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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第三部 村長編
40/56

FragmentⅢ:約束のお守り


恋愛が与えうる最大の幸福は、愛する人の手を初めて握ることである。

スタンダール


 先程彼らを追い越した二人組を追い越し、歩調を緩めていた欽二と菜摘を追い越し、まるで何かから逃げるかのように彼らは疾走していた。実際はそんな逼迫した状況では全くないのだが。

 どれほどの長さがあったか分からない緑の巨大なトンネルを抜け、美奈と幸助は山頂の展望広場に出た。とは言ってもそこは、山頂の標識が立ち、背の低い草が蔓延るだけの開けた場所で、別に何か大したものがあるわけでもない。それでもレジャーシートを広げて昼食を楽しむ家族連れや、双眼鏡を覗き込んでいる壮年の夫婦、森林浴を楽しむカップル等々、やはり人で賑わっていた。

 急に視界が開けたその瞬間、幸助は自然と美奈の手を離していた。目に飛び込んできた青と白の圧倒的な初夏の絵画は、それ程に文字通り息を呑ませる自然の美しさを誇っていた。そんな一方で美奈は、草の上に四つん這いになって息を切らしていた。

「ごめん、大丈夫? やっぱり無理を」

 膝を立ててしゃがみ込む幸助。その言葉を美奈は下を向いたままで遮る。

「ううん、大丈夫。久しぶりだったけど、このくらいなら平気だって分かったから……」

 そしておもむろにリュックサックを放り出し、汚れるのも構わず草の上に仰向けに転がった。目を閉じ、深呼吸をしながら呟くように言う。

「もう少し、こうしてれば落ち着くと思う」

「そう……なら良かった」

 そして幸助も彼女の隣に座った。大きく息をしながら、二人で初夏の青空を眺めていた。吹き付ける風が心地良かった。自然と口元が緩み、どちらからともなく声を上げて笑い始めた。

「いやあ、久しぶりだなこういうの」と幸助が、独り言のように語り始めた。「ガキの頃はこうやって意味もなく全力で走るだけでも楽しかったもんだ。なのにいつしかそれがはしゃいでるとか焦ってるとかでみっともないって思われるようになってさ……なんか年取ると色んなもの忘れてくよな。昔楽しかったものって今やっても面白いものだし。あ、ごめん、女子には分からない話だったかな」

「そんなことないよ。私達って二十年しか生きてないけど、やっぱり過去に置いてきたものっていっぱいあるんだと思うよ。でもそうやって人は、前に進んでいくの。色んなものを捨てて。でも思った」

「何を?」

「男子っていつまでも小学生の心を持ち続けるものなんだなって。よく言うよね」

「全くだよ。でも別に悪いことだとは思わない。確かに、過去を断ち切ることで前進することもある。でもそれは、今まで歩いてきた時間を否定することとは違う。過去があるから今の自分があるんだって、男は無意識のうちに思ってるんだよ。だから思い出に囚われやすいし、子供の心をいつまでも持っていられるんじゃないかって、俺は思う」

「女は忘れて、男は忘れない、と」

 美奈はそう呟いた瞬間、『女の恋愛は上書き保存、男の恋愛は名前をつけて保存』という誰かが言った格言めいた言葉を思い出したが、敢えて口にはしなかった。

「極端に言えばそういうことかな。このサークルで遊んでいられるのもそう長くはないんだろうけどさ、忘れないでいてくれると嬉しい」

「うん……」

「そのためにもさ」幸助は立ち上がり、青空を見上げながら朗々と語る。「こんな小旅行なんかじゃなくて、これからももっと大きなことやろう。長野の山奥とか、北海道、広島、小笠原、海外に出るのも面白そうだ。思う存分遊んだり勉強したり出来るのは学生の間だけだって大人達は言うし。さすがに勉強を一緒に手伝うのは無理かも知れないけど、せめてそれ以外の時間はさ」

 何かに気付いたように、彼は視線を美奈の顔に落とす。立ち上がるのを支えようと腕を伸ばし、

「もちろん嫌じゃなければ、だけど」

 彼女もそれを掴み返そうとしたが、一瞬躊躇ってから彼の手を無視して一人で立ち上がり、服に付いた汚れを手で払う。そうしてから柵に向かって数歩、彼に背を向けてから俯きがちに言った。

「うん……来て良かった」

「何?」

 美奈は振り向きながら「き、嫌いじゃないよ、こういうの」と上擦った声で言った。その視線は幸助のそれとぶつかるとすぐに右下に逸れた。

「そう。なら良かった」

「あのサークルに居続けるよりは、ずっと」

 彼女は髪をかき上げるように片手を耳元に当てて、また視線を草むらに落とした。

「確かに。遊んでばかりで、合宿と称して遠征しても結局引きこもってるんだからな。そういうサークルだってのは分かってたんだけど」

 言いながら幸助は少しずつ美奈に近づいていく。

「あれなら一人旅の方が百倍マシだよ。俺と欽二は夏の合宿は参加しなかったけど、やっぱり似たような感じだった?」

「し、知らない。私も行かなかったから」

 美奈は驚いたような様子で慌てて答えた。必要以上に首を横に振って。その行動を訝しんだ青年は、顔をのぞき込むようにして尋ねる。

「そう……なあ美奈、さっきからずっと俯いてるけどさ、本当は辛いんじゃないのか? 気遣って強がるくらいなら――」

 続きを言おうとした刹那、一つの声が遮る。

「いたいた。もう二人とも、一体どうしたの?」

 現れたのは菜摘だった。呼吸は安定しているし、到着までに時間もあったので急いで来たのではないようだ。そして彼女は自分から問いかけておきながらその答えを待たず、美奈に近づいて言葉を続けた。

「ねえ美奈大丈夫? 苦しいならちゃんと言ってよ? 強がられる方がかえって心配するからさ」

「大丈夫、本当に大丈夫だからっ」

「大丈夫じゃない。顔真っ赤だよ。汗もかいてるし息だって……」

 人が行うコミュニケーションのうち、言葉が占める割合は一割未満だという。残りの九割は例えば表情、話し方や態度による伝達であるのだが、たった今の美奈の状態は、その言葉が嘘であると表明していた。その意見には幸助も同意している。

「ほら、どっか木陰で休も。幸助、なんだって美奈にこんなきついことさせたの」

「俺は――」

「やっぱいい。言い訳は後で聞くから。ほら行こ」

 そして菜摘は美奈の肩を支えるようにして、青年の許を離れていく。

「あとできっちり絞ってやんないとね」

「ねえ、本当に大丈夫だから」

「強がらなくていいってば」

 空いているベンチを見つけて二人で腰掛けるまで菜摘がずっとそんな調子であるから、美奈も結局流されるのであった。


 何やらばつの悪いままに一人にされてしまった眼鏡の男に、現れてからずっと黙ったままだった欽二が話しかけた。

「何があったんだ? お前らしくもない」

「あの場をどうにかするには、ああする以外の方法が思いつかなかったんだ」

「あの場?」

「傷に……過去に触れられそうになったんだ。バカだよな、俺……あんなん適当にあしらっておけば良かったのにさ、頭ん中真っ白になって、黙ってることしかできなかった」

 傷。過去。つまり幸助が思い出そうともしない、知られてはならない、だが欽二だけが知っている幸助のトラウマ。どういう話の流れでそこに至ったのかは欽二には想像も付かないが、ただ何が起こったのかだけは良く分かった。

「それで気まずい雰囲気になったのか。俺らが一緒にいればそんな事にはならなかっただろうに……お前達二人とも、切り替え早くなさそうだしな。俺や菜摘と違って」

「お前のせいじゃねえよ……なあ、俺どうすればいい? このまま解散か?」

「お前に悪気はなかったんだろ? だったら向こうの反応次第だな。そう悲観するな、菜摘だって話せば分かる奴なんだから」

「だと良いんだけど」

「あとは美奈の体調次第か」

 状況を大きく左右させるのにどうしようもないその要素が、幸助には非常に恐ろしく思えた。本人は大丈夫と言っていたし、彼の言葉にも問題なく――いや、多少のぎこちなさはあったが――投げ返してはいたが、どこまで信用出来たものか。

 木陰のベンチに座る女性二人の姿を眺めながら、幸助は足下に投げ出されたままだった美奈のリュックを拾い上げた。

「悲しいけど、そうなったらその程度の関係だったってことだよな」

 ――結論から言えば、いや、言うまでもなく、崩壊に至ることはなかったのだが。


「――それ、菜摘ちゃんの悪いところ」

 美奈をベンチに座らせるなり老婆心から色々と気遣う菜摘に、美奈は鋭く言った。今は心も体も落ち着いている。しかし菜摘の方は言われた言葉が分からないかのように「え?」と返した。

「自分がこうだって決めたら、周りの言うことを聞かないところ。しっかりと自分なりの考えを持って行動してるって言えば聞こえは良いけど、周りが見えないのって端から見たらわがままだよ」

「わがままって、そんな」

「ほらそれ。私の話聞いてない。聞くよりも前に自分の意見を通しちゃう」

「……ごめんね。でも、大丈夫なの? 顔真っ赤だったし息も荒かったし」

「体動かしたら心拍数上がるのは当たり前でしょ。菜摘ちゃん、心配しすぎ。入院してたとか体が強い方じゃないとか確かに言ったし、心配してくれるのも嬉しいけれど、心配されすぎるのは、かえって辛いんだよ。過ぎたるは猶及ばざるが如し、じゃあないけどさ」

「それって過去を悔やんでもしょうがないって意味じゃなかったっけ?」

「そう勘違いされやすいけど、正しくは度を超しているのは不足しているのと同じだって意味。ねえ話を逸らさないで。私、本当に大丈夫だから」

「うん、ごめん……あたし、美奈がそんな風に思ってたなんて知らなかった」

「分かってくれればそれで良いんだよ。自分の体のことは自分が一番良く分かってるから。それにほら、あの距離なら走れるくらいに体力は付いてるって証明にもなったし、走ったのも久しぶりでなんか楽しかったし」

 言って、美奈は立ち上がって両腕を空に向けて伸ばした。深呼吸を一つ、息を吐きながら両手をパタン、と太腿に打ち付ける。振り向いて、

「誰も悪いことなんかしてないんだよ。せっかく楽しい旅行にするはずだったのに、そんな些細なことで台無しにしたくないしさ。だからちゃんと」

「うん、幸助には、謝っとく」

「なら今すぐ! 走って!」

「今すぐ?」

「うん。気に病む必要はないって、一秒でも早く教えてあげて。その場に私はいない方が良いと思うし」

「ん? まあ美奈がそう言うなら……」

 それから菜摘は荷物を抱えて幸助と欽二が待つ方へと引き返していった。残された美奈はその背中をじっと見つめながら、どんな顔して彼らに会いに行くべきか、と考えていた。

(どうしよう、もう一度まともに幸助の顔見られないかも知れない……やっぱりさ、これって)

 恋なのかも……と呟いて顔がまた真っ赤になった。顔の両横にそれぞれ手を当てて、なんとか思考を落ち着けようとする。ぼうっとした頭が、視線で今し方座っていたベンチを捉えた。木製の、塗装の半分はげた背もたれのない長椅子。ちょうど大木の影になる場所にある。そんなとりとめのない思考を巡らせていると、自分で一体何を考えているんだ、と頭を振った。

 さすがにいつまでも一人で突っ立っているのはまずいと判断した彼女はゆっくりと三人の待つ場所へ歩き出すことにした。

(吊り橋効果ってやつかな。最初に会った時から今までそんな風に思ったこと一度もなかったじゃない。そうだよ、きっとそう)

 しかしそこで、最初に出会ったのはいつだったか、という疑問が生じた。最初に目にした、という意味ならば入学した四月の下旬、ゲーム研究会の最初の集まりだっただろう。とはいえサークルの人数は多く、その時点で印象に残る数などたかが知れている。しかも毎週あるサークル活動は結局暇潰しなので出席は義務ではないし、基本的に男女で分かれることが多かった。それでも幸助と美奈は互いを目にしたり、大人数でやるゲームで一緒になったりと多少の会話はあったかも知れないが、実際特に印象に残る程ではなかったのだ。ただ事実がどうであるにせよ、二人が本当の意味で出会ったのはやはり冬合宿のあの夜だという他はないだろう。思えばその夜が、今彼女がこの高原にいることのスタート地点だった。酒が回っていたとしても忘れられるような出来事ではない。美奈はその晩のことを思い出して、また赤面した。

(先に声をかけて来たのは確かに幸助だったけど、話がしたいって近づいたのは私の方だったよね。ああもしかしてもうあの時から……?)

 自分の思いを否定しようとしているのか、肯定しようとしているのか、彼女はそれさえも見失いかけていた。

「あの時は酔ってたんだよ、うん」

 そう呟いて自分の心をごまかそうとしても、一旦そうと意識してしまうと消えるのには相応の時間が必要だ。考えるのは簡単だが、敢えて考えないようにするのは難しい。むしろ逆効果で、そんなこと思っていないんだから今まで通り自然な感じで接すれば良いんだ、と自分に言い聞かせたところで、実際は何の効果もない。

 美奈が三人のところに戻ってきて、幸助が声をかけたのに過敏に反応し、彼が「なんか怖がられてる?」と不思議そうに尋ねたのも、無理からぬ流れだった。

「そんな訳ないよ。むしろ感謝したいくらい。あの合宿で一緒になっていなければ、今こうして楽しい思いをすることもなかったんだろうな、って」

 と言いつつも彼女は一度たりとも幸助の目を見ることはなかった。

「礼を言われるようなことは何もしてないよ。俺らだって、あの時美奈に、それから菜摘に会ってなければ、今頃何をやってるか分かったもんじゃない。何か一つ目的があるってだけでずいぶん違うし。そのきっかけをくれたのは美奈じゃなかった?」

「え?」

「菜摘にもいつだったか話したよな、ゲーム研究会での冬合宿の話」

「まあ、一応覚えてる」

「夜も更けた頃にさ、俺と美奈で酔い冷ましのためにベランダに出たんだよ」

 そうして二人で夜景と星空を眺めている時のこと――美奈が言ったのだ、「やっぱここやめようかな」と。その嘆息混じりに吐き出された言葉が青年の共感を呼び、少女の願望と相まって、今やこういう小旅行にまで発展したのだ。それを思えば確かに美奈が発端だったと言えるだろう。それに、と前置きして幸助は続ける。

「俺らは合宿に参加して、それでも続けたいって思えなかったらやめるつもりだった。いや、出発する前から殆ど決まっていたようなもんだけど」

「三人ともサークルを抜けようと思ってたの?」と菜摘が口を挟んだ。「ならどうしてわざわざ合宿に行ったの?」

「どうしてだろうな?」

 言って眼鏡の青年は欽二を見た。

「単に暇だったからじゃないか」と彼は答えた。「酒が飲めれば何だって良かったんだろう」

「かもな。あるいは……もしかしたらって僅かな望みをかけていたのか。人が集まってるところに本能的に寄せられていたのかな」

「うん、私もそんな感じ……だった。入会届を出した以上、参加しないのは悪いかなって」

 美奈がそう言うと菜摘は「まじめだなあ」とからかうように笑った。

「俺と欽二はあの夜に美奈と会ってなかったとしても確実にサークルを脱退してたよ。今頃バイトに精を出していたかも知れないし、一日中ごろごろしていたかも知れないし。男が二人ないし何人か集まったところで、レンタカー使って出かけようなんて思いもしなかっただろうしね。あの時美奈がプラネタリウムが閉館して悲しいって話をしてくれたからこそ今がある訳だから」

「それだとなんか、私のお願いに無理矢理付き合わせちゃってるみたいで悪いよ」

「こう見えても結構楽しんでるんだけど。きっかけなんて何だって良いんだ。重要なのはそれをどう見極めて活かすか、なんだからさ。負い目に感じることなんかないんだよ」

 その言葉が美奈の心身を軽くして、沈んでいた視線が上を向いた。

「大体、星を見に行くっていう目的が果たせてないんだからさ。昨日メールしたけど、むしろそのことで美奈が実はがっかりしてるんじゃないかって思ってたくらいだし」

「そんなことないって。そりゃあさ、泊まりがけが出来ないのはちょっと残念ではあるけど……」

「夏休みに持ち越しじゃダメか?」

「まさか」

「じゃあ来週から早速会議始めよっか?」と菜摘が横から口を挟んだ。

「菜摘ちゃん、気が早すぎ」

「そう? 美奈なら『遅すぎることはあっても早すぎることはない』って返してくれると思ったのに」

「うん、帰ったら行きたい場所探しておくね」

「あたしも手伝うよ」

「やっぱり定番は軽井沢かな。あーでも富士山も行ってみたいし、東北も一度行ってみたいと思ってたんだよね。あーどうしよう」

 不意に、幸助が美奈の頭にぽん、と手を乗せた。

「美奈」

「ふぇっ!?」

「落ち着け」

 しかし当の本人は何が起きているのか分からず、反射的に振り向いてようやく状況を悟った。

「熱意は伝わったから、その話はまた後でな」

「あ、う、うん」

「ねえ、幸助って弟か妹いるでしょ」と菜摘。

「なんで?」

「何となくそんな感じがしたから」


「天秤座っていうのは面白い星座でね、両隣の乙女座と蠍座とそれぞれにつながりがあるの」

 水筒に入れてきたお茶を木陰で飲みながら、三人は美奈の講義を聞いていた。

「天秤座の星には、和訳すると北の爪、南の爪、蟹の爪ってアラビア語の名前がついてるの。これは元々メソポタミアでは蠍座の一部、はさみの部分だと見なされていたからなんだって」

 事の始まりは菜摘の何気ない一言だった。星に関しては門外漢である三人に何か面白い話でもしてよと頼んだのだ。

「天秤座を定めたのは古代ローマのプトレマイオス。この天秤は、乙女座のモデルの一人とされるギリシャ神話の女神アストライアの物と言われているの。アストライアは星と正義を司る女神で、その天秤で善悪を量っていたんだって」

「つまりアラビアとヨーロッパでは星座の解釈が違っていたってことか」と幸助が言った。

「そうだね。日本にも独自の見方があるよ」

「星座はヨーロッパに倣ってるのに星の名前がアラビア語の名前のままなのは?」

「プトレマイオスが星座を定義した本があるんだけど、それがアラビア語に翻訳されたものがヨーロッパに伝わったから、っていうのが一つの説」

「さっきローマがどうのって言ったよな?」

「ローマって言ってもエジプトの方ね。古代ローマ帝国は地中海沿岸が領土だったでしょ」

「なるほど。じゃあ天文学の世界じゃアラビア語がメインってこと?」

「そうだね。他にもラテン語とかギリシャ語とか。一つの星に複数の違う言語での呼び名が付いてることもあるし」

「ねえ美奈、なんか専門的な話をしてるってのは分かるんだけど、あたしにはもうついていけない」と菜摘が寝転がりながらこぼした。

「あ、ごめん。どこから分からなかった?」

「乙女座と天秤座と蠍座まで分かった」

「最初だけじゃねえか」

 幸助がそう突っ込むと、菜摘はそうは言ってもさー、と切り返した。

「幸助には分かったの? 今の話」

「俺の声も聞こえてなかったのか? ちゃんと聞いてさえいれば理解できたはずだけど」

 幸助はそう言いながら欽二にちらりと目配せするが、彼の方は最初から聞く姿勢だけ見せて後はずっと黙っていた。

「正直なめてたわ……美奈が専門分野になるとずいぶんと生き生きするのにも驚いた」

「そりゃあ、小学生の頃から色々勉強したしね。菜摘ちゃん、良い機会だから勉強しよ?」

「努力します」

「なら今度プラネタリウム行かないか?」

「いいねそれ!」幸助の提案に、美奈が大賛成する。

「ね、美奈って星占いも詳しい? 本によって星座の範囲が違うのはどうして?」


「欽二、さっきからずっと黙ってるけど退屈か?」

 来た道を引き返しながら、ふと幸助が訊いた。

「そんなことないぞ。山は良いじゃないか。どっしりと構えて、何も言わずにただそこにある――」

「――まるで俺みたいじゃないか?」

「親父の名言だ。そういう男になれって」

「……全くその通りだな。そんなお前が無性に羨ましくなるときがあるよ。さっき美奈の手を引っ張って走ったときだってそうだ」

「俺は俺で美奈の話についていけるお前が心底羨ましいんだがな」

「隣の芝生は青い、とはよく言ったもんだ。別に嫉妬してる訳じゃないけどさ」

「幸助は良くも悪くも考えすぎなんだよ。相談できる相手がすぐ傍にいても、それをしないで一人で考えて突っ走る。あまり思い詰めるなよ」

「耳が痛いな……」

「さっきは二人を置いていった俺と菜摘にも責任はあるし、美奈も大丈夫だって言ってただろ。もう良いじゃないか、その話は」

「美奈の言葉が本当なら、な」

 一方その後方では、

「天文学と占星術って奥が深いんだね」

 と菜摘がため息混じりに言っていた。

「太陽と星の運行はずっと昔からあったからね。今と違って夜の明かりはないし、何か研究する対象があるのなら、空を見るのが一番だったんだよ。空の上には神様がいるっていう信仰とも関係があったんだと思うけど」

「そっち系の学部に行こうとは思わなかったの?」

「理系のってこと? ダメだよ、私数学はちんぷんかんぷんだもん」

「私もさっぱりだったな。ねえ、あれって一体何の役に立つの?」

「数式を覚えるんじゃなくて、論理的に考える力をつけるための学問だって新聞で読んだよ」

「文学とか歴史にも論理はあるんじゃない?」

「受動的か能動的かの違いかな?」

「そうねえ……その点大学は好きなことだけやれるから良いよね」

「それ『だけ』とは限らないけどね」

「あーあの全学部共通の必修科目とか」

「あれはつまらなかったよねえ」と美奈は苦笑混じりに吐いた。「学校の歴史はまだいいとして、創設者達がいかに偉い実績を世の中に残してきたかを延々と講義するだけなんだもん」

「そういう話を大勢の学生の前でやる息子さんってどんな気持ちで講堂に立ってたのかな。自分の親の功績をアピールするなんてこっぱずかしいじゃん」

「そういう感覚が私達とずれてるというか、プライドが違うんだと思う」

「プライド、ねえ……? やっぱ平凡が一番だよ」

「私もそう思う。小説みたいな大事件とか大恋愛とか起こらないかなって想像することもあるけれど、そういう波瀾万丈で偉大な親の血を受け継ぐ人生よりは、ありきたりでもいい、平和でとりとめもない一生の方がずっと価値があると私は思う」

「へえ意外。美奈は逆だと思ってた。小説の主人公みたいな人生に憧れる、って言うと思ったのに」

「不治の病に倒れて泣きながら恋するのと、健康体で笑いながらデートするの、どっちがいい?」

「美奈がそれ言うと重いよ」

「私が言いたいのはそういうことだよ」


「ね、コンタクトにしようとか思わないの?」

 一行が駐車場に着いてトランクに荷物を入れている最中に、不意に菜摘が幸助に言った。

「思わないな、面倒そうだし」

 搬入が終わったので力強くトランクを閉める。その瞬間を見計らったかのように、菜摘は「えいや」と言いながら幸助の眼鏡を奪った。

「おい返せよ」

「まあまあ……ね、どう思う?」

「えっと、掛けてる方が良いと思うよ。うん、そっちの方が何と言うか、幸助らしくて好き、かな」

「やっぱり美奈もそう思う?」

「いいから返せよ」

「はいはい」

 そう言いながら菜摘は眼鏡を元の場所に戻した。幸助はふと美奈の方に視線をやって、

「元気そうで安心したよ」

「えっと……?」

 本来なら長らく会っていない相手に対して使う言葉に混乱を覚える美奈。しかし、すぐにその意図を察した。

「まださっきのこと気にしてるの? 気にしすぎ」

「しつこい男は嫌われるよ」

「菜摘ちゃんそれ使いどころ違う」

 その後運転手の一声で全員が車に乗り込み、集合場所で解散し、サークルの初めての旅行は無事に終わりを迎えたのだった。彼らが二回目の旅行を計画し実行するのは、それから四ヶ月ほど先の話である。


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