ChapitreⅨ-B:彼女が知りたかったこと
知識は恐怖にとっての解毒剤である。
エマーソン
この酒場での僅かな会話で発覚した事実が多すぎて、今のアークとスピカには把握し切れていなかった。話に一段落ついたところで彼らは、今までに起こったことを整理してみることにした。
彼らを異世界に導いたのは恐らく、この世界で滅ぼされた魔法使いの一族の生き残りである。そしてその意図は不明だが、今までにも同様に人間が誘拐されて来たケースがあり、その先代達は元の世界に戻されたと見て良い。ただしいずれも、確信するには要素があまりにも欠けている。
それから、この世界では魔女の『呪い』の影響で男女の出生比率が狂っており、少ない男を確保しようと排他的になったことで途絶えた集落同士の交流を担う行商人が現れた。マチルドとマーテルがそうであり、『彼ら』は男でも女でもない特別な性別を持っている――これは取るに足らない情報だが。そして行商人マチルドは魔女伝承について大変興味を示し、魔女と関連している二人を引き連れて旅をする契約を結んだ。
以上がここまでで話され、決まった事柄である。こうして二人は自分の置かれている状況をはっきりと認識したのだが、楽観出来るほど居心地は良くないこの世界と、悲観してばかりもいられない目の前の現実、これらを再確認すると、生真面目な性格の彼らの上にどっと疲れが襲ってくるのだった。
「二人とも顔色悪いけど大丈夫? 辛いんなら無理しないでベガのところで寝かせて貰いな?」
「いえ、まだ……まだ大丈夫です」
「はい、もう少し話聞かせて欲しいですし」
言うまでもないことではあろうが、彼らはこの世界に来て以来、状況の把握や自分の振る舞いに対して絶え間なく思考を巡らせ続け、心休まる時間もなく精神をすり減らしてきたのだ。あるいは、急変した環境に今まで倒れずにいられたこと自体不思議なのかも知れない。
「というか君達、朝食はちゃんと摂った?」
そういえば、と二人は昨日したばかりの約束をたった今思い出した、といったような顔をした。
「それじゃあ元気なくて当然じゃないか。なんか作ってくるよ、待ってな」
と言って、世話好きの主人は椅子から立ち上がろうとした。それをスピカが止める。
「いえ、悪いです! 私たちは何もしてあげられないのに一方的にそうして貰うのは……」
「いいかいスピカちゃん、行商人のこいつならまだしも、私は別に見返りを求めて施しをしている訳じゃない。それはベガだって同じ。そうしたいからそうしているだけなんだから、親切は素直に受け取っておくものだよ?」
「さらっと失礼なことが聞こえたけど?」
「ですが……」
彼女のその謙虚な態度は彼女にとって美徳的振る舞いではあろうが、今この場ではその言動はあまりに異質だった。アークが立ち上がりかけたスピカの袖をつまんで引き留めたのも、マーテルが困ったように腕組みして見せたのも、その現れである。
「恩返しがしたいんなら今からでも遅くはない、自分に何が出来るのか考えておくと良い。いや、どうせすぐ出て行くんだっけ? だからこそ私が客人としてもてなすのは当然、そうだろう?」
「でも……」
「スピカ、厚意に甘えられるうちは甘えておいた方がお互いに気持ちいいもんだ。屋敷の中でちやほやされてた俺が言えた義理もないだろうけど」
スピカとアークの態度の相違は、その思考回路によるものもあるが、置かれた境遇による差が大きいだろう。ことに幸助に至っては、リゲルとして生きるためという目的が与えられていたので、周囲の人々が彼になすこと全てに対し、拒否も遠慮も許されない環境にあった。シオンがリゲルに尽くすことが従者の仕事であり主人の義務なのだと割り切らない限りは、とてもではないが偽者としての意識を確立することなど出来なかったのである。こうしてずれ始めていた彼の価値観はこうして、スピカの手によって僅かだが修正されたのだった。
「じゃあ、お言葉に甘えさせて貰います」
少女がそう言った瞬間、酒場の入り口が突然開け放たれた。夕方からしか営業しないこの酒場をノックもせず開けるのは、マーテルと親密な関係にあるか急ぎの用がある人物だけだ。話し合いの場に闖入してきたベガはまさにその人だった。現れた彼女に四人は一斉に目を向ける。四人の中の一人、アークと目が合ったベガは、険しい表情のまま彼に詰め寄った。
「どうしてあなたが? ここににいるんだから何か理由があるんだろうけど」
「ベガさん、リゲルが影武者だったって噂は聞いていませんか?」とスピカ。
「聞いてるけど、そんな突拍子もない話、今でも半信半疑よ」
「スピカ、この人は誰?」
アークが少女に紹介を求めると、
「この人はベガさんって言って、私がお世話になってるお隣の宿の娘さんでね。あと、言ったかも知れないけど反乱軍の一人」
そこで青年はようやく、この帽子をかぶった女性に対して挨拶をすべきだと感じ取って、椅子から立ち上がった。
「初めましてベガさん。俺、アーク――」
「騙されないわ!」とベガは怒りながら彼の自己紹介を遮る。「そんな風に振る舞っても、あなたはリゲル、ラザル=ハーゲンの息子! わざわざ自分が偽者だなんて噂をばらまいて、一体何のつもり?」
彼女は暴力に訴えず、口だけで威嚇しているのだが、若干上目遣いで睨んでいるため幸助にとってはやや滑稽だった。もちろん、怒りの対象が自分を貫通した他人に向けられていることも十分に理解した上でのことである。
「何がそんなにおかしいの!」
続けざまにそう怒鳴られて青年は、自分がいつの間にか笑っていたことに気付いた。彼は出来る限りは穏便にこの場を片付けたいと思っていたが、ベガの尋常でない怒りを見たら、説得するという選択肢が遠のいてしまう。ましてや自分が悪かったと認めてはならない。難しくてもやってみるか、そう考えた瞬間、横から真っ白い影が割り込んだ。
「やめて下さい! 彼は私の……」
その瞬間、ベガが急に大人しくなって一歩下がった。その真意は彼には分からなかったが、とにかくこれはチャンスだと思えた。そして以前使った、自分が偽者だという証拠を見せる。
「反乱軍の一員ということは、あのクソ親父が死ぬのを望んでいたはずですよね? もうこの村にあのバカな家系はいないんですよ。もう少し嬉しそうにしても良いんじゃありませんか?」
敬うべき人物の悪口を言う、それはこの集落の道徳において最も許されざることの一つだった。ましてやそれが自分の親や村長に対するものであるならば、彼はよほどの不届き者かこの村の常識を知らない異邦人ということになる。
「……まさか、本当に?」
ベガが目を見開きながら呟くように言うと、アークも澄ました様子で返す。
「本物の証ならともかく、偽者だってことはこれ以上の証明しようがありませんが」
既に一度経験したことだとは言え、決定打に欠けるのも事実である。仮に彼が本物ならその証拠をいくつか出せそうなものだが、それが出せないだけでは『本人ではないかも知れない』に過ぎず、『偽者である』証明には至らない。例えばほくろや傷跡の場所等の情報があれば確実性が増しただろうが、もしあったとしても屋敷の外に出なかったリゲルの細かな特徴が知られているはずもない。
「少なくとも、俺がお見合いした女の子達はこれで信用してくれましたよ。おかげでちゃんと噂が広まったみたいですし」
「……ごめんなさい、言い過ぎた」
ベガはうなだれて謝意を示した。その時、彼女の帽子の飾りがアークの頬に触れそうになった。
「いえ、分かって貰えればそれで構いません。しかし、そんなに似てますか、俺とリゲルは」
「そうね、髪の色の具合とか目元とか。私目が良いからはっきりと分かるもの」
それでも彼女はまだ幸助のことを完全に信用してはいない、そんな眼差しを送っていた。
「ところでベガさん、何か用があったんじゃ?」とスピカが切り出すと、
「ええ、いつものように朝食のお誘いに来たんだけど……四人はさすがに」
「私が何とかするよ」とマーテル。「差し入れがあると嬉しいに越したことはないけどね」
こうして彼ら(ベガは含まず)は、食事を交えながら面談を続けることにした。食事、とはいっても彼らの食生活は生あるいは乾燥させた木の実が主であり、実際かなりシンプルなのだ。半分にカットした実を大皿に盛るくらいである。
「それで、当事者として他に何か聞いておきたいことはある?」とマチルドが尋ねた。これに答えたのはスピカだった。
「この村の人は空を飛べるんですか?」
対して二人の商人に共通する見解は『飛べるはず』という、歯切れの悪いもの。何故かと言えば、この世界には他にいくつか鳥の集落があり、そこでは大抵飛行能力を生かした暮らしをしているものだからだという。しかしゾディアークの住人は、誰一人として飛ぶ姿を見せないのだ。
「飛び方を忘れちゃったのかもね」
「真偽を尋ねたことはないから、肯定も否定も出来ない。それだけは確かだよ。龍族とて同じこと。一応言っておくけど、あえて訊くような真似はするべきじゃないぞ。私達は外人なんだから」
そしてスピカは、かつてベガに言われたことを思い出した。冗談交じりに鳥なのに飛んでる人がいない、と言った時にベガは寒いからあるいは風が強いから滅多に飛ばない、と答えたのである。そのことを話してから、
「飛べない、ではなく滅多に飛ばない、と言ったのをはっきり覚えています。これはやっぱり可能だって意味ですよね……だったら、ねえアーク、私たちも飛べると思う?」
そう問いかけた彼女の視線には、自分が空を飛べるかも知れないという高揚感よりもむしろ、最初から期待していない諦念が伺えた。
「否定出来ないからやってみる価値はある、とは言っておくよ」そして彼はプチトマトに似た赤い実をつまみ、「でも子馬が生まれてすぐ歩けるのと違って、鳥の雛は生まれつき飛び方を知っている訳じゃないし、ましてや俺たちは何の道具もなしに飛ぶ方法を知らなければ、誰かが飛んでいるのを見たこともない。格好悪く地面に落ちるのがオチだよ」
自分で言って彼は、この世界に最初にやってきたその瞬間のことを思い出して身震いした。理由はいくつもあるが翼が役に立たなかったのは事実だし、不思議な力を持ったシリウスとぶつからなければ今生きてさえいなかったのである。
「そういえば……」と彼は、今思い出したエピソード、空から落ちていた時のことを話して聞かせた。
「そそ、そんなことが本当に?」
慌てた様子を見せているのはスピカだった。が、その情報と今目の前にいる男が無傷でいる事実とを関連づけられないほど彼女は馬鹿ではない。
「嘘吐いて何になる? そうだよ、俺は最初空から『降って』ここに来たんだよな……」
「それで、どうやって助かったの?」
「本題はここからだ」そして彼は話題をシリウスが持っていた魔法のような力の方へと持って行った。落ちてきた人をほぼ無傷で受け止め、拳骨を寸止めさせ、降りかかる刃を難なく弾き飛ばした、あの防御の魔法である。「ああいうのって、割と普通にあるものなんですか?」
と商人二人に尋ねてからふと白い少女の方を見ると、彼女は気が気でない様子だった。
「そっか……アークは本当に苦労して来たんだね。でも本当に良かった、無事で。後で私からもその人にお礼言わせてよ」
シリウスにもう一度会う。幸助にとってそれは、出来れば避けたいことだった。何故なら彼女は、彼が心の片隅に封印していた記憶を呼び起こす、そういう存在であるからだ。しかしスピカの純粋な気持ちを無下にするのも心苦しい。そしてまた、命の恩人であるシリウスに礼の一言も言っていないことに対し自責の念に駆られる。彼女が持つ不思議な力に気を取られて大事なことに目が向かなかった、というのは言い訳にさえならない。
「屋敷の中で会った、瑠璃色の髪の女性、覚えてるだろ? あの人なんだよ、助けてくれたのは」
「え、そうだったの?」
「だから、行くなら一人で行ってきてくれないか。俺はもうあそこには戻りづらいから」
「あ、うん。そうだよね……」
ただ、アークが行くと危険だがスピカなら安全に入れて貰えるとも限らないのだが。
「それで、話を元に戻したいんですが」
「そうね、この手の話は得意だし」とマチルドが薄紫のくせっ毛を揺らし瞳を輝かせて言った。
「『この世界』にはしばしば、そういう超常的な現象を起こせたり、あるいは特殊な体質を持っていたりする人がいるの。それを私たちは『特性』とか『能力』とか呼んでいるわ。誰もが潜在的に持っていると言われているけど、自分の『力』は手探りで見つけるしかないから一生見つからないのも珍しくないね。一人一つが原則と言う人もいれば二つ以上持っている人もいるし、遺伝が関係していたりいなかったりと、何かと謎の多い現象なの。何故こんなものが存在するのかも含めて、ね」
「それについて調べようとした物好きな行商人もいたみたいだがな」と言いながらマーテルはマチルドの方を見た。
「私のことじゃないわよ」
「なんか唐突でよく分かりませんが、その『特性』には例えばどんなのがあるんですか?」とスピカ。
「一般的なのは素手で木を切り倒すとか、体の一部だけを鉄みたいに堅くするとか。他には目を合わせた相手の心を読む、天気によって体調が変わる、未来を予知する、それから……天気を操る、火を噴く、怪我を治す、離れたところの物を動かす……法則もないし種類も数え切れない」
ということは、シオンの武器であり悩みの種でもある予知夢もこの一種だ、アークはそう結論づけた。ならば、この世界に来てから出会った全ての人々(魔女も含むのか?)は、そういう非常識な、少なくとも物理化学的に証明出来ないことをする可能性を秘めているのだ。記憶の中に何かないが探そうとしたが、すぐさまそれは中断させられた。
「じゃあ私たちにも隠された何かが?」と少女が言い出したからである。これにマチルドが、
「私も思ったんだけど、今まで会った『彼ら』の中にはその片鱗を見せた人さえいなかった。『彼ら』は見た目だけがこの世界の住人で中身が全然違うから、だと思うんだけど。何であるにせよ無理に見つけるものでもないわ」
「確かに、一生かかっても分からない人さえいるんですから……それに、あるかどうか分からないものは、探しても見つからないのとそもそも存在しないのと区別が付きませんしね」
「そういうこと。見つかれば僥倖ってだけね」
「ところでお二人にもあるんですよね?」
「もちろん」とマチルドは得意げに語る。「私が水で、マーテルが鉄」
分かりそうで分からないその説明に、二人の若者は首を傾げた。それよりも今の発言で彼らが確信したことがある。
「やっぱり二人は知り合いなんですか?」
「昔の話だよ」とマーテルは頬杖をついた。
一方幸助はまた別のことが気にかかっていた。
「今までの流れだと『衝撃を吸収する』『火を噴く』と、『力』には動作と対象が組でしたよね。『水』や『鉄』だけ、ってことはないでしょう?」
「本当に鋭いね……『彼ら』は大体勘や観察眼に秀でていたけど、君はその中でも一番かも知れない。それで質問の答えだけど、これ以上は言えないわ。手の内を晒すことは得策じゃないから」
アークは後者の内容に対して、「まあそうでしょうね」と返した。それ以上追及しない。
「ところでさっき思い出したんですけど、その『力』の中に、相手を無意識のままに操るものって、あったりします?」
「あるわよ」とマチルドが即答。「『思い出した』ってことは君がかけられたの?」
「いえ、テル……兵団の指揮官で、今まさに村長の地位を狙っているあの男が、です。彼はその術に操られたことがあるそうなんですよ」
つい今朝方、ポーラが彼に聞かせた話だ。彼女はその能力を持った何者かを捜すつもりだと語っていたが、下手人は村長と繋がる人物、オフィユカス内部にいる可能性が非常に高いのだ。
「何、そんな危ない存在があの屋敷の中にいるの? あの黒い村長さんがそうだったのかしら……迂闊に出入りはしない方が良さそうね」
「そうですね……」その能力の恐ろしさを感じつつ、ポーラの言葉を反芻していると、彼はそこに重大な見落としがあることを発見した。
「でもさ、アークはその術にかけられてはいないんだよね? それってなんかおかしい気がする」
「スピカも気付いた?」
「うん。相手の行動を操れる人がいるなら、君を偽者のリゲルに仕立てようとした時点で真っ先に使うはず。もし洗脳も出来たならなおさらだけど」
それはちょっと違うな、とアークは否定する。
「操られている間の記憶はないらしい。使ったら返ってリゲルとしての教育に支障を来すことになるから、その『能力』で俺を操ってもあまり意味がないんだよ。効力に時間制限があるのかどうかにもよるけど。無限だったら真っ先に使うその説で合ってる。それともう一つ大事なことがあるんだ。俺、昨日の夜に村長に反抗したんだよ、後継者になんてならないって。そうしたらあの黒ずくめ、何て言ったと思う? 俺を使っていない倉庫に一晩閉じ込めて頭を冷やさせろって部下に指示したんだ。村長に従順になるよう俺を操るなら最適な機会だったはずなのに。ということは、だ」
彼はスピカにアイコンタクトをしてから、
「かつてテルを操った何者かは、既に死んでいる。あるいは、村長の手元にはもういない」
ポーラが犯人を『捜している』のだから、誰がその『能力』を持っていたのかは隠匿されていたと見て間違いない。そしてそれを確実に知っている人物はつい先程殺害された。ただ、生き残った他の誰かが知っている可能性はある。
「なあんだ」と胸をなで下ろしたのは、宴のために屋敷に乗り込むつもりだった酒好きの商人その人である。「じゃあ安心ね」
「酔い潰れさえしなければな」
「余計なお世話よ」
「マチルドさん、夜には屋敷に向かうんですよね」
アークが不安そうに尋ねた。
「ええ、何度か言った気もするけど」
「スピカも、シリウスに会いにそこに行く、と」
「うん」
「偽者のリゲル計画をぶち壊した俺はもう屋敷には戻れないし、かといってさっきみたいに俺のことをまだ信じていない人だって少なくないはずだ。二人がいない間、俺、生きていられるのかな」
彼は心の中で男として情けないな、と愚痴をこぼした。だが状況はなりふり構っていられるほど穏やかではない。危ない状況になると魔女が登場するのは幽閉された時の一件からも明らかにはなったが、彼女が姿を現すのは決まって彼が眠っている時か一人でいる時。もし四方を敵に囲まれるようなことがあっては、魔女が来るかどうかも分からない。
「身の安全が心配ならここにいれば良いよ。何しろ完全中立の元行商人が経営する酒場だから村長の勢力もみだりに踏み込めないし、何か小競り合いが起こっても私が主人として許さないから」
「お世話になります」先程のスピカとマーテルの押し問答を見た以上、悪いです、とは言えなかった。
「私も出来る限り早く帰るようにするから」
「うん、待ってる」
スピカとアークがそれぞれ言ったこの言葉は、男女が逆であったら相応しいのに――彼らは二人揃ってそう考えていた。
少女が壁にはめ込まれた分厚い窓ガラスにふと目をやると、外は思いの外明るかった。ただこれは、雪が止んで日が出たからか、それとも雪の照り返しによるものかは判断が付かなかった。磨りガラスのようで外の様子がよく見えないからである。
気付けば四人の話題は、祭りが始まる夕方までの間どうして過ごすか、という他愛もないものへと動いていた。そうしてアークがリゲルの偽者であったことをアピールするために、誰かしらを護衛につけて市街地を行脚するのはどうか、という提案が誰からともなく出された。余計な取り巻きなしに一般市民の暮らしを見たかった元リゲルにしてみればこれは願ってもないことで、誰一人として反対することなくそうするよう決まったのだった。
ところがそんな和気藹々とした雰囲気を意図せずして粉々に打ち砕くものが、この集落で最も平和な場所である酒場『はねやすめ』に現れた。その人物は、最大限の礼儀と遠慮を込めて扉を三回叩いた。この建物の所有者が出迎えに行ったが、他の三人は何かを察したかのように押し黙る。ノックをした以上マーテルと親しい者ではないし、酒を飲みに来た客でもないのは明らかだ。彼らの間に漂う空気に名をつけるなら不安、であろう。
親友に『鉄』と呼ばれた主人が躊躇なく扉を開けると、そこには二人の女性が立っていた。
「やあセラトナ。と、可愛いお嬢さん」
中にいる三人からは、マーテルの体が邪魔でそこにいる何者かの姿が見えなかった。が、反乱軍の頭領が戻ってきたことは、いくつかの可能性を示唆する。村長の後継者争いに負けたか、スピカに協力を求めにやってきたか。どちらにせよ用があるのは間違いなく参謀に対してだったので、セラトナ、という言葉が出た時点でスピカは立ち上がっていた。
しかし次に出て来た訪問者の言葉に、主人公らの背筋が凍り付く。
「ここにスピカと……リゲルがいるだろう?」
「寒いだろ、とりあえず入りな」
と言ってマーテルが体を横にずらした時、かなり小柄な影が滑り込んできた。
「リゲル様!」
「シオン!?」
桜色の分厚い外套を羽織っていることや、大事そうに赤い服を抱えている点以外は、いつも見る通りの彼女だった。その髪や肩口が濡れて雪が積もっているのを見る限り、まだ雪は降り続いているらしい。仕えるべき(でない)主人に駆け寄った彼女は目に涙を浮かべていた。リゲルはそんな女中を見て思わず椅子から立ち上がり、雪を払ってやる。
「ああ、申し訳ありませんリゲル様。両手がふさがってさえいなければ……」
「シオン、それはもうなしだ。俺はもうリゲルでもないし、次の村長になる男でもない。大体俺の名前はアークトゥルスだって言ったろ」
「でも私の仕事はあなたを『リゲル』にすることなんですから!」
必死に訴えながら、主人のために持参した赤い上着を差し出した。アークはそれを渋々受け取る。
「それを命じたラザル村長はもう死んだし、リゲルももういないんだ。俺が来る前の状態に戻るだけだろ。お前もどうしてそこまで意地になる?」
「姉さんのために決まってるじゃないですか」
やっぱりそれか、と青年は顔をしかめた。そして冷静になり、いつの間にか座っているセラトナを含めた全員の注目を浴びていることに気付く。
「……そういえばマーテルさん以外はみんなシオンのこと知ってるんですよね」
「説明しなくても今の会話で分かったよ。そのちっちゃい子は君の召使いなんだろ。正確には召使いだった子、かな。大した忠誠心だ」
「厳密にはリゲルのです。俺のじゃなく」
「どっちでも同じことです、リゲル様」
「だからその呼び方はやめろって」
「なりません。リゲル様をリゲル様とお呼び出来なくなったら、リゲル様をリゲル様にするという私の仕事が成り立たなくなります」
早口言葉のようでそうでないこの言葉を言い換えると、幸助をリゲルにすることがシオンの役目なので、幸助をリゲルと呼ぶことも彼女の重要な仕事の一つである、ということである。
いつも従順なくせに変なところで頑固になる彼女の性格が、幸助には分からなくなっていた。
「お前、さっきシリウスのためだって言ったよな。だったら俺がリゲルでなければならない理由はない。そうだろ? だって必要なのは……」
必要なのは、シリウスを正妻に選んだ俺という存在なのだから、と言おうとして言葉を飲み込んだ。さすがにこの状況で正妻宣言の話が出されるのは出来れば避けたかった。
「言われてみればそうですね……ではアークトゥルス様、お屋敷に戻りましょう」
「アークで良い。あと様もいらない」
「そういう訳には参りません。あ、それとも兄さんとお呼びすればよろしいのですか?」
「それはやめろ!」
彼が全力で否定したのもむなしく、女中が兄さんと言ってしまったのが原因で、マチルドやスピカが糾弾したこともあり、シオンとシリウスが義姉妹であること、リゲルとしての役割を迫られた青年がシリウスを正妻に迎えると言ったことを、公開せざるを得なくなってしまった。
これに一番の衝撃を受けたのはスピカだった。今にも掴みかからんと半ば我を忘れて、必死の形相でアークに肉薄する。
「なんで? どうして!」
疑問詞だけのその訴えは、どんな長広舌よりも破壊力を持っていた。
「ごめん……でも、生きるためには仕方なかったんだ。分かってくれるだろ?」
「……だったらなおさら屋敷に戻ろうよ。婚約はなかったことにするって言うために」
少女は半分涙目で、アークを見上げながら縋るように訴えていた。結果的にシオンの横に並ぶことになったのだが、偶然にも二人の身長は殆ど同じだということに周囲の四人が気付いた。そしてアークトゥルスはスピカの思いを突っぱねるべく、わざと冷たい調子でこう言った。
「嫌だね。あんなこと言って逃げるように飛び出してきたのに、今更どんな顔して戻るんだ。どうせ明日にはここを出て行くんだ、顔を合わせることがない方がずっと気が楽だよ」
「それはダメ!」「なりません!」二人の少女の声がユニゾンして反駁する。
「こうなったら私も意地です! 主人の誤りを正すのも私の務め。たとえ無礼でも、無理矢理にでも引っ張って連れて行きます!」
シオンはそう宣言してから、その小さな両手で主人の左腕を掴んで引っ張った。しかしながらその細腕では男の体を動かすには至らない。
「なあ、この上着を羽織ってからじゃダメなのか」
「あっ、これは失礼しました。ではその後に出発するとしましょうか」
溜め息をついてから青年は、スピカに目配せし、それから助けを求めるまなざしをマチルドへと向けたが、行商人はあくまで傍観者に徹するつもりらしかった。
彼はわざとゆっくりと外套に袖を通しながら、どうにか上手く切り抜ける手段はないものかと考えていた。無益な時間稼ぎでしかなかったが。




