ChapitreⅩⅠ-B:乙女の矛先
困ったときの友人こそが本当の友人である。
ことわざ
目の前でアークをシリウスに、スピカをセラトナに連れ去られたマチルドがどちらを追いかけるべきかと言えば、答えは後者だ。有名人であるアークは自由に外に出られないのに対し、スピカは一般市民の扱いだからだ(無理矢理両方引き留めておくという選択肢もあったが、さすがに不審を買うので出来なかった)。
「マチルドさん、私は大丈夫ですからアークについてあげて下さい。彼の方が状況は悪いんです」
視界を邪魔する程の雪が降る中、セラトナの後ろを歩きながらスピカが隣を歩く行商人に言った。
「心配性ねえ。まあ慎重なくらいの方が世の中は生きやすいって言うけど。大丈夫よ、殺すタイミングならいくらでもあったのに、狙われてさえいなかったじゃない。それにあのお屋敷には優秀な兵士がいるみたいだし、曲者が入ってきたらどうにかしてくれるわ。彼だって危険だと分かっている場所に飛び込んだりはしないでしょ?」
「今は安全でも、夕方になれば状況は変わるかも知れません。なるべく早い内に――」
と彼女が言ったところでマチルドが足を止めた。そこは酒場の目の前だった。要するにアークが心配なのは同じなのでマーテルに頼むつもりなのだ。ところが珍しく主人は不在でそれは叶わなかった。
「今晩は祭だからな、みんな入り用なんだよ」とセラトナが横から付け加えた。「それにしてもスピカ、君は何だってあの偽者に入れ込んでるんだ?」
スピカはマチルドにアイコンタクトを取った。真実を明かすのにそこまでする必要もないように思われるが、念のためだ。マチルドが頷いたのを確認し、
「私は友達を捜しにここに来たって言いましたよね。その人が彼、偽者のリゲルにさせられたアークトゥルスなんです」
「何だって?」
前の頭領も、後ろの四人の幹部も、この事実には驚きを隠せなかった。
「そうか、だから途中から協力的な態度が変わったし、殺すなって乱入してきたのか」
「はい、そういうことです」
「気付いたのは彼が市街地に出て来た時だな? その時に言ってくれれば良かったのに」
「……自信がなかったんですよ。リゲルは私の捜している人にそっくりだったのに、みんながあれはリゲルだって言うから……そんな状況で言い出せるわけないじゃないですか」
リゲルが市街地を歩いたあの出来事の翌朝、彼女はベガとリーラに確認した。昨日の彼は本当にリゲルだったのか、と。彼女らは疑いもなく本物だと答えた。その後の会議でも誰もが本物だと確信している空気に触れたら、あのリゲルは幸助とは別人かも知れないと少女が思うのも当然だろう。
「あの時マチルドさんから彼が偽者かもしれないって噂話を聞かなければきっと会えなかったし、永遠に再会出来なかったかもしれません」
「ああ、あの噂ね」とセラトナが言った。「私も耳にしてはいたがどうにも胡散臭かったし、士気に関わるから言い出す訳にはいかなかったんだ。でもリゲルを目の前にして、自身の口から『俺は息子なんかじゃない』って言葉を聞いた時にはさすがに驚いたよ。偽者の噂は本当かって聞いたらあっさりそうだって答えるんだからさ」
彼女らは道を一つ折れて、路地に入った。
「セラトナさん、それってもしかして私が行く前の話ですか?」
「そうだよ」
「え、じゃあ私があんなこと叫びながら飛び込んだ意味って――」
スピカは顔に血が上ってくるのを感じていた。
「それはあったはずだ。少なくともスピカ、君にとっては捜していた男に会えたんだから。それと正直言ってあの時、噂が真実だと思ってなかったから、我々として彼にどう対処したものか思いあぐねていたんだよ。だからスピカが彼と一緒に引っ込んでくれた時は助かったと思った。ベテルギウスがいたし、深追いも出来なかったからね。お陰で部下に冷静に説明するだけの余裕が出来た」
「そう……ですか。どうあれ、彼が殺される結果にならなくて本当に良かったです」
「その件なんだけどね」とマチルドが横から口を出した。「アーク君を殺させないようテルに頼んでおいたから、どっちみち結果は同じだったのよ。何故って訊かれる前に答えるけど、私はリゲルが偽者だって村長から直接聞いていたから。彼がこの村に来て影武者にさせられるまでの経緯も聞いたわ。嫌な予感がして直接会ってみたら、個人的にすごく興味が湧いたの。テルもその話を知っていたし、快く引き受けてくれた」
「じゃあどうして私に教えてくれなかったんですか?」とスピカが怒ったように詰め寄る。
「彼がスピカちゃんの捜している人だなんて、私がどうして分かるのよ」
「でもマチルドさんは私と彼が同郷だって分かっていたはずですよね?」
同郷、というのは間違った言い回しではないが、セラトナに聞かれていることを意識した上での単語に過ぎず、『彼ら』の同胞の意味だ。
「うふふん、お姉さん鋭すぎる女の子は嫌いよ」
「まさか……」
敢えて黙っていた。その線が濃厚になった。
「もういいです。これからお世話になる人にそんな疑心を向けたくないですから」
「それが賢明だわ」
「スピカ、この人に何か頼んだのか?」とセラトナが尋ねた。
「故郷に帰るまでの護衛です」
「行商人ってのはそんな事も引き受けるのか」
「そんな事も何も、取引の材料が食べ物であれ酒であれ本であれ情報であれ労働力であれ、その交換が釣り合うと判断すれば何でもやるのが商人ってもんよ。もちろんその後の交渉で私が得するように引き上げるけど。それに今回の場合は、私しか引き受けられる人がいないというのもあるかしらね」
「なるほど。それで、二人分の護衛にスピカは何を出したんだ?」
「それは明かせないわ」とマチルドは即答した。「商人の守秘義務ってやつね。そもそもこの件はあなたには関係ないし、知ったところでどうするの?」
「……ああ、すまなかった」
とは答えたものの、実のところセラトナにはおおよそのアタリがついていた。ベガから聞いた話では発見時にスピカは何も持っていなかったと言うし、この少女が冴えた知恵を有していることも知っている。そうすると、参謀は行商人に対して物珍しい逸話か知恵を与えたのだろうと自然と察しがつく。そしてそれはほぼ正解だった。
「ということは、アークと三人でさっき話していたのはその件だな?」
「答える義理はないわ」
「まあどちらでもいいさ。それよりスピカ、君はまだ参謀として我々に協力してくれるのかい?」
「はい。それが私に出来ることですから。それに、私に親切にしてくれたベガさんに恩返しをしたいと思ってましたし……」
「本人が本部にいないのが残念だな。ベガはこの時間は大体寝ているからね」
そうこうしているうちに一行は反乱軍の本拠地である邸宅、通称スコルピウスに到着した。
「へえ、ずいぶんと立派な家じゃない」とマチルドが感想を漏らした。
「この地区の集会場も兼ねているからな。一応自治組織の事務所ってことになってるからたまにキャンサーの視察が入るけれど、良い目眩ましさ。こんな狭っ苦しい貧乏人の地区に敢えて近づこうなんて奴もいないしね。さ、早速中で作戦会議と行こうか」
体に積もった雪を払って中に入った途端、セラトナは構成員に囲まれた。それは事の成り行きと彼女の無事を心配していたからであったが、頭領はそれを一喝し、二階の会議室に集合するよう指示した。以前スピカを参謀に迎え入れることを宣言した、あの細長い部屋だ。そしてその時と同様、スピカは目立つ位置にセラトナと並んで立たされた。マチルドは片隅で物珍しそうに佇んでいる。
反乱軍がラザルを殺害し頭領が一般兵を退かせた後の成り行きは、セラトナが説明した。ここまでは前座に過ぎない。本題は、スピカに一任されたこれから行われる選挙についての解説である。マチルドとアークと共に話し合った問題点も含めて彼女は今起ころうとしていることを説明した。唯一の気がかりは、民主主義も投票も知らない彼女らに、スピカの言うことが理解出来るのか、ということに尽きる。それが出来ないと作戦の進行に障るからだ。
とはいえ結局のところ、三人の村長候補のうち、誰が一番人気があるかを村人全員に聞いて調べる、というその趣旨だけは理解されたようだった。
「それでスピカ、私が、いや我々が勝つには具体的に何をすればいい?」セラトナが尋ねた。
美奈は成年したばかりで選挙に行ったこともなく無関心だったし、敢えて言えば喧しい演説とテレビ速報ぐらいしかなじみがない。が、この世界でも応用が利く手段はその街頭演説ぐらいしかないのもまた事実だった。
「まだ状況がはっきりしていませんけど、とりあえず私を応援して下さい、って呼びかけて味方を増やすのが一番だと思います。もっとも、休戦協定に違反するので今は出来ませんが」
「そんな事をやっていいのか?」
「どういう意味でしょう?」
「話しかけた相手がテルを応援していたら、その人の考えをねじ曲げて引き込む訳だろう? 敵から一票を盗むみたいにさ」
「セラトナさん、それが選挙なんですよ。逆も同じで、反乱軍の誰かがテルさんに票を入れないとも限りません。どのくらいの人が反乱軍を支持するのか分かりませんけど、狙うべきは浮動票です」
「ふどうひょうって何だ?」
「誰に入れるか迷っている人のことです。それで、ここからは一旦剣を捨てて口先と足での戦いになります。セラトナさん、皆さん、出来ますか?」
「スピカ、そこは『一緒に頑張ろう』って呼びかけるところだろう?」
「それを言うのは指揮官の役目です」
「それもそうだな――諸君、我々の戦いはラザルを殺して終わった訳ではない。『クーデター』が成功するためにはこれから始まる第二局面に勝利しなければならない!」
(……今更その言葉の意味が間違ってるなんて言えないなあ)とスピカは聞いて苦笑いした。
「共に戦う意志はあるか!」
頭領が右手を振りかざすと、構成員達も同じように振り上げて「オー!」と答えた。
「ただし! 本格的な作戦開始は明日以降だ。それが敵との間に決められた協定だ、故に表立った行動は慎んで欲しい。今晩は十分に羽を休めて祭りに興じよう。伝令役は各地域に伝達、私からは以上だ」
簡潔かつ豪快な口舌。聞き惚れるほどの恐れを知らないひたむきさ。そして「はっ!」と声を揃えて返答する彼女の部下達。セラトナという人物がいかに人を引きつける力を持ち、この集団を結束させているのか、その片鱗が垣間見えた。この人は人を指揮する立場にいるべくしている、なるべくしてなった人物だ――スピカにはそう思えた。
(そういえば、人間は脳の大きさから言って二百五十人までの集団を作れるって聞いたことあるけど、この人ならそれ以上の数でも平気でまとめちゃいそうな気がするな)
そこまで考えて美奈は、自分がこの世界では異物であることを思い出した。魔女の力で周りと同じ背中に翼の生えた姿になってこそいるものの、この夢幻にも思える世界の住人と自分とが本質的に同じであるかどうかは証明出来ないのだ。
(ものすごく今更って感じがするけど、この人達って私達とどう違うんだろう? マチルドさんが言ってた不思議な『能力』が使えることかな、私は直接見たことはないけど。何より言葉が通じてるし……そういえばどうして同じ言葉使ってるんだろう?)
「スピカちゃん、どうしたの、難しい顔して」
人々が会議室から出て行く中、部屋の隅で壁にもたれていたマチルドがスピカの顔を覗き込むように話しかけた。
「いえ、何でもありません」
「彼のことが心配なんでしょ?」
「……ええ、そんなところです」
「じゃあ行きましょうか。頭領さん、連れて行くけど問題ないわね? 作戦開始は明日なんでしょ」
「ああ。ところでスピカ、祭りの時はどこにいるつもりなんだ? 決まってないなら私達と――」
「友達と、マチルドさんと一緒にどこかで閉じこもってると思います」
「そうか、それは残念だ」
「すみません」
「謝ることじゃないだろう。ところで、アークの方は何か手を打つつもりなのか?」
「私達は何もしませんよ。ですから実際はテルさんとの一騎打ちです」
「『私達』か……君はずいぶんと難しい立場にいるみたいだな」
「そうですね。ですが――」
「皆まで言うな、分かってる。あの偽者が村長になったら困るのは我々も同じだ」
「はい。それではまた明日に」
「――それで、どっちが勝つと思う?」
建物を出るなり、マチルドはそう尋ねた。中で会議をしている間も雪は収まる気配を見せなかったようで、足跡が半分消えている。
「考えるだけ無駄ですよ。状況次第でしょうし、私はやれる事をやるだけですので」
「つまり反乱軍を応援するってことでしょう?」
「ええ。でも応援こそすれ、私はその先の結果には興味ありません。セラトナさんが勝っても負けても、私は喜びも悲しみもしないと思います」
「あら、ずいぶんと冷たいのね」
「いえ、熱を注ぐ場所を間違えたくないんです。村長を倒すために力を貸したことも、選挙で勝つために知恵を絞ることも、私には全然楽しくありません。何か見返りがある訳でもありませんし」
「それでも協力するのはどうして?」
「人海戦術で『彼』を捜して貰う代わりに私は反乱軍に協力するっていう約束だったんです」
「なるほど、それで」一人で納得した様子を見せたマチルドに、スピカは何のことかと尋ねた。
「異世界から来た君が反乱軍に所属しているのがずっと不思議だったのよ。初めて会った時に彼のことを聞いてきたのも、同じ理由ね。文明の高い君達の頭脳を反乱軍が欲しがったんでしょう?」
「とはいえ、私は戦いに関しては素人も良いところなんで、全然役に立てなかったんですけど」
「ある程度関わりを持ってしまったし、そういう申し訳なさもあって手を貸しているのかしら?」
「それも少しあります」とスピカは僅かに声を低めて言った。「マーテルさんに言われましたよね、『恩返しがしたいんなら』『自分に何が出来るのか、考えておくと良い』って。これが本当に恩返しになるのかどうかは分かりませんが、これが今の私に出来る精一杯なんです」
「良い心がけね」
二人は小道を抜けて、村長の屋敷に通じる大通りに出た。この坂を少し下れば、マーテルがいる酒場に辿り着ける。だから彼女らはそちらへ足を向けようとしたのだが、その逆方向にざわめきを聞いてそちらの方にふと目をやった。いくらか坂を上ったところに静かな人だかりが出来ていた。往来にいる人々はその大騒ぎするでも静かに見守るでもない群衆を一体何事かと見つめていた。
「何かしらね?」
マチルドが好奇心たっぷりの声で言った。スピカも胸騒ぎがして、返事をする前に歩き出していた。
「何かよほど重大な事件が起こったんですかね。でも慌てている様子がありませんが」
いや、考える必要さえない。あの中心には、安全な酒場へ逃げようとして失敗したアークトゥルスがいるに違いない。村人が注目しているのはリゲル(によく似た男)が現れたからで、冷静でいるのは影武者の噂が事実であったことが反乱軍経由で伝わっているからだろう。村中に伝播するには時間がかかるが、噂だけでも伝わってはいるので十分だ。
そしてスピカのその予想は正解だったとすぐに証明された。マチルドと二人で人波をかき分けると、その中心にアークとシオン、及びその二人に対峙する中年の女性が立っていた。どうやらこの女性が冷静に話し合いをしているお陰で、騒ぎが大きくならずに済んでいるようだ。
「大体、そんな話を鵜呑みにしろって言うのかい。無理だね無理――おや、今は大事な話をしている最中なんだよ、邪魔しないでおくれ」
アークとシオンも二人の闖入者の姿を認めると、表情が一変した。
「そんな話、したって無駄よ」とマチルドは臆面もなくアークの腕を掴んだ。「それにこの青年の身柄は私が預かってるの。勝手に奪わないで」
女性は何事か反駁しようとしたが、明らかに身なりが違うマチルドの全身をじろじろと眺めて、商人であることを悟ったようだった。
「行商人ってのは人身売買もやるのかい。金のためなら男も取引の材料なんだねえ?」
「売り物だと言ったつもりはないわ。身柄を預かってるだけと言ったでしょう。故郷に帰るまでの護衛を私がするだけよ」
じゃあね、と青年を引っ張るマチルドに、女性は待つよう呼びかけた。
「まだ話は終わってないんだよ!」
「これ以上何を話すんですか?」口を開いたのはスピカだった。「噂を疑っているのは分かりますが、それが本当か嘘か、一体どうやって証明するつもりなんですか? 第一、護衛が誰一人いない事実を目の前にして納得できないなら、あと何が必要ですか?」
アークにはシオンが付き従ってこそいたが、動きづらい服装をしている小柄な彼女を護衛の兵士だと思う者はまずいないだろう。
「それは……」
「マチルドさんが無駄と言ったのはそういうことです。やめませんか、寒いでしょう? どっちみち私達は次の村長が決まったら出て行きます。もういいですよね?」
返事を待たずに踵を返した少女の目に飛び込んできたのは、呼ばれても一切足を止めずに坂を下るマチルド(とアーク)と、二人について行きたいが取り残されたスピカを心配してうろうろしているシオンの姿だった。
「行きましょうか」
スピカはシオンにそう告げて、二人で先行する二人を追いかけた。
「シオン、って言ったっけ?」
「はい」
「屋敷の方はどうなってるの?」
「女中と兵士の総力を挙げて、霊鳥祭とラザル様の葬儀の準備を進めている最中ですね」
「葬式って、今夜やるの?」
「はい。本来ならばその亡骸と魂を天に捧げる儀式を二日に渡って執り行った後、埋葬して差し上げるのが我々のしきたりです。ただ、今回に限っては儀式は半日限りで、火葬となる予定です」
スピカはこの集落にも通夜の文化と魂の概念があることに感心していた。そしてそれ以上に気になるのが、通常のそのしきたりをねじ曲げなければならないその理由である。死後半日と言えば今夜、土葬でなく火葬と言ったらもう一つしかない。
「……もしかして櫓と一緒に燃やすの?」
「霊鳥様の聖なる炎に焼かれるのですから、これ以上に光栄なことなどございません」
だったらその火が村中を焼き尽くしたら彼女らは何を思うのだろうか――とスピカは考えた。だが大体が石造りの街なので、焦げることはあっても大火災になることはないんだな、と結論づけた。
先行する二人に追いつくと、スピカがアークに声をかけた。
「ねえアーク、死んだ人を火葬する場合ってどの位の火力が必要だと思う?」
「さあな……少なくとも生半可な強さじゃ無理だろうな。それ、ラザルの話か?」
「うん、そう。今夜の祭りの炎で焼くんだって。でもさ、水分が残ってると上手く燃えないから時間をおかないと火葬できないって聞くよね」
「そう、それがあるから難しいんだ。しかも肉と油が焼けるときの匂いがさ」
「うん……外出する用事もないから今夜は大人しくしてようよ」
「もちろんそのつもり。明日の朝までな。まだ昼間だけど今日は疲れたよ、というかまだ昼なのかよ、って感じだな」
「そうだね、私ももうくたくた。朝早かったし」
「何よ二人とも、若いくせに疲れた疲れたってへばっちゃって」
とマチルドが呆れたように言う。
「そうは言ってもですね」とアークが反論。「俺達はこのせ……村に来てから間もないんですよ、慣れない環境で暮らしてたら、そりゃ疲れますって」
途中で言葉を飲み込んだのは、異世界の存在を知らないシオンが一緒にいるからだ。
「そうね、私も駆け出しの頃はそうだった。交渉の技術が上手くなかったのもあるけど、歓迎してくれるところばかりではないから」
すると、シオンが驚いた様子で言った。
「そうなのですか? 私どもは心の底から歓迎するのですが」
「それはこんなところまで来ようっていう商人が少ないからでしょ。冬ならなおのこと」
「下の世界だとひっきりなしに行商人さんがやってくるんですか?」シオンはなおも無垢に尋ねる。
「そんなに多くはないわよ。ただ、行商人の間でも情報のやりとりがあって、高く売れる物を作っているところには集中するわ。紙とか刃物とか、技術と環境が必要で用途が広い品をね。そうやって商人を上手く利用している集落は平和で、安定して繁栄するのよ。それが私達にとってもありがたいことは、説明するまでもないと思うけど」
「なるほど……そうやって他の集落と間接的に関わりを持つことで栄える方法もあるのですね」
「でもこの集落は地形的、気候的理由で難しいでしょうね。下と行き来できる期間がせいぜい半年なのは致命的だわ。商品価値のある特産品は多くないし、それじゃなおさら商人が寄りつかなくなるわよ」
でも今回に限っては最高の収穫があったけどね、とマチルドはアークの方を見ながら呟いた。
「……こんなの召使いに言う事じゃないわね。そもそもこれ以上は過干渉に当たるもの」
マチルドは冷たく言ってぷいと目をそらした。
「それでも」とシオンが言った。「私達は、この村で生まれて、戦いの中で命を落とすことを運命づけられているんです。私達にはそれしか生きる道がないんです」
「もちろん邪魔も否定もするつもりはないわ。そんな半孤立状態でもこの規模の集落が存続しているという事実があるんだから。下と往復して分かったけど、この村って城壁の外のかなり広い範囲まで影響力が及んでるのね。寒さに強くて実を結ぶ木が植えられて、歩き回れるよう手入れも行き届いている。十分に管理されている証拠だわ。戦争になったら真っ先に焼かれるはずだけど」
するとシオンが「あっ」と声を漏らした。
「そういえばそうですね……気づきませんでした。何故でしょう?」
「私に訊かれても困るわ。お二人さん、どう?」
とマチルドが振り向きざまに尋ねると、アークが「いくつか可能性はありますが、今考える事じゃないでしょう」と答えた。
「今は、ね。私はどうしても知りたいから出発までに調べておくわ。次の村長が決まるまでね」
「そうですか。納得できる答えを期待してますよ」
「期待しててね。さて、着いたわ。マーテル、戻ってるといいんだけど」
結局彼らはまた酒場に戻ってきたのだった。より正確な言い方をすれば、彼らが落ち着ける場所がここしかない、つまり家も同然なのだ。マチルドが扉を押すと、ゆっくりと内側に開いた。
「なんだ、もう帰って来たのか」
マチルドの姿を認めると、主人はぶっきらぼうにそう言った。続けて全員が中に入る。
「……出て行ったときのそのまま……いやセラトナがいないのか。てっきり君達は屋敷で祭りを迎えるものだと思ってたよ。特にマチルド」
「もちろんそのつもりよ。だから二人を安全なところに置いておきたいの」
「二人? 三人の間違いじゃないのか? どちらでも同じことだから構わないけどね」
「そういうことだから、頼んだわ」
「ああ、良い知らせを期待してるよ」
マチルドはその言葉にただ不敵な笑みで返し、早々に酒場から出て行った。そしてスピカが言った。
「良い知らせって、何か頼んだんですか?」
「行商人の合い言葉みたいなもんさ。元気なままで戻っておいでとか、支払いはちゃんと済ませろとか、いろいろな意味があるんだよ」
「なるほど」
「それより、朝まで何もせずに引きこもるつもりなのかい?」
「出歩くのは得策ではありませんし、特にすることもなさそうなので」アークが言った。「横になって寝られる場所があればもっと良いんですけど」
これにはスピカが答える。
「あるよ。この隣の建物が宿屋で、私が今まで寝泊まりしてた場所だから。大丈夫、ベガさんもさすがに君をリゲルだと思って憎んだりしないって」
「いいや、それはお勧めしない」とマーテルが言う。
「何か問題があるんですか?」
「確かに宿屋だけど、本業は診療所なんだ。ましてや祭りともなれば、酒のせいで意識失ったりどこか怪我したりした連中が運ばれてきて忙しいんだよ。落ち着きたいんならここの奥の部屋を貸すよ。今はマチルドの荷物を置いててそんな広くはないけど、二人なら十分だ」
「俺は構わないけど。どう、スピカ」
「ベガさんの仕事の邪魔しちゃ悪いし、うん、お言葉に甘えさせてもらおう」
「よし、準備するから少し待ってな」そう言って主人は店の奥へと消えていった。
「それと、シオン」
「はい」
「しばらく二人きりにしてくれないか」
「……分かりました。ここでお待ちしています」




