は時に自分と対照的な人間に魅力を感じるものだと。しかし彼にとってそういう人間は、この世にいらない種類の人間だった。小学校時代の鷹巣幸助は、勉学に関しては並ぶ者のいない天才少年だったのである。彼の両親は当然その才能を喜んだし、彼がエリートコースに進むだろうことを期待していて、幸助もそれを望んでいた。それが、この世で一番美しい生き方だと思っていた。

 そんな彼は外見も良いので友人は多かった。ある友人が幸助にどうしてそんなに勉強が出来るのと訊いたことがあった。彼の答えはこうだった。

「知らなかったことを知ることが楽しいから」

 進学のことを考えて私立の中学へ行くよう両親に勧められてはいたが、勉強はそこでなくても出来るし、親の負担にもなるし、何よりせっかく出来た友達と離れてしまうのが嫌だと言って、彼は公立校を選んだ。近くにある四つの小学校から生徒が集まるその中学は、ピンからキリまで、有象無象が集まる坩堝のような環境だった。幸助が忌み嫌う、不良少年も少なくはなかった。

 彼はテレビで、家出して警察に保護される少女や、夜の一般道をバイクで暴走してパトカーとカーチェイスを繰り広げるのを見たことがあった。若者の煙草離れを指摘し、一方で未成年の喫煙を批判する新聞記事を呼んだことがあった。それらは全て、たかだか十二歳の少年にとっては、銀幕のフィクションや国際面の記事と大差のないことであった。そこで彼は思ったのである。宮沢賢治や新美南吉の物語だってフィクションだし、歴史の教科書に書かれていることは名前も知らない国の選挙と同じくらい現実味がない。台形の面積を求める式は覚えたものの世の中にその図形を見ることは殆どない。彼が勉強してきたことだって、結局は何の役に立つのか分からない、せいぜいが娯楽という程度のものだったのではないかと思い始めたのだ。

 さらに、年齢的に買えないはずの猥褻な本を回し読みしたり、休み時間の度に窓から顔を出して煙草を吸ったり、あるいはトイレに隠れて吸ったり、平然と遅刻やサボりや早退をしたり、そんな生徒がいる光景が目の前で繰り広げられていた。その時彼はこう思った。活字や電波の情報より、この惨状の方がよっぽど現実に近い。自分が唾棄すべきと考えていた人々が手の届く距離にいる。しかし、彼らが何故そうしているのか分からない。それはいつしか、知らないことに対する好奇心に変わっていった。

 中学生というのは、心身共に大きく変わる時期である。比較的真面目だった幸助の友人とて例外ではない。反抗期に入り親への侮辱を垂れ流すようになった友人が、彼には理解できなかった。反抗期なるものは彼も知識としては知っていたから、その真っ只中にいる少年に興味を惹かれた。どういう感覚なのかと尋ねてみると、幸助の性格を知っている少年は、彼を挑発するようにこう言う訳である。

「どーせお前みてーな優等生のおぼっちゃまには分かんねーだろーよ。あれだろ? 親のゆーことをほいほい聞いて、親を喜ばせるのが子供の務めだとか思っちゃってる系? んまー俺も最初はそっち系だったけどよ、中学生になると電車が大人料金だろ? 小坊時代には出来なかったことも出来るようになってくだろ? エロ本みたいなのはいねーけど女子もエロくなってきただろ? そういやお前の前の席の小鳥遊! あいつは胸でけーよな、羨ましいぜ、夏服になったらあいつの透けブラ見放題だろ? 今日は何色かとか妄想しねえ? ああそう、しねーの。お前はまだガキってこったな。いや、俺だってまだ千人斬りまであと千人状態だぜ。っていうかお前モテるんだから彼女の一人や二人作れよ! それに引き換え俺は女子が話しかけてきたと思ったら『鷹巣君って彼女とかいるのかな?』だぜ? 分かるかよ俺のこのむなしい気持ちが! ん? 俺はいつも『知らね』か『いねーんじゃね?』か『直接訊けよ』って答えてるぜ。何だよ文句あっか?」

「いや文句はない。今度誰かに言われたら俺は極度のシスコンで小学生にしか興味ない変態なんだって言っといてくれ」

「おい、お前まさかロリコンなのか? え? 断るのが面倒? お前って奴は! 一人くらいよこせよこのヤロー! ならいっそお前の妹を……いや冗談だって。ほんと幸助には冗談が通じねーな。というか妹いたのな。んで、何の話だっけ? 小鳥遊がDカップはあるだろうなって話?」

「下ネタ話はもういいから。反抗期ってどんな感じなのかって話」

「んでまーなんだ、こうな、勃起するようになるだろ。いや話は最後まで聞いてくれ。そうするとな、体が大人になったって証拠だろ? 今まで見上げるばっかりだった親と同じステージに立ったって感じがするじゃねーか。いつまでもガキのまんまじゃいられねーなって思うようになる。するとだな、親の言うことをいちいち聞くのが嫌になるんだ。いつまでもガキだと思って接するもんだからな」

「ふーん、そんなもんか」

「お前もいつか分かる時が来るぜ。楽しくもあるぜ、親の驚いた顔を見るのとか、いちいち話す時にも駆け引きが必要になることとかな」

「楽しいのか」

「まあな。それにな、目覚めると漫画の好みも変わった気がするんだ」

「そういや、バイブルだって言ってた『ストライカーの翼』がないな。Jリーグ編も。売ったのか?」

「近所に大学生の漫画オタクのにーちゃんがいるから交換して貰った。これとな」

「『番長の策士』? なんか絵が一世代前の中途半端な劇画みたいだな」

「お前は分かってねーな。漫画ってのはデフォルメすりゃ良いってもんじゃねー。リアルだけどリアルからちょっと離れたくらいの絵が、こういうストーリーに合うんだよ。時代劇とか暗殺者を描く劇画界の大御所とはそこで差別化を図るって訳だぜ」

「お前が漫画論をそんなに熱く語るの初めて見た」

「さっき言ったにーちゃんの受け売りだけどな。とにかく、お前はまずこれを読め。主人公は、外見はともかく幸助にそっくりで、全国模試一位クラスの実力者なんだ」

「それ神様を殺せるノートを拾う話?」

「違う! 『フラノ』の主人公と設定がかぶるところもあるが全然違う!」

「分かったから声を抑えろ」

 ちらりと本棚に目をやると、『フランドル・バーディの予言日記』全巻が鎮座している。なお、予言日記はプロフェシー・ノートと読む。雑誌連載時には謎解きが話題になり、本編の謎解きシーンや単行本の空きページに雑学が挿入されることで人気を博した。小学生が読むには難しい内容のはずである。

「んでその主人公は、文の世界は極めたから今度は武の世界で頂点に立ってやろうと思いつく」

「中学生でそんな事考えるなんて相当頭のネジぶっ飛んでるな」

 第一巻の裏表紙にあるあらすじを読みながら幸助が言った。

「そうして空手の道場に通い始めるが、何しろガリ勉で運動神経悪いくせに強い敵をぶっ倒したいとほざく。しかもその道場は半分暴走族の溜まり場みてーなところだったからからかいの対象だ。でもひょんなことから根性と才能がヘッドに気に入られて、その地域のワルどもを制圧する旅に策士としてついていくってストーリー」

「何がそんなに面白いんだ?」

「殴り合いの世界に理論で武装して勝っていくんだ。味方も騙して勝った時なんか鳥肌ものだぜ」

 物は試しだ、未知の世界に入る、こういうものをきっかけとしてみるのも悪くないとその時幸助は思った。彼はしばらくそれを借りることにした。

 そして、それが契機となった。魔が差したと言って良いかも知れない。親は敬うもので喜ばせることを今までの目標にしていたが、それは裏を返せば親の操り人形になっているだけではないのかと思うようになっていった。相変わらず夜間パトロールに密着したテレビカメラは家族と不仲を起こした少年少女を映し出している。殺人を犯した匿名の少年のプロファイルは、勉強が出来て大人しいタイプだったという。そんな彼らと自分は似ているんだと、そう感じるようにもなっていった。

 そんなある日。男子トイレで用を足していた幸助は、窓際で煙草を吹かす三人組をチラチラと見ていた。手を洗っているところに、筋肉質の男が新しい煙草を見せながらやってきて、お前も吸うか、とニヤニヤしながら言った。幸助が驚いて逃げることを期待していたのだろう。だが彼は、じゃあ火くれるかと平然と言い返した。男が驚いたのは言うまでもない。他の二人も同様だったが、彼らは面白半分で、煙にむせ返る幸助に煙草の味を教えた。それは、授業開始を告げるチャイムが鳴っても続いた。逃げ出さずについてきた幸助に彼らは優等生のお前が何故そこまでするのかと尋ねると、彼はたとえ優等生だろうと考えることは同じだ、と事情を話した。俺が目指していた世界だけが全てじゃないんだと知ったからだ、と。最初に声をかけた男は、そんな彼をたいそう気に入って、仲間に入れることを認めた。この男こそが、後に鷹巣幸助の親友となる男、風見欽二である。

 幸助は欽二から魅惑的な不良の世界の話を聞き、また欽二は幸助から学校で教師の話を聞くよりよっぽど面白い話を聞いて、それが互いの楽しい時間になっていた。最初こそ欽二の仲間は幸助の存在を不審がっていたが、欽二がグループの中心人物だったので徐々に打ち解けていった。学校を超えての喧嘩にも、後方からではあるが参加するようになっていった。表向きには優等生を演じつつ、裏では不良に混ざるという二重生活。家庭には、帰りが遅いのは居残って勉強しているから、制服から煙草の臭いがするのは不良が教室でも吸うからと言い訳していた。

 中学を決めた時と同じ理由で、高校も近所の県立高校を選んだ。偏差値の低いところを選んだので、さすがに両親も不審がっていたが、幸助はそれを無視していた。

 進学後に彼が最初にしたことは、普通自動二輪免許の取得だった。彼は四月生まれなので、卒業式後の休みを利用することで自動車学校に通えたのである。元々要領の良い彼にとってその程度は造作もない事だった。欽二もそれに遅れること一ヶ月――もちろん誕生日が理由だが――、免許を取ると、不良のつながりから暴走族の真似事のような事をし始めた。幸助がグループのボス、鴨宮大地に面会したのも、欽二の伝である。彼も最初は幸助を見た時何かの冗談だとさえ思ったが、かつて本気で殴りあった経験があり人間的に信頼できる欽二の勧めもあって、仲間入りを承諾した。そして彼はその参入が正解だったことをすぐに知ることになる。スピードの出せるルート選び、検問に引っかかりにくい場所、それから戦争(多人数での喧嘩を彼らはこう呼ぶ)の戦略作りに、幸助の頭脳が貢献したからだ。

 彼が宮守飛鳥という女性に出会ったのはそんな時である。髪を金色に染めてピアスを幾つも開けて肌を小麦色に焼いた、いわゆるケバケバしいギャル。それが第一印象だった。せっかくの金髪は何故かボサボサなのに化粧はきちんとしている、ちぐはぐな外見。そんな彼女は、一団を仕切る鴨宮の恋人だった。挑発的に、かつ官能的に舐めまわすように睨んだ双眸を、幸助は忘れられなかった。

 彼女と出会ったのは日曜の夜だった。明くる朝彼が登校し、靴を履き替えた次の瞬間、何者かに腕を強く引っ張られた。何すんだ、と罵倒するのをすんでのところで思い留まる。引っ張っているのが女子生徒だったからだ。斜め後ろからは黒い艶やかな短い髪と顔の輪郭が見えるがそれだけだ。どこに行くんだと問いかけても答えはなく、連れ込まれたのは保健室、そのベッドだった。

「何なんだよ、いきなり」

 女子生徒は彼を解放すると、ベッドに腰掛けて幸助を見上げ、怪しく笑いかけた。

「まっさかオナコーの男だったとはねぇ?」

「は?」

「私よ私。もう顔忘れちゃったの?」

「まさか宮守さん?」

 その目つきは彼女で間違いなかった。しかし、昨晩とは他の要素が違いすぎる。

「飛鳥でいいって」

「あの金髪はウィッグですか」

「タメ口でいーよぉ、他人じゃないんだからぁ」

「でも年上でしょう」

 襟元のリボンの色が彼女の学年を示している。

「たった一年早く生まれただけで頭ペコペコ下げるのはおっかしーよねぇ? オリンピックでメダル取る中坊もいれば、ただ年取ってるだけの自己中ババアもいる。年が全てじゃないでしょ?」

「分かったよ、飛鳥」

「よろしい。まあ座れ」

「今ここじゃなきゃダメなのか?」

「ん、授業出んの? んじゃメアド交換しよ?」

「どうして」

「先輩命令! じゃなくて、大地の女命令! あ、こういう言い方すると巫女っぽい?」

「宮守っていう苗字もそれっぽいな」

「おー、ほんとだ。あ、待ってよ、せっかくここまで来たのにこれで終わりなんて嫌だよ!」

 カーテンを開けて出ていこうとする幸助の手首を飛鳥が掴んだ。不承不承、彼はアドレスを交換し、ようやくその場を去る。二人は休み時間の度に幾つかメールを交わし、そうしたことでいくつかの謎が解けた。金髪は彼の指摘通りウィッグ、肌の色は化粧でピアスは普段はつけていない。学校の顔と鴨宮用の顔を使い分けているのだと彼女は言った。

 彼女は前の晩に顔を合わせる以前に幸助のことを知っていたという。それは彼女が放送委員として入学式に参加していたからだった。入試の成績がトップで新入生代表挨拶をした幸助をそこで見たのである。一度見た男の顔と名前は忘れないという特技もありよく覚えていたのだが、同じ名前の彼が昨晩に現れた時には、何かの間違いだと思ったという。それを確かめようと今朝は珍しく朝一番に登校して下駄箱のところで待ち伏せしていたそうだ。

 面倒そうな女に目をつけられたかな、という愚痴を心の中にこぼしつつ、彼はそのまま放課後のドーナツ屋デートに付き合わされることになった。

「鴨宮さんに見つかったらどうする」

「平気。だって大地はバイクに乗ってないと行動半径狭いから。どーぅせ隣町だしぃ、化けの皮を剥がしてる私には気づかないよ?」

「化けの皮って自分で言うのかよ」

「自分が雌狐だって自覚はあるよ? コンコン」

「じゃあ俺も騙すのか」

「本当の私を見せておいて、今更何を騙すの?」

「そうだよな。騙すつもりなら最初から正体を明かしたりはしないか」

「それより幸助って眼鏡かけようとは思わない?」

「別に視力には困ってないけど」

「じゃ伊達眼鏡でも良いよ。幸助って眼鏡顔だからきっと似合うよ。頭良さそうに見えるし」

「何だよ眼鏡顔って……それより、何か話があったんじゃ?」

「うん、どうして幸助はあんなことしてるの? それが気になって気になって。ねぇそのもっちリングチョコパフェ味ちょーだぁい」

「ならその抹茶プリンで手を打とう」

「うぐ、半分じゃダメ?」

「交渉には応じない。というか話すつもりはない」

「んじゃ『あーん』してあげようか?」

「拷問か」

「何それ信じらんなぁい。もしかして幸助ってBL系なの? この世界に入ったのもそれが理由? あ、BLはボーイズラヴのことね」

「恋愛対象は女の子だよ。彼女いたことないけど」

「じゃぁ私がなってあげるよ?」

「話にならないな」

「いーのそんな事言って? 私が大地にチクるかも知れないじゃん? いじめられたって」

「むしろ二股宣言の方がやばいだろ」

「新入りの言葉なんか信じると思う?」

 その勝ち誇ったような笑み。幸助は不快感しか抱かなかった。仕方なく彼は、人のいる場所では嫌だからと、後日場所を変えて話すことを約束した。

 その一方で幸助の家庭では、彼の非行に段々と勘づき始めており、罅が入り始めていた。

『その日』は梅雨も終盤戦の七月上旬だった。これまでに何度も逢瀬を重ねるうちに、彼女のことを信用しても良いと思うようになった彼は、非行の道に進むようになった些細なきっかけを話した。それは、夕日が差し込む放課後の教室での出来事だった。

「それでここまで? 大したもんじゃん?」

「それだけのことでここまで狂うんだから、どうかしてるよな。俺はどっちを選んでも正解だったと思ってるけど」

「いいや、誰にだって出来ることじゃにゃいし。こういう道だって、ある意味でエリートコースじゃん? マイノリティ的な意味で。やっぱあんた凄い奴なんじゃない? 気に入った、私の男になれ」

「人の女を取る趣味はないって、前にも断ったろ」

「じゃあ無理矢理にもそうしてやろうか」

 飛鳥は舌なめずりをして、幸助を窓際に追い詰める。右手を窓枠について無言で威圧し、幸助の伊達眼鏡を取って投げ捨て、顔を近づけていく。

「お前、鴨宮さんの彼女なんだろ、いいのかよ」

「バレなきゃ何したって平気じゃん? 抵抗しないってことは幸助もその気なんでしょ? ほら、心臓がバクバク言ってるの聞こえるよ。それに隣の教室からアベックがヤってる声もするし、いいでしょ?」

「アベックって何年前の言葉だよ」

 本当なら突き飛ばしてでも拒絶するべきだった。しかし普通ではないとはいえ彼も健康な男子である、目の前に年頃の女性がいて体を密着させてきているこの状況、本能に体が逆らえるはずもなかった。

「なあ、廊下から見られてんぞ」

「いーじゃん、見せつけちゃえ。ね、私じゃ嫌なの? 中古の女だから嫌なの? それともここだから?」

「そういう問題じゃない!」

「じゃあ場所変えようか。でもその状態じゃ歩けないよね。私が鎮めてあげる」

 飛鳥は左手を幸助のズボンの中に滑り込ませた。その先のとめどない欲望に、幸助はいつしか抗うことを忘れていた。


 とんでもない女に目をつけられて、あまつさえやってはいけないことをヤってしまったことを、彼は欽二に告白した。

「そんなのいつものことだ」

「は?」

「飛鳥はこの学校じゃ有名人だ。何しろ顔が良いからな。服装も校則を順守してる珍しい生徒だって、先公には可愛がられてる」

 それは幸助も似たようなもので、実際彼は皺のないワイシャツに指定のネクタイをしているのに対し、欽二は柄シャツである。

「それが表の顔か」

「そうだ。まあ、その『可愛がる』の意味も、案外やばいことをしてるって意味なのかも知れないが。裏の顔は要するに売春だ。いわゆるオヤジと相手をしてるのかどうかは知らないが、万札とゴムを持って来た奴には喜んで抱かれてるそうだ」

「財布やらバッグやらが高そうなのはそうやって稼いでるからだったのか。鴨宮さんはこの事を?」

「知らないか、知っていて黙認しているか。どっちでも同じ事だな」

 黙認しているとしたら、単に諦めているか、あるいはその稼ぎを貢いでいるか。だとしたらその関係を恋人と呼べるのか疑問ではあるが、むしろ後者があり得る、そんな予感がした。その場合でも、支払いをしなかった幸助のことがバレてしまうのは絶対に避けなければならなかった。

「学校にしてみれば優等生、そんな彼女が売春をしているなんて言っても学校側は信じない。なんかやばい匂いがするな」

「前借りさせてパシリにしてる男が何人かいるってのは聞いてる」

「あくどい、いや賢いのか」

「両方だろう」

「どうしてお前はそんなに詳しいんだよ」

「お前が来るより前から鴨宮さんとは付き合いがあったから、その伝で飛鳥のことも知ってた」

「訊くまでもないこと訊いちまったな」


 幸助と飛鳥が肉体関係を持ってから数週間、二人は恋人と呼べるだけの仲に発展していった。ただし学校やバイク集会の際にはあくまで他人として振る舞う、奇妙な関係ではあった。そんな日々を過ごし続けた、とある晩秋の雨の土曜日。幸助の両親は大喧嘩して、もう離婚だという話をするまでに至っていた。その原因には幸助の行動も少なからず絡んでいたようだが、面倒なことには巻き込まれたくないと、その日彼は自室に閉じこもっていた。雷の音が段々と近くなってきた頃、彼の携帯に飛鳥から電話がかかってきた。彼女は涙声で、今から言う場所に今すぐ大急ぎで来て欲しいと告げた。今すぐ、という言葉に幸助は躊躇した。もうすぐ日付が変わろうかという時間帯で、しかも大雨だったからである。それでも、飛鳥の悲痛な叫びを聞いて、大人しくしていられるほど幸助は薄情ではなかった。

 急いでレインコートを来てバイクに跨り、目的地へと飛ばす。時間短縮なら、曲がりくねった総距離の短いルートより、直線が多く明るい道を通るのが好都合だ。そうして選んだ道に、一本の橋がある。川を跨ぐ長い橋で一直線、交通量も少ない上に目的地に近い。ここを渡るのは必須だった。そして幸助のバイクはその橋に差し掛かると一気に加速した。だがそこはいつもと雰囲気が違った。街灯が全て消えているのだ。停電ではないようだから、風で電線が切れたのだろう。暗くてもヘッドライトがあるし、視界は開けている。彼はスピードを更に上げた。

 その時、前方に突然何かが現れた。黒い何か。それが人だと気づくより早く彼はハンドルを切ってブレーキをかけたが、その勢いを殆ど殺しきれず歩行者とぶつかり、幸助もバイクごと転倒しかなりの距離を滑った。気温が低いため着込んでいたので大怪我にこそならなかったが、痛みで立ち上がることもままならない状態だった。自分とバイクを車道からどけて警察と消防に連絡を――そこまで考えて、彼は意識を失った。


 二人が目を覚ましたのは病院のベッドだった。幸助は医者から、脳震盪を起こしたが特に大きな異常はなくすぐに退院出来るという話を聞いた。もちろん、その後には警察での聴取が待っているだろうことも。彼の隣には飛鳥がいた。彼は飛び起きてスツールに座り話を聞いた。彼女は、幸助とぶつかったのが自分だったと告白し彼を驚かせた。どうしてそんな事を、と問いかける彼に、飛鳥は半分笑いながらこう言った。

「幸助とのこと、バレちった。私が他の男と金を巻き上げるために寝るのは認めてたんだけれど――これも相当に変態なプレイだよね――知り合いとただでヤってるのが気に食わなかったんだって。変な話だよね、人のこと言えないけど。だから大地は、私の手で幸助に制裁を下すか、幸助の手で罰を受けるかを私に選ばせた。その結果が、あれ」

 いつかは来るだろうと思っていた時が、彼の知らないうちに来ていた。ただそれだけだった。

「どうしてそっちを選んだんだよ。全部俺が悪いんだ、俺を刺せば、被害者は俺一人で済んだのに!」

「出来ないよ、あんたを手に掛けるなんて。最初に学校で幸助に声をかけた、私が全ての元凶。見境なく男を貪ってた私への神罰って思って、私は幸助に、あわよくば一緒に、破滅するのも悪くないかなって、そう思ったんだ」

 飛鳥は笑っていた。不気味な笑顔だった。

「それを鴨宮さんが望んだのか……お前達お揃いだな! 本当に頭がどうかしてる」

 しかもこれはその場の思いつきで実行されたものではない。飛鳥を死なせるやり方の検討に始まり、幸助を呼び出すルートとその時の演技、実行する場所と時間帯の選定、視界が悪くなる雨の日を狙い、橋の街灯を全て割り、飛鳥とそれを見届ける数名が全身黒ずくめで見えづらくさせる、もし飛鳥が軽傷なら橋の下に投げ飛ばす、などなど、用意周到な計画だったと飛鳥は言った。鴨宮と飛鳥だけの話ではなく、仲間数人を巻き込み、かつ飛鳥は自分が殺されるかも知れない計画に参加していた。それを考えると幸助は発狂しそうになった。自分の知らないところで全ての計画が進み、加害者としてはめられた。しかも愛した人を傷つける形で。

 こういう残酷な形で復讐をする世界――自分が足を踏み入れたのはこういう場所だったのだと、彼は今になって後悔した。この世界は、さすがにもう耐えられなかった。

「でも俺より早く気がついたってことは軽傷なんだろ? そこがせめてもの救いだよ」

 彼がそう安堵したのも束の間、飛鳥は深刻な面持ちになって語りだす。

「骨盤がね、やられちゃってるんだって。手術したから命に別条はないらしいんだけど、その代わり、もう私は歩けないだろうって。この体だと妊娠するのも危険だろうって言われたよ」

 幸助は言葉を失った。謝る気力さえ、もはや残っていなかった。

「これは罰なんだよ。幸助とは一回きりの関係で終わらせなきゃいけなかったのに、いつまでも続けた馬鹿な私への罰。だから幸助、もう二度と私には会わないで。そうすれば、大地は許してくれるって」

「本当にそう言ったのか? いや、それは俺も望むところだ。今手元にケータイないけど、後で全部消しておく。それと、俺転校するよ、そうすれば間違っても会うことはなくなる。嫌なことは思い出さなくて済むしな」

 そして幸助は、ふらつく足取りで病室を出て行く。

「どこ行くの?」

「俺に対する罰を受けに、だ」

 一階まで降りて正面玄関を出る。もう夕焼けの見える時間だった。駐車場に男が五人、固まっているのが見えた。いるかどうかは賭けだったが、鴨宮大地とその取り巻きだった。

「随分な寝坊じゃねえか、あぁん?」

 髪を金色に染めた筋肉質の男、鴨宮が大声で言った。取り巻きが幸助の背後に回る。

「話は全部飛鳥から聞いた。好きにしろ」

「俺ぁ物分かりの良い奴は好きだぜ!」

 鴨宮が渾身の右ストレートを幸助の顎に放つ。後ろに倒れそうになる幸助を背後の取り巻きが支え、鴨宮へと押し返し、胸にジャブを二発、腹にもう一発ストレート。幸助の頭が下がったところを狙いすまして蹴り上げ、転ぶ前にまた取り巻きが押し返してアッパー。押し返してストレート。そうして合計三十発は当てたところで、彼の手を止める者が入った。取り巻きの一人でもあった欽二である。

「あんだよ、おめーだってこいつが何したか知ってんだろ? せっかく仲間にしてやったのに俺を裏切るような真似しやがって!」

「じゃあ訊くけど鴨宮さん、一体何のために幸助に飛鳥を殺させるシナリオを作ったんですか」

「それがおもしれーと思ったからだ文句あっか! 実際にやって見せたらこのザマだ、ツマンネ! 俺をもっと楽しませろや!」

「幸助を連れてきたのは俺です。俺にも責任があります。俺が相手になりますよ、鴨宮さん」

「こいつを庇うのか! 欽二!」

 その一言をきっかけに、欽二の中で何かが弾け飛んだ。

「ああそうだ! そもそも幸助をこの道に入れた俺にも責任がある! 俺はこいつの道を間違えさせた罪を償わなきゃなんねえ! それにあんたのやり方は気に入らねえ! 何故飛鳥には何もしない!」

「あいつは退院後にもっときついお仕置きをしてやるつもりだ。許されたと思ってるところにナイフを突きつける。どんな顔するか想像してみろよ……おい何だよその目は。やる気か?」

「鴨宮さんが勝ったら俺も含めて好きにしろ。俺が勝ったら俺と幸助と飛鳥はチームを抜ける。もう二度と手を出さない。約束しろ」

「それはこっちのセリフだぜ? 後悔すんなよ!」


 力と勢いに任せただけの鴨宮と、幸助との練習でテクニックも磨いていた欽二、対決は一方的なものになり、欽二の勝利に終わった。鴨宮はその翌日から消息不明になったという。

 幸助は気を失っている間に両親が離婚するという惨状も起きていたが、それを乗り越えて欽二と共に転校した。

 またバイク事故は重度の傷害として立件されるかに思えたが、飛鳥が自殺のために暗い場所を狙ってわざと飛び出したと証言したことにより、幸助の罪は軽くなりそうということだった。それでも速度違反と傷害は間違いないので、免許は取り消されることになった。

 そういう訳で大事にはならなかったが、街灯が割られたことに対し器物損壊で警察が調べていること、それが原因で二人が怪我をしたことが報道された。

 それからの二年間、幸助と欽二は勉学に集中し、大学への進学を果たして住所を移した。幸助はこの期間に、宮守飛鳥に関する記憶を知らず知らずのうちに封印していたのだった。


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