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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第一部 変異編
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PrologueⅢ:声

その人が好きか嫌いかを知るのに、一緒に旅をするより確実な方法はない。


マーク・トウェイン


 荒々しい地肌が露出した、高い断崖絶壁。激しい潮風が吹き荒れて朽ちかけの木の柵を揺らし、その下の方では風化作用で切り立った岩場が広がっていた。その岩と岩の間では白い波しぶきが音を立てながら舞い散っている。この荒涼とした崖の上に、四人の男女がいた。


「いやあ、こりゃ絶景だな!」


 欽二が崖の先端、柵の傍で額に手を当てながら叫んだ。筋骨隆々な体格の彼はこの殺風景とも違和感がない。シャツの背中には毛筆で何やら文字が書かれているが、達筆すぎて読めなかった。彼の短い髪は激しい海風など物ともせずにピンと立っている。


「でもちょっと風が強いよ!」


 そのやや後ろで美奈が白い帽子を押さえながら言った。彼女が身に着けているのは白を基調とした丈長のワンピース。そこに風に煽られ暴れる長い黒髪が加わるとそれだけで絵になりそうで、その雰囲気には『深窓の令嬢』という言葉が似合いそうだ――もちろん、もう少し風が弱ければ。


「……これを絶景と言うのか、お前は」


 美奈の隣で、眼鏡を掛けた細身の青年が溜め息混じりに冷ややかに指摘した。風が強いので、彼は羽織ったベストの裾を押さえつけていた。余った布地が風にはためき、ばたばたと音を立てている。


「大丈夫? 寒くない?」


「うん、平気」


 背の低い美奈の頭は幸助の肩の高さにしかなく、必然的に視線は見下ろし見上げる関係になる。知らない人が見たら彼らを兄妹と思ってしまうかも知れない。


 彼らの視界に広がるのは一面の海である。とは言っても曇り空で太陽は朝から隠れたままだ。水平線も霞んでいる。行き交う船舶もなく、そこにあるのはただ激しく波打つ嵐の海だけである。


「いいじゃないか、幸助。荒れ狂う海は男のロマンだ! なあ!」


 欽二は首だけで振り返り同意を求めるが、彼と正反対に痩躯の青年には「ますらを」の文字は似合わない、理解もしない。


「知らんよ、そんなロマン。それより欽二、うっかり落ちるなよ。そうなったら一大事だ」


「大丈夫だって。お前は心配性だな」


 言って、柵に足を乗せた。長年風雨に晒されたことによる劣化や腐食のためか、木組みは木屑となり脆く崩れ落ちた。バラバラになった破片は風に煽られながら崖下へと舞い散っていく。そして欽二は僅かにバランスを崩し――たがすぐに体勢を持ち直した。


「そんな風に大丈夫って言ってヘマやらかすのがお前の常だろ。良いから戻ってこい」


「だな。風も強いし……」


 若干怯えの色を見せながら欽二は仲間の元へと足を戻した。


「すごーい! 高いね!」


 崩れた柵から少し離れた所で菜摘の声が上がった。彼女のボーイッシュな軽装と短髪は、強い風などへっちゃらと言わんばかりだ。彼女は柵に触れないように上半身だけを崖の外側にせり出して下を覗き込んでいた。


「お前も気を付けろよ!」


「わーかってるってー」


 菜摘はそう言うが、幸助には警戒しているように見えなかった。しかし彼女は何かを感じ取ったのか、怯えたようにして数歩後ずさりする。


「……菜摘ちゃん?」美奈がおっかなびっくり、といった面持ちで言った。


「あ、だ、大丈夫。ちょっと、びっくりしただけだから」


 そして、ついさっきまで自分が立っていた場所を見返す。


「なんかね……吸い込まれそうな気がしたんだ」


 その高さに一瞬圧倒され、直後その恐怖を感じておののいた――さしずめそんなところだろう。眠りそうになってはっと突然目を覚ますような、あの感覚と似たようなものか。


「もう、私の方がびっくりしちゃったよ」


「あはは、ごめんね、美奈」


 何気ない動作で美奈の頭にぽんと手を置く。すらりとした体格の菜摘にとって美奈の背丈は、なで回すのに丁度良い高さだった。美奈は「もう」と言いながら困ったように微笑んだ。


 二人が安堵したところに、幸助の悪戯心が動いた。いつもと変えず、冷ややかな調子で言う。


「もしかしたら……ここで死んだ亡霊の仕業だったりしてな」


「ちょ、幸助、何言い出すの」


「……ここに来たいって言い出したのはお前だろ? ほんと、怖いもの見たさだな」


 この断崖は自殺の名所としてよく知られている。怖いもの見たさで近づくのは彼らだけに留まらない。だからだろう、ここに来る途中で集団自殺かただの物好きかと地元の人間に尋ねられた。


 彼らは答えた、「ただの旅行サークルだ」と。


「あたしそんな恐がりじゃないもん。好奇心旺盛なだけ。それに、あんただって最初は『そんな場所行くのか』って弱気だったじゃない?」


 ムキになって反論する菜摘を、幸助が茶化す。


「そういう事、自分で言っててあほらしくないか?」


「っ……」


「それに、俺が弱気だったのは美奈を心配してたからだよ」


「え? 私?」


 その事に美奈は素っ頓狂な声を上げた。それは自分の名前が思いがけずに飛び出たからと言うより自分の事を心配していたという言葉によるところが大きかった。


「美奈、体弱いのにこういう辺鄙で天候もあまり良くない場所……平気なのかなって思ったんだよ。まぁ、その本人が乗り気みたいだったから俺は何も言わなかったけどさ」


「そんなに心配しなくても平気だよ。今は軽い運動なら出来るくらいには体力ついてるし」


「じゃあ余計な心配だったかな」


「そんな事ないよ。ありがとう、幸助」


「それに、名所である事にかこつけて自殺しようなんて言い出さないか、とも心配してたけどな」


 もちろん本気ではない――そう言わしめんばかりの、からかいたっぷりな口調で彼は言った。


「もう……そんな事言う訳ないじゃない、ねえ?」美奈は苦笑しながら答えた。


「幸助ってちょっと意地悪だね」菜摘が幸助をきっと睨む。


「何だよ、軽い冗談じゃないか。ほら、もう行こう」


 彼は美奈の肩をぽんと叩いて促す。二人はうん、と頷いた。


「ほら、欽二も」


 彼は海に向かって仁王立ちしていた。こちらの声が聞こえていないのか、不動を保っている。


「欽二ー!」


「うぅみよおおおおぉぉっ!」


 不意を突くように、欽二が叫んだ。


「……『海よ』?」


 突っ込みどころがいくつもあるなあ、と幸助は冷ややかな目で独りごちた。


 第一に、海に向かって叫ぶのに間違いはないがここは崖の上。刑事ドラマの最後に出てくるそれと似たような雰囲気を醸し出す場所である。鬱憤を晴らすのに適した場所とは言い難い。


 第二に、太陽の見えない曇り空に向かって叫んでいる事。荒れ狂う空に向かって叫んでもそこに情緒の欠片は無い。


 第三に、叫んだ言葉……いや、これは欽二のセンスによるところだろう。母なる海に『バカ野郎』とは叫びたくないのだろうか。


 欽二は一回深呼吸をすると、すっきりしたような表情で歩いてきた。


「さあ、次の場所に行こうか」


 そのまま欽二は三人の横を通り過ぎ、一人で森の中へずんずんと歩いていく。女性陣がその後に付いていった。


 幸助は独りぽかんとしたまま棒立ちしていた。


「ほら、幸助何やってんの」


「あ、ああ」


 菜摘に声を掛けられて、幸助は自分が茫然としていた事に気が付いた。三人を追いかけようとしたその時、不意に背後から女性の声が聞こえた。


『こっちに来て――』


 頭の中に直接響くように、涼やかにその声は反響する。踏み出そうとした足をとどめ、彼は振り返った。しかしそこにあるのは荒れ狂う海だけ。不審に思った彼は崖先へ、柵の方へと近づいていく。しかし何も変わったものはなく、幻聴だったのだろうと思って体をターンさせ――


 ると、彼の目の前には不思議な格好をした影が立っていた。さっきの声の主であるとするなら、この人は女性だろう。その女性はつばの広い黒紫色のとんがり帽子をかぶり、地面に引きずる程の大きなマントを羽織っている。背が低いので帽子のつばに邪魔され、その顔はうかがい知れない。


「……そこ、どいてくれませんかね。あるいは俺に用が?」


 女性は言葉ではなく、右手で彼の背後を指し示す事で返した。振り返って見ろ、そういう意味なのだと思い、幸助は再び海の方に向き直った。


 そこにあったのは、雄大な海ではなかった。彼の目の前に黒い大きな穴がぽっかりと口を開けている。不気味な黒いガスがそこに固まって浮遊しているかのようだ。そこの空間だけが歪に切り取られたような、実に『不自然』な光景だ。


「な、ん――」


 何だよこれ、と言おうとしたが口が動かなかった。口だけではない、手も、足も、まぶたでさえ何一つ動かす事が出来なかった。


 恐怖に震えていたから、かも知れない。心拍数が上がり、喉の奥が渇いていくのを感じた。やがては、自分の体が自分のものではなくなるような、そんな錯覚に飲み込まれ始めていた。


     *


「おい、幸助はどうした」


 彼らが乗ってきたレンタカーが見えたところで、欽二が言った。


「え?」


 美奈と菜摘は二人揃って後方を見た、が、青年の姿はない。


「私見てくる! 先に車に戻ってて!」


 そう言って走り出したのは美奈だった。欽二と菜摘をその場に残し、独りで森の中の道――獣道でもないが、整備された道でもない――を小走りで戻っていく。


「もう、どうしちゃったの?」


 息を切らせて断崖に辿り着くと幸助の姿だけを視認できた。


「こうす――」


 彼の名を呼ぼうとして、美奈は息を止めた、いや、出来なくなった。幸助の体が直立不動のまま倒れていくのが見えたからだ。それも、向こう側に、柵を薙ぎ倒しながら。


 本能が助けに行かなければと呼びかける。しかし、それに反し彼女の足は震えたまま動こうとはしなかった。もっとも、動けたとしてもとてもではないが助けに駆けつけられる距離ではない。


 数瞬のうちに幸助は消え、見えなくなった。つまり崖から落ちた――『彼の死』という事実が美奈の意識を飲み込み、地面にへたり込ませた。


「何……え? どうして? 今、何が――」


 手と唇を震わせながら、うわごとのようにそう呟いた。それから彼女は、絹を裂くような悲鳴を上げた。それを聞きつけた菜摘と欽二が戻って来ると、


「美奈! 一体どうしたの!? しっかりして!」


 菜摘が意識の混濁した美奈の両肩を掴んで前後に揺さぶる。


「な……つみ、ちゃん?」


「そうよあたしよ! 一体何があったの?」


 美奈はゆっくりと、震える腕を上げて幸助がさっきまで立っていた場所を指した。


「幸助が……幸助が……」


 腕だけではない、唇も肩も、体中が痙攣を起こしたように震えている。崖を指して「幸助が」、そしてこの震え。導き出される結論は、一つ。


「幸助ー!」


 欽二が叫びながら、崖へと向かう。菜摘は美奈を立たせ、車へと連れて行き介抱することにした。


     *


 美奈がようやく落ち着きを取り戻した頃、欽二が戻ってきた。そこに、いて欲しい人の姿は、なかった。


「ダメだった……?」助手席に座る菜摘が窓を開けながら残念そうな表情で言った。


「いいや、ダメだったとか、それ以前の問題なんだよ」


「どういうこと?」


「あいつの姿がどこにもなかったんだよ!」


「どこにも、なかった……?」


 全く予想だにしていなかった、と言うよりも理解が追いつかない答えが返ってきたので、怪訝な顔をせずにはいられなかった。後部座席に寝そべって目を閉じている美奈も、耳をそばだてる。


「ああそうだよ。崖の壁面も、崖下の海も何度も見たさ! でも、あいつの姿がどこにもなかったんだよ!」


「欽二の視力で見つからなかったの……? もしかして沈んじゃった、とか?」


 メガネを掛けている幸助とは対照的に、欽二は二・〇の視力を持っている。彼の目で確認できないということは、常人の肉眼では確認できないと言って良いだろう。


「菜摘も崖下覗き込んでたなら分かるだろ? あそこの海は浅くて岩だらけなんだ。それに、崖から落ちたんならどっかしら打って血を流してるはずだ」


 菜摘も美奈も、欽二自身でさえも、その後に続く言葉を想像して悪寒が走った。


「でもな……視界のどこにも赤い絵の具がなかったんだよ」


 それを聞いた美奈は、痙攣したように肩をびくんと震わせて飛び起きた。


「嘘でしょ……これじゃまるで、神隠しにでも遭ったみたいじゃない!」


 神隠し――それは、古来より人が突然行方不明になる事を言う。多くは神様や物の怪の仕業とされてきた。「七歳までは神の子」と言われるように、特に幼い子どもが遭う事が多い。


 もっとも幸助は二十歳の大学生なのだが、もはやそんな事は関係ない。ただそこに、彼が突然いなくなったという事実だけが残されたのだから。


「嘘だよ……どうして幸助が神隠しに遭わなきゃならないの!? ねえ!」


 落ち着いたのも束の間、美奈は先程以上に取り乱し、前部座席の間に体を乗り出し、青い顔で叫んだ。突きつけられた現実が、彼女にとってはそれほど絶望的であるということだ。気が狂ったかのような突拍子のない彼女の発想について行けない菜摘は対応に困惑してしまう。


「美奈落ち着いて。まだそうと決まった訳じゃないよ。第一、神隠しだなんて非現実的な話――」


「そんな、でも、私しっかり見たんだよ! 幸助が落ちていくところ……ねえ菜摘ちゃん、欽二君、もう一度……もう一度幸助を探しに行って!」


 美奈自身、自分がどうしたいのか分からなかった。自分にとって大切な人である幸助がいなくなったのだ。誰よりも早く探しに行きたいはずである。だが、先程の事がショックで外に出る気にもなれずにいるのだ。


 心と体の二箇所で繰り広げられる彼女の葛藤。その迷いは菜摘の決然とした言葉で振り払われる。


「……うん、分かった。必ず、必ず見つけてきてあげるから。だから美奈はここで待ってて」


 菜摘はシートの肩に置かれた美奈の手を握って答え、幸助の古くからの友人である欽二はただ黙って頷いた。菜摘が窓を閉めて車から降りると、欽二が言った。


「ロックはしないでおくぞ。あいつがひょっこり戻ってくるかもしれないからな」


「うん」


 そして菜摘は助手席のドアをバタンと閉めた。


 軽く手を挙げ別れの挨拶をすると、二人はその場を後にした。美奈は車という一種の密閉空間に残された。彼女は不意に携帯電話を取り出し、電話帳の、自宅の次に登録してある番号を呼び出す。


「幸助……」


 プッ、プッ、プッ、と接続している音が聞こえる。しかし、なかなか呼び出し音が鳴らない。


「出て! お願いだから出て!」


 心の中で叫んでいた言葉、気付けばその口から漏れ出ていた。いつまでも音が変わらないことにもどかしく思っていると、やがてその音さえも消え失せた。慌ててディスプレイを見ると、電波のところに「圏外」と書かれていた。


「そっか……」


 直後「圏外」の文字が消えてアンテナのマークに変化した。こんな何もない、興味本位の物好きしか近づかないような地域に電波の中継所があるはずがない。ここでさえこんなに弱いのだ、海岸線ならなおさらである。つながる可能性はほぼ皆無と知り、美奈は落胆の溜め息を吐いた。


     *


 黒紫の影が、潮風の吹きすさぶ崖の上、今すぐ吹き飛ばされそうな細い木のように立っていた。


「ごめんなさいね……悪く思わないでちょうだい。うまくやってくれそうなあなたの力をちょっと借りるだけだから」


 誰もいない空に向かってそう呟き、それからフフ、と不気味な音色で笑いをこぼす。その声は激しい風の音にかき消され、その音の中に二人の声が混じっていた。一人は男で、もう一人は女。


「俺は右に行く! 菜摘は左を頼む!」


「分かった!」


 そして二人は分かれ、青年の捜索に努める。ややもするとその場には、誰もいなくなった。


     *


 美奈は一人、後部座席に寝そべりながらかつて幸助から受け取ったメールを見ていた。絵文字や顔文字を使わず、余計な文言、冗談めいた文章も殆どない。悪く言えば堅物な、良く言えば無駄を省いた、彼らしい文面だった。


 不意に、誰かが車の窓ガラスを叩く音が聞こえた。慌てるように起き上がり、急いで外に出て辺りを走り回った。しかしそこには相変わらず地肌がむき出しの荒れた広場と一台のレンタカー、それを取り囲む木々があるだけだ。美奈は、全く息が上がった様子もなく平然としていた。


 そこに一陣の風が吹き抜けた。湿った、冷たい潮風だった。白いワンピースの裾が、優雅にふわりと舞い上がる。


「……小石か何かがぶつかっただけかな」


 車に戻ろうかと思ったその時、背中を毛虫が這うような気味の悪い悪寒がした。


(――後ろに何かいる。ここにいちゃいけない。逃げなきゃ!)


 本能的な勘がそう命じるが、足が竦んで思うように動けない。声も出せない、振り向くことすらはばかられる、そんな恐怖が彼女の体の自由を奪っていた。


「彼、好きなんでしょ?」


 耳元で誰かが、そう囁いた。妖艶な甲高い声だった。自分の背後に人がぴったりくっついているような気配は、感じられない。


「捜している彼……コースケって言ったかしら。彼の事、好きなんでしょ?」


 美奈は確信に至り、しかし振り向くことは出来ないまま、今自分の後ろにいる何者かが神隠しの犯人であると、勇気と声を振り絞って断言する。


「あなたが……あなたが幸助を連れ去ったんですね!」


 しかし背後の影は、探偵に追い詰められた容疑者のように嘘や自己弁護を述べることはなかった。臆する様子もなく、だからどうしたとでも言いたげにええそうよ、と妖しげな声で言う。


「心配しないで。取って食やしないし、彼に危害を加えるつもりもないの。一時的に身柄を預かっているだけだから、時期が来れば返してあげる」


「時期が来れば? そんな嘘、信じられるものですか! 今すぐ彼に会わせて!」


 相手の言葉に飲み込まれまいと毅然としているが、その内心は恐怖で満たされ気もそぞろだった。


 すると犯人はふふ、と高く不敵に笑い、「じゃあ、あなたもその神隠しとやらに遭って、彼が行ったあの場所に行ってみる?」


「え?」


 意外なその質問、彼女はどう答えて良いか分からなかった。動揺した頭で必死に思考を巡らせる。


 イエスと答えれば彼の許に行ける可能性があるが、だからといって確実に会える保証はない。背後の存在が言っていることには何一つ信用する根拠がないのだ。


 神隠しに遭うというのは、その命が神様や物の怪の下へと行く、すなわち死ぬこととほぼ同義だ。つまりこの犯人は死後の世界で彼と一緒に暮らすか、そう言っているようなものだ。


 どう見積もってもリスクの方が高い。自分の命を捨てる事を選べなかった美奈は、否定の意を示そうとした。だが声を出そうとしたその時、意識がだんだんと薄れ、足元からくずおれた。波のように襲いかかる眠気のような感覚から逃れられなかった。


 彼女はうつぶせのまま、焦点の合わない視界の端に映る奇怪な影を見た。だが見えたのはその腰元まで。目もかすんで彼女にはその黒さしか分からなかった。


 やがて彼女はその目を閉じ、意識が途切れた。

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