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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第三部 村長編

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ChapitreⅩⅨ:君は僕の何を知る


我々はみな真理のために闘っている。

だから孤独なのだ。寂しいのだ。

しかし、だから強くなれるのだ。

イプセン


「――これは本当に鮮烈なエピソードだったんだ。築き上げてきた関係が崩れるんじゃないかって、彼女は心の底から心配していたからね。でもだからこそ、それが最大の契機になったんだよ」

 スピカは、自分が今独り言を言っているに過ぎないこと、自分の知り合いの女の子について語っているに過ぎないことを自分に言い聞かせながら、大きく息を吸って、続ける。

「こうして客観的に考えてみると、これっていわゆる吊り橋効果に過ぎなかったのかも知れないね。でもそれ以来彼女が、吐いた嘘がばれたんじゃないかと疑って彼のことを意識するようになって、それが結局、気づけば恋心に変わっていたんだって」

 あまりに婉曲的で、しかし共通認識のある彼らの間では非常に大胆な、愛の告白。しかしこの言葉は当然として、アークもスピカも本当の名前を隠し続けていること、彼らが鷹巣幸助と天野美奈という二人の男女であるという証明を排除していることを前提としている。故にスピカが語るこの言葉は、誰にでも理解できる表面的な部分において、無関係な他人の色恋沙汰を扱っているだけなのだ。

 逆に言えばその間接性――対面ではなく手紙で行われるような――が、引っ込み思案で内気、受動的な彼女をして大胆不敵なアプローチを仕掛けさせた、とも言える。

 最後の一言を彼に届けて以来、スピカは心臓の激しい鼓動が抑えられず、ずっと黙り込んでいた。それはもちろん彼の返事を今か今かと待っているからだが、耳をそばだてればそばだてる程、心臓の音が肌を通じて伝わってくる。

「ねえ、何か言ってよ」

「ああごめん、あまりに突然だったから」

 二人とも、声が震えている。何の前触れもなく、二人きりで話がしたいと言い出したスピカの話がこれである。驚かない方がおかしいくらいだ。

「彼女には勇気がなくて、それから自分が周りを騙していることが後ろめたくて、内に秘めた思いを伝えられずにいるの。ねえ、もしその女の子が意中の彼に思いを打ち明けたとしたら、彼――」

「もうやめてくれ!」

 遮ったのは、アークトゥルスの怒声だった。彼は両膝にそれぞれ手を置いて項垂れていた。

「そんな男の話なんかしないでくれ」

「……え?」

 スピカは驚愕と恐怖から、恐る恐る、髪に半分隠された彼の横顔を見つめた。自分の手が震えているのが感じられ、彼女は動揺を抑えられなかった。

 それは、共通認識にひびが入った瞬間だった。アークが幸助であるなら、このような言葉が出てくることは全く想定できなかったからだ。だがあるいは、スピカがここにいない別の人物に対する愛を語っているという表面上の解釈であるならば、さしておかしいこともない。

「ねえ、それってどういう意味?」

「どうもこうも、そのまんまの意味だよ。そんな話をされても、俺にはどうして良いか分からないんだ。それより、スピカ、一つ忠告がある。君も友人も、その男を好きになっちゃいけない」

「どうして?」

「そいつに会ったことはないけど、俺には分かる。その男と付き合っても、誰も幸せになれない。むしろ、不幸を招くだけだ」

「ねえ、何を言ってるの?」

「君にはもっと相応しい男がいる、って」

 スピカにとって、自分の名前を言うことも彼の本当の名前を尋ねることも適わない、という制約がこんなにももどかしく思えたこともなかった。いや、これはリゲルとしての彼の姿を初めて目にして以来ずっとつきまとっていた問題だったのだ。

「そんなの、やってみなくちゃ分からないよ」

「分かるよ。そいつは女を半殺しにする下郎だ」

「違うもん!」

 たまらず少女は、まっすぐ立てないほど膝が震えているのに立ち上がり、俯く青年の正面に立った。本心を隠し、精一杯の演技をする。

「彼のことを悪く言わないで! 君に彼の何が分かるって言うの?」

 もはや彼女自身でさえ、自らを突き動かす感情の正体が把握出来ないでいた。目の前にいる、アークと名付けたこの男が幸助の像と一致しないことによる不気味さか、それとも愛の告白が思いもよらない言葉で断られたことに対する怒りなのか。

「君こそ、そいつの何を知ってる? そいつの本当の顔を、過去を、遍歴を、何を? 表面的なところばかり見て、主観でものを語って……そんなの、妄想も同然じゃないか。現実の姿を知った時の落差に耐えられるのか?」

「ねえ、顔上げてよ。私の目を見て言ってよ。そんな態度も、そんな言葉も、君らしくないよ」

 スピカは目に涙が溜まっているのを感じていた。そして、右手にはめた手袋を外してから、腕を振りかぶる。誰かに手を上げることは、彼女の人生でも初めてのことだった。

「らしくない? 一体俺の何を知ってるんだ。まだ出会って数日のこの俺の!」

「いいから私の目を見てよ」

 じっと待っていると、アークがようやく視線を上げていく。少女の泣き顔を見て、表情が一瞬ほどけたその刹那、

「ごめん」

 聞こえるか聞こえないか、という声量で呟いてから、頬に平手打ちを食らわせた。彼女の細腕で慣れないことを、しかも多少の手加減もしたので、音も見てくれもあまりに不格好なビンタだった。互いの痛みもたかが知れている。だが、心の奥底に突き刺さった痛み、それが何よりも苦しかった。

「スピカ、俺――」

「もういい、何も言わないで。私がバカだったんだよ。自分の命を危険に晒してまで追いかけてきた友達が君だと思い込んだ私がさ」

 指先と同様に心まで冷えていくことを感じて、スピカは半分錯乱していた。衝動的に引っ叩いてしまったことへの罪悪感もある。こんな事をするなんて、自分らしくもない。彼が誰なのか分からなくなったように、自分自身の姿も彼女は見失いかけていた。もう終わりにしようと思って足を出口の方へ向けたその瞬間、アークの右手がスピカの方へ伸ばされた。それを彼女は叩き落とす。

「君は私の捜してる人じゃなかったよ。彼なら、そんな酷いことを言ったりしない。別の村まで探しに行くことにする。だから、追いかけてこないで」

 手袋をはめ直して、スピカはリゲルの部屋から出て行った。だがその戸を閉めてもそこから離れられなかった。振り出しに戻ったとは思いたくなかった。今までの時間が無駄だったとは思いたくなかった。だがあんな言葉を残してきた以上、のこのこと戻るのも気恥ずかしい。

 その時、廊下の角を曲がってシオンが姿を見せた。少女が泣いているのを見るやいなや、

「スピカ様、一体ど――」

 人差し指を立てる仕草で、村長の妾は女中を黙らせる。それから彼女に歩み寄って囁く。

「お願い、アークに何を聞かれても、私のことは見ていないって言って」

 涙のせいで、声の震えが止まらない。

「それは構わないのですが、よろしいのですか?」

「女中のくせに口答えするの?」

「いえ、滅相もございません」

「じゃあよろしくね」

 と伝えた後、スピカは隣の部屋、反乱軍襲撃の日にシリウスから取り調べを受けたあの物置部屋へと潜り込んだ。それとほぼ同時に、廊下にアークが飛び出す音が聞こえた。

「シオン、スピカを見なかったか」

「いえ、お見かけしておりませんが」

「そうか。でもまだそう遠くには行ってないはず」

「あの、何かあったのですか?」

「会わなきゃ。会って、謝らなきゃ」

 それから先は耳を塞いだので、スピカには何も聞こえなかった。とても暗い部屋で彼女は一人座り込み、寒さに震える。涙のせいで、頬はよりいっそう冷たくなっていた。

『後に知る悲しみの傷を――』

 その瞬間、脳裏に奇妙な言葉が響く。男とも女ともつかない、今まで耳にしたことのない不思議な声。また同時に、身に覚えのある悪寒。これは、魔女の顕現だった。

『お嬢さん、絶望の味はいかが?』

 降ってきた声は一瞬前のそれとは異質、だが聞いたことのある少女の声だった。

「……しょっぱい」

『ええそうでしょう。当人には悲しく辛く、一度味わえば十分なほど不快で塩辛く苦い、でもその悲劇を傍観する者には、何度も欲する極上の甘美なる酒にも等しい』

「ふざけないで」

『まさか。これが私の有り様なのだから』

「人の不幸をあざ笑うことが?」

『傍観することが、よ』

「私を騙したの?」

『あの男が「彼」じゃなかったこと? 確かに私は彼がここにいるとは言ったかも知れないけれど、リゲルがそうだと言った覚えはないわ。それに、私がそう簡単に二人を引き合わせたと思うの? 本物のリゲルと、たまたま現れた偽者が同じ顔をしていたという偶然があるくらいなんだから、リゲルと友達が似ているだけって可能性も、十分考えられるでしょう? 勝手に思い込んでそれが事実と違っていたのだから……まあ、あなたから見たら私が欺いた、ということにはなるのでしょうね』

「やっぱり騙したんだ! 私に彼を救うチャンスを与えるようなことをほのめかしておいて、結局は、結局は!」

『結局は……何? 差し詰め私が二人を永遠に引き裂いたままにする、という展開かしら』

「もしそれが目的なら一生許さない。でも、それはないんだよね」

『何故そう思うの?』

「あなた最初に言ったよね、彼と一緒に帰りたければ命令に従うようにって。それは逆に言えば、あなたが強いた条件、つまり私が天野美奈であると明かさない限り、いつかは帰らせてくれる、ということでもある」

 受け答えをしながら美奈は、状況に反して自分がかなり冷静であることに驚いてもいた。とはいえ今彼女が言ったことは、この世界に来て以来ずっと頭の中のいつでも取り出せる場所に置いていたのだから、当然のことかも知れない。加えてもう一つ、マチルドとの会話から発覚した先駆者達のことからも自分たちがこの世界に取り残されることはないと分かってはいるのだが、この場でその話を切り出すのはあまりにも危険すぎた。

『そうね、今のところ破った様子はなさそうね』

 とはいえ、この少女、魔女と思しき彼女が何を企んでいるのかを尋ねるのに、これほどの機会もないかも知れない。

『でもね、良いこと教えてあげる。今だからね。別に本当の名前を教えたければ、教えても構わないのよ。ただしその時は、もう元の世界には戻れないと思うことね。逆に言えば、もうこの世界で一生を終えても良いと思うのなら、そういう選択肢もある、ということ』

「この条件は彼にも?」

『ええ同じよ。ただ教えてはいないから。彼に教えたいのならどうぞご勝手に。でももしそんなことしたらどうなるか、分かる?』

「こんなことして……目的は何なんですか」

『それを知ってどうするつもり?』

「私達が置かれている状況の、本当の意味を知るためです。理由も分からずにこんな場所に連れてこられて、何をしろという指示もない。私達がここにいることにあなたの目的や意図があるなら、それを知りたいんです。そうすればやるべき事もはっきりして、要求にも応じることが出来ます」

『なるほど。言っている事はもっともだわ。でも、それは出来ない相談。言ってしまったら、その時点で意味がなくなってしまうんだもの』

「意味がなくなる? それって、リゲルが幸助じゃなかったことと何か関係があるんですか?」

『気づいてないみたいだから言うけど……この村には、彼を変質させるだけの何かがあったと考えたらどう? それを見つけられないと、彼は元の世界に戻ってもあなたの知る彼ではなくなる』

「待って、それって」

『もう少しの間頑張りなさい』

「待って!」

 叫んだのもむなしく、気配は消え去る。

「変わってしまった……幸助が、この短期間で? そんな、あり得ないよ、たった二週間くらいで人間はあんなに変わらない! でも……」

 魔女は彼を変質させた何かを見つけろと言った。それがあるとすれば、大体の見当はついている。ところが、それがないと彼は変わったままになるという。理屈では説明のつかないものを、あの魔女は握っているということなのか。

 すぐそばで激しい足音がした。

「アーク様、一体どうなさったのです」

「今のスピカに会っても、きっと余計に傷つけるだけだ。今日は頭を冷やして寝ることにする」

「ご夕食は」

「いらない」

「では、その旨を調理場に伝えて参ります」

 アークの部屋を出たシオンが、スピカのいる物置をそっと開けた。

「今日はもうお休みになるそうです。お帰りになるなら、今のうちかと。ところでシルマは?」

「知らない」

「呼んで参りましょうか」

「いい。一人で戻れる」

 泣き顔を見られたくなくて、スピカはずっと下を向いたまま自室まで歩いた。そこで彼女は、床に倒れた女中の姿を確認したのだった。


「もう少しの間頑張りなさい」

『待って!』

 返事を待たず、少女は目の前にある光の玉を手で払った。花火のように四散して消滅する。

 彼女の足元には、花畑が広がっていた。花からは光る花粉が火の粉のように漏れている。夜のように暗いその花畑において、それは数少ない光源だった。空には星が無数に輝いている。色を失ったかのような世界に、彼女はたった一人で佇んでいた。

『――』

「何? ああ、今の子? 例の特別扱いの……そうよね、今のは確かに危険だわ」

 彼女は空に話しかけていた。つばの広い大きな帽子をかぶっているので、あまり顔は上げられない。

『――』

 空の揺らぎが、声とも地鳴りともつかない音を出す。彼女はそれを言葉として認識できるようだ。

「いいの? そんなことしたら『世界の歪み』を生みかねない。さっきあの子らを操って記憶を書き換えたのとは訳が違うの。世界に影響を与えないように計画を進めていく予定だったはずよ」

『――』

「分かったわ、『大いなるクランチ=ヴァニタス』、あなたには私にも見えないものが見えているのでしょうね? 見せて貰うわ」

 少女は言葉を唱え始める。すると花畑に彼女を中心とした銀の円がいくつも広がり、紫の炎を上げる。

「――anoetig vox」


 何か嫌な夢を見た気がした。しかし、頭の片隅に悪夢の残滓のようなものが感じられるだけで、それがどんなものだったのかは覚えていない。それは恐らく、昨晩の出来事に由来するものだろう。そんな不快感と共に目を覚ましたスピカは、体に何か違和感を覚えていた。

「おはようございます。ご気分はいかがですか?」

 女中のシルマがお辞儀をしながら言った。彼女は昨晩この部屋で倒れていたが、ただ眠っていただけだった。彼女はシオン同様にリゲルの部屋の前で待機しているはずだったが、何故かこの部屋にいた。シルマ自身もその経緯については覚えていなかった。気がついたらここにいて、戻らなければと思った直後に意識を失ったのだという。何かがおかしい。アークとシオンにも相談すべき事だが、喧嘩別れのような形になってしまったために躊躇われたのだ。

「スピカ様? ……スピカ様!」

 主人が顔を青くして口を動かしているのを見て、シルマは何事かと駆け寄った。スピカは喉元に手を当ててから、涙目で女中を見た。

「まさか、声を失われたのですか」

 ゆっくりと頷く。

「これは……さあ、医者に見せましょう!」

 差し出されたシルマの手にスピカは首を振ることで答える。

「ではアーク様のところへ参りますか?」

 スピカは頷くと、二人で村長のいる部屋を訪れた。シオンがゆっくり扉を開けて二人を招き入れる。

「まだお休みですので、お静かに願います」

「まだ眠られているのですか?」

「ええ、どうやら昨日のことでずっと思い悩んでおられて、お眠りになれなかったようなのです」

 彼女はちらりと心配そうな目で村長を見た。スピカはそんな彼の許に歩み寄る。アークトゥルスはうつ伏せで寝ていた。この村の住人は、背中の羽にあまり負担をかけないために椅子などに座るか、もし横になる場合は横向きかうつ伏せで眠るのが一般的のようだ。

 スピカはアークのすぐ近くで膝を床につき、彼の手を両手で握り、自分の額に押し当てた。

「どうかされたの?」

 シオンがシルマに囁きかけた。

「声が出なくなられたようなのです」

「そんなまさか」

 アークが目を覚ますと、シオンもその状況を認識せざるを得なくなった。彼がスピカについ言い過ぎたと頭を下げて謝ったのに対し、スピカは頭を下げるだけで何も言わなかったからだ。彼女がよほど怒っているのだと彼が勘違いしたのも無理はない。彼女はその質問に大きく首を横に振って答えると、顔に手を当ててくずおれた。

「一体どうしたんだよ?」

「声を、失われたようなのです」

 シルマに言われて、彼は驚きを隠せなかった。何が起こったのか聞き出そうにも、話せないのではイエスかノーかの質問でしか情報を引き出せない。原因は昨晩の事にあるという推測が立っただけだ。

「そうだ、俺の手に書けばいいんじゃないか」

 その事に気づいて、早速試してみた。しかしながら、アークは掌に指でなぞられる文字が判別できなかった。

「ごめんスピカ、もっとゆっくり書いて」

 上下反転しているのかと思った彼は手を水平でなく垂直にする。鏡文字で考えても、一向に分からない。何より、全ての文字が一筆書きされている。

 おかしいと思った彼は、今度は自分がスピカの手に文字を書いてみた。これがアークトゥルスのア、と言って書いても、スピカは首を傾げてみせただけだ。他の文字でも同様だった。

「筆談も出来ないなんて……!」

 念の為にと屋外に出て、踏み荒らされていない雪の上に木の棒で文字を書いてみたが、やはり同じ結果に終わった。ただし、それをシオンとシルマに見せてみると、スピカの書いたものは読めると言った。

 二人は二階に上がって、情報を整理する。

「さっきスピカが書いた文字は、どうやらこの世界で使われているものだ。この世界に送り込んだあいつが、不自由しないようにと頭に細工したに違いない。頭の中にある言語中枢、そのソフトウェアを書き換えたんだ。でも俺はスピカの書いた文字が分からなかったし、逆も同じだった。つまり俺は、会話はこの世界の言葉で出来るけど読み書きは元のままっていう中途半端な状態にあるんだろう。理由は不明だけど、そうするとこの状況が説明できる。質問だけど、さっき書いた文字、スピカは今まで、この村に来るまでに使った経験はある?」

 彼女は否定した。知識としてはあっても使った経験が浅い。それはつまり、つい最近手に入れたものであることの証拠である。

「決まりだな。体だけじゃなくて、脳まで操れるとなると、もしかしたら状況は思っていたより悪いのかも知れない。でも大丈夫、ちゃんと帰れるってマチルドさんと話して分かったろ」

 スピカは微笑みで返す。

「どうしても言葉で伝えなきゃならない時は、誰かに通訳を頼むしかないな。聞かれちゃ不味いことを話す場合は、まあ、行商人頼りか。手話が使えたら良かったのに」

 そこまで言って彼は、あることに気づく。

「Do you understand what I say?」

 スピカは首を傾げた。

「ダメか。英語使う回路もやられてる」

 階段を降りて女中と合流すると、シルマがスピカの髪を見て、先端が黒ずんでいると指摘した。確かに髪の一部が黒くなっている。汚れというより、その部分だけ染め上げたかのような感じだ。

「お綺麗なのにもったいない……」

「それより食事にしないか。考えたら朝から何も口にしてないし」

 召使がリゲルの部屋に食事を運び、四人での遅い朝食。昨日に何故かシルマが持ち場を離れていたことが話題になった。すぐ近くで待っていたはずのシオンでさえ、彼女がいなくなっていたことには気づかないでいたと語ったが、あまりに奇妙なことだった。この連続した怪現象、もしかしたら霊鳥の怒りを買っているのかも知れないとシオンは冗談混じりに言った。霊鳥は火を司る鳥であり、その火は命、光、怒り、死と様々なものを象徴する。その神はいつでもこの村の何処かにいて見守っているという考えもあるという。だから、不幸があると霊鳥様の怒りだと言ったり、物がなくなると霊鳥様が持っていったなどの考え方が存在するそうだ。

 食事が終わると、また女中二人を外で待機させる。前日の話の続きをするためだ。その時と同じ配置で、今度は、アークトゥルスが語る。

「昨日は本当にごめん。俺の知らない男の話なのに、まるで自分のことのように勝手に勘違いしてた。彼は優しいんでしょ? だったら俺が思うに、その子が本当のことを打ち明けたら、彼は騙されていたってことより、自分には心を開いてくれたって、嬉しく思うのが大きいんじゃないかな。だってそういう告白には、かなりの勇気がいると思うし。それに、その友達は一緒に冒険する約束をしたんなら、実は健康体だったって話は好都合じゃないか。俺がもしその男だったら、絶対に怒ったりしない。むしろ好きになってるかもよ? 何しろ、君が昨日話したことを聞いた限り、彼がその友達の嘘に気づいてないとしたら、よっぽど鈍感なんじゃないかな」

 彼は昨日ほどには感情の揺らぎもなく、すらすらと淀みなく言葉を紡ぐ。一度彼女の泣き顔を見て、自らの言動を反省したからだ。スピカに八つ当りしてしまった。彼女は心の奥底に隠していたものを打ち明けた。だから、彼もそこに秘めているもの、隠していた、彼の怒りの動機となった過去の出来事を、話さなければならないと感じていたのだ。

「だから今度その子に会うことがあったら、言ってあげて。躊躇わないで、本当の気持ちをぶつけてあげてって。そうすれば想いは報われるからって」

 スピカは腰を上げ、アークと肩が触れる位置まで接近して座り直す。小指と小指が触れても、お互い言葉もなければ動きもない。

「ここから先は俺の話。君の友達が恋した優しい彼とは全く違う、関係を持った女を破滅させた、最悪な男の物語だ。多分聞いても面白くないし、聞かなかった方が良かったって思うかも知れない。俺だって思い出したくはなかったんだ。俺のことを嫌いになるかも知れない。それでも……」

 スピカは彼の手を握った。背が低い彼女は彼の顔を見上げながら、わずかに首肯した。

「分かった。俺はかつて不良だった」

 言うなりスピカは肩で彼を押した。怒ったような目で彼を見る。

「いや嘘じゃなくて本当の話。今でこそこんなだけど、昔は不良だったんだ。きっかけは、親の俺に対する期待に嫌気が差したから、だろうな。中学は公立校だったから、当然悪い連中も集まってくる。その中に、俺も入ろうとした。そうした反抗期の過ちが、全ての始まり、宮守飛鳥という女性を破滅させる原因になったんだ――」


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