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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第二部 革命編
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ChapitreⅧ-A:残酷な刻

人間には幸福よりも不幸の方が二倍も多い。


ホメーロス


 現在この大部屋には、リゲル、という名前だった男がいなくなって最も喜ぶ男と最も悲しむ女とが同席している。


「どうやら我々はしてやられたようです。あのリゲル……いや、アーク何とかと名乗ったあの男、本物が既に死んでいること、自分が偽者であることを民衆に言いふらしていたみたいですね」


 もっとも喜ぶ男、それはテルことベテルギウス。礼儀正しいような立ち居振る舞いではあるが、その腹の中はもう村長の椅子に座ったつもりでいる高慢さで満ちていた。ラザルの死体が目の前に転がっていることを考えれば、この行動と心理は異常だとさえ言える。


「何をたわけたことを!」


 部屋の中程から声が上がった。その主は余計な肉のそげ落ちた、年老いた男だった。ラザルが最も信頼を置いていた側近、重臣の一人だった。


「本物のリゲル様が亡くなられたことは最重要機密であったはず。漏れるはずがなかろう!」


「じいさん、残念ながらそれは本当だ」と言ったのはセラトナだ。


「影武者と知っていたからこそ、私たち反乱軍は村長だけを殺し、息子には手を出さなかったんだ。そっくりなだけの偽者ってことは一般市民なのだろうし、殺さなければならない理由はなかったからね。最初は半信半疑だったが、村長に武器を向けた時点で確信せざるを得なかったよ」


「何もかもが八日前に戻った、それだけではありませんか。今更何を嘆くというのです」とテル。


「それでは、もう血統は絶たれてしまったのか……ああ、ようやく見えた光が……」


 芝居がかった身振りをして、老人はその場にくずおれた。その周りに二、三人の同僚が近寄る。


「では、あの男に施してきたことは……」と、また別のところから声が上がる。テルは率直に返す。


「水泡に帰したということでしょう。もう役に立ちはしないし、追う必要もない。凍え死のうがもはやどうだって良いこと」


「待って!」シリウスが叫んだ。「シオンがやってきたことを無駄にしようというの? いいえシオンだけじゃない、みんな彼のために協力をしてきた!」


 彼女は逆に、リゲルがいなくなって最も悲しむ女性だ。


「それに私は彼と婚約までしたのに……」


 この言い方は正確ではない。シリウスは婚約の話を間接的に役人から聞いたにすぎないのだ。是と答えるのは分かりきっていても、まだ彼女は是非の返事をしていない。言わば一方的な関係にすぎないのだ。


 とはいえ(偽者でも)村長の息子からの申し出を無下にする者などいないから事実上成立しているようなものだ。婚約や婚姻の破棄がタブー視されるこの社会では、その言葉は切り札になろうと思われた。だがテルはそんなものが何だ、と軽くあしらう。


「なら今からでも追いかけたらいい。あいつはもう守られるべき存在じゃなくなったから出て行ったんだ。そうだ、リゲルは、やっと死んだんだよ」


 衝動を抑えきれずに走り出そうとするシリウス。その腕を、誰かがつかんで引き留めた。彼女が怒りの形相で振り向くと、その少女をおびえさせた。


「シオン……」


 リゲルの女中だった彼女は泣き出しそうな目で姉を見、落ち着き払った様子で首を横に振った。姉妹のように親しい間柄だからこそ、シオンの意図は黙して伝わったのだ。すなわち、


(私のことは大丈夫だから気にしないで。私には全部、分かっていたんだから……)と。


 こうなることが分かっていて、シオンはその仕事を全うし続けていたのだ。そのことが姉には不憫に思えてならなかった。だからこそ彼女は、能う限りの詭弁を連ねようとした。


「でも、私とリゲル様の婚約はラザル様も認めて下さりました。私が正妻として認可されたも同然でしょう。たとえ村長を殺したのがリゲル様でも、たとえそれが偽者でも、ラザル様が決められたことならばそれは絶対ではありませんか?」


 彼女の主張にどこか矛盾はないかと、テルは思考を巡らせた。しかしながらこの集落は「村長が決めたから」が絶対の法となる社会だ。周囲を見渡すと、ラザルと共に政治に参与していたお歴々たちもシリウスの考えに納得したように頷いている。


 最高権力者の椅子を虎視眈々と狙うテルとしてはひっくり返せないこの状況が面白くない。そして彼は、自分を擁護しうる一枚の切り札を見つけた。


「ラザル様が決められたことと言うならば、本物のリゲル様が亡くなられた後、次期後継者になれるのは俺しかないとも仰っていた。影武者が立てられていたとはいえリゲル様はすでに亡くなられている。もう俺しかいないじゃ――」


「そこには『どうしようもなくなったその時は』という枕詞があったように記憶していますが?」と口を挟んだのは大臣のなにがしかだ。


「何を仰いますやら。リゲル様もラザル様も、頼みの綱の偽者も皆消え失せたこの非常事態が『その時』でないとしたら、一体それはどういう状況のことだと言うのでしょう?」


 そこにシリウスが切り返す。


「ベテルギウス、あなた今みんな『死んだ』ではなく『消えた』って言ったね。つまりあなたはまだ『彼』が生きているからまたここに戻る可能性を考慮に入れている、ということ?」


 痛いところを突かれた、とテルは思った。会議とは名ばかりで、自分が次の村長になる宣言を出すつもりだったのに、シリウスのおかげですっかり算段が狂ってしまった。両者の言い分は互いに間違ってはいないのだが、こういう状況になってしまうと当事者だけで解決するのは得策ではない。


 今までこういういざこざは村長が法典となって裁いてきたが、今やその不在の村長を決める話し合いなのだから人々の意見がまとまらないのは当然の流れだと言えるだろう。


「……ポーラ」


 テルは自分の斜め後ろでずっと置物のように控えている婚約者の名を呼んだ。


「何でしょうか?」


「知恵を貸せ」


 彼女は「やれやれ」と言いたげな顔をして、長い前髪を軽く払ってからゆっくりと口を開く。


「一つ尋ねたいのですが、ラザル様にとどめを刺されたのは、反乱軍の方ですよね。襲撃の目的が、村長を打ち倒して、政権を奪うことだったならば、その方にも、権利はあるのではありませんか?」


 一同の目は、セラトナへと注がれる。そして彼女は、その言葉を待っていたとでも言わんばかりの顔で堂々と語り出した。


「当然じゃないか。そのために我々は今まで計画を練り続けてきたんだ。村長とその息子を殺せば血筋が絶えるが、村長を殺した者がその椅子に座るのが革命の道理というもの」


 新たな可能性に一同が困惑の色を見せたが、この状況が一番気に食わないのはやはりテルだった。彼は無言でポーラを睨む。


「……『知恵を貸せ』と言ったのはあなたです。それに、ただ肯定し協力するばかりが、妻の務めではありません。彼女にも権利がある、だからここにいる、その事実を指摘しただけです。テル、次の村長は、独断で決められるものではないのですよ」


 騒ぐ者のいないその部屋では、テルに話しかけたポーラの小声でさえよく響いた。


「では、誰がふさわしいと仰るのですか」という震える声が部屋の片隅から上がった。多少地位があるとはいえ女中に過ぎないポーラに敬語で話すその女性は下っ端の女中の一人と思われた。


「そうですね……」言いながらポーラは五歩前に進み出た。「村長というのは、この村を治めると同時に、女中と兵団を率いる存在でもあります。彼女らの手に委ねてみてはどうでしょう。あるいは、完全中立の立場である商人に決めさせると公平にもなりましょう。いえ、外人が介入するのは、本来好ましくありませんね」


 これにはテルも納得した。否、納得するしかなかったのだ。彼にとって味方でありながら味方ではなく、彼が村長になることに執着しないポーラの言うことは、どこまでも冷静で真っ当だった。


「さて、問題なのは、その決議をどうやって行うか、でしょうか。大きな数を出来るだけ公正にまとめるのは、難しいと思われます」


 彼女は周りにそう助言しながらも、跡継ぎが決まらず誰かが指揮を出さねばならない今の状況にイライラしていた。かといって、こういう場合に頼れるだけの人物がいないのが現状で、女中の彼女が中心に立ってしまう程だ。だから助けを求める視線を婚約者に送った。無言で、無表情で。


『テル、本当に村長になるつもりなら、このくらいのことは解決出来るでしょう?』


 じろりと見つめる瞳の中に、テルはそんな台詞を読み取った。残念ながら、この場に収拾を付ける術を思いつけるだけの機転は彼にはない。


「仕方ない……村長決めは後回しだ。ラザル様の弔いが先だろう。祭りと葬儀か重なるが、このままという訳にもいかない。異議はないな?」


 尋ねた相手はシリウスとセラトナ、いずれも彼同様に継承権のある者だ。二人とも異論はなかったが、セラトナはこう続けた。


「決める方法は、誰かに知恵を借りても問題はないだろう? その手のことに詳しそうなのがうちの軍にいるんだ、とっておきの秘蔵っ子が」


「それは……スピカのことか?」


「なんだ、知ってるのか」


「部外者だったからいろいろ聞き出しはしたが、確かに賢いみたいだな。参謀にしようとしたのも頷ける。だが結局は余所者だろう」


「なら他に誰か頼れる人が?」


 誰一人として反論出来る者はない。この場にはラザルやリゲルに関わっていた者が集まっていたはずなのに、実際は数人でしか話がされなかった。


 逆に言えばこの状況下で正常な会議が出来る冷静な頭脳の持ち主がそれしかいないということでもある。兵団のツートップと村長殺しの下手人が場を取り仕切るこの会議では迂闊な発言がはばかられたのだ。


 人々は村長に関与していたとはいえそれは専ら政治のこと、腕っ節には自信のない者ばかりだったので怯えていたというのも多分にある。


「では、弔いの儀は私が取り仕切りましょう」


 不意に、部屋の中央から嫋やかな女性の声が上がった。比較的な地味な格好の女中らとは違い、赤や橙を基調とした派手な服装の彼女は、ラザルの正妻、アリアだった。服装だけでなく、頭の後ろで束ねた髪や装飾品の数々からも彼女が特別な女性だということがうかがい知れた。


「本来ならリゲル様が中心となるところでございましょうが、ここは私が代わります。それに、今宵はせっかくの霊鳥様がおいでになるお祭り。せっかくと申しては何ですが、主人の亡骸は、霊鳥様の炎で焼いて差し上げましょう。それでこそ、この村を治めた者の最期にふさわしいというもの」


 すると倒れた村長の側にいる老人が言った。


「おお、それは良いお考えです。村長の血統は神聖なる霊鳥様の血を継ぐお方。その炎で終わりを迎えられれば、ラザル様も浮かばれましょうぞ」


 アリアはちらとテルの方を見やってから、衣擦れの音さえ聞こえそうな程の優雅な動作でしゃがみ込み、ボロボロになった血まみれの村長のマフラーに手をかけた。その白く細い指を、顎から唇へとなぞらせる。


 彼女の夫は、ついさっきまで怒号を発していたのが嘘のように、雪晒しにされたためすっかり冷たくなっていた。大小様々な傷だらけで血色は悪く、殴られ蹴られて歪んだ顔からも穏やかな死を迎えたのでないことは明白だった。


 アリアが頭を垂れると、夕焼け色の髪が彼女の顔を隠す。彼女は静かに泣いていた。跡継ぎを生むために無理矢理作られた夫婦だったとはいえ、村長には多くの愛人がいたとはいえ、彼女は村長に愛された女性だった。彼の死を心の底から悲しむ、数少ない一人だった。


 やがて彼女の嗚咽も聞こえるようになると、一人の女中が付き添った。その女中から白い布を受け取ると、顔を覆いながらゆっくりと立ち上がり、涙を拭いてから気丈さを装って、アリアは言う。


「さあ、時間がありません。始めましょう」


 それを合図に場が、具体的には壁の花となっていた女中たちが動き始める。ただ、話し合いの中心だった人々は動かなかった。シオンは慌てて手伝いに行こうとしたが、すぐ姉に呼び止められる。


「ねえシオン。リゲル様はここを去られて、ラザル様は亡くなられた。この後は何が起こるの?」


 その声はテル達四人にしか聞こえなかった。


「すみません、私が予知していた不幸はそこまでです。敢えて言うなら、この雪が二、三日降り続くことでしょうか」


「シオン、本当にそれだけ?」


「私の予知夢は気まぐれなんだって、姉さんもよく知っているでしょう? あと最近見たのは……」僅かの躊躇いを見せ、「龍族から手紙が来ることです」


 龍という言葉が出た瞬間、三人の背中が凍り付いた。龍族との接触があるとすれば、それは時期的に宣戦布告の可能性が高い。従って、村長の座につけば兵団を指揮して戦わなければならなくなる。敵から使いが来るのはそう遠くない未来の話だと、シオンは付け加えた。


「テル、村長になれば、あなたは采配を振るう側。つまり、戦場で剣を振るう必要は、なくなりますね。是が非でも欲しいのでは、ありませんか?」


 ポーラはテルの心中を察してそんなことを言って見せた。その真意は、権利を譲って欲しい、ともう一人の候補者と代理人に呼びかけるものだ。彼女の意志が完全には伝わらないまでも、二人は武人でこそあれ愚者ではない。ポーラが、テルが剣を振るう『ことが出来なくなる』ではなく『必要はなくなる』と言ったことには気付いていた。


 しかしながらシリウスにもセラトナにも、自分のプライドがあった。やりたいことがあった。譲り渡すわけには、行かなかった。


 そんな風に睨み合う三人をよそに、人々はアリアの指示で秩序だって動いていた。男性優位社会のこの集落においては、兵団キャンサーの指揮官たるテル、あるいはラザルと懇意にしていた何人かの老人がこの場で最も権力を有するはずでアリアは立場的には弱い。それでも人々が彼女に従うのは倒錯しているからでも、それが村長の遺言故でもなかった。


 彼女は従順ながらも賢く、ラザルを影ながら支えていたことを村長の側にいた人々は知っており、本能的に彼女について行けば良いと感じているからだった。今までリゲルを巡る混乱に殆ど顔を出さずにいたアリアが僅かの言葉だけで場を動かせたのはひとえに、混沌とした状況をより落ち着かせるのが、恐怖による圧政よりも人徳による先導だからだ。


 そんな彼女と次期村長候補らは、斃れたラザルの周囲に群がる人々を傍観していた。そしてアリアは、部屋の前方、雛壇の側で集まっているテルたちに接近して行った。


 本来なら彼女のような位の高い人物が低い者のところへ自ら歩み寄ることなどない。こういう状況には真っ先に反応するシオンでさえ微動だにしなかったのは、この状況のため、未来の村長がここにいるからだった。


 わざと余らせた裾を引きずりながら歩み寄るアリアは、テルまであと二歩という距離で立ち止まった。


「ベテルギウス、他の兵士達を呼びなさい。若い人の協力なくして葬儀は進められませんので」


「はっ、仰せのままに」


 彼はそう短く返すと、ポーラとシリウスを連れて屋敷の外へと向かった。


「シオン、あなたはここに」


 反射的に姉について行こうとした少女は、アリアのその一声によってその足を止められた。


「奥様、私に、どのようなご用件でしょうか?」


「どうしてあなたはここにいるのですか?」


 女中にはその言葉の意味が分からなかった。シオンが屋敷にいるのは彼女が召使いだからで、今ここに立っているのはアリアが引き留めたからだ。どういう文脈にしろ、彼女がここにいることが何故、と問われるはずはないはずだった。


「……言葉が足りなかったようですね。どうしてあなたは『まだ』ここにいるのですか? 今や、あなたの主人を守る人はいないのですよ」


「いいえ奥様、先程出て行かれたあの方はもう、私の主人ではございません。我が主リゲル様は、既に亡くなられているのですから」


「たとえ夫が亡くなろうと、下した命令が消えるわけではありません。それにその命令は『リゲル様に仕えよ』ではなかったはずですね」


「え……」


 思い出そうとシオンが目を上げたその時、アリアの、涙の跡が残る穏やかな黒目とぶつかった。そして『彼』が空から落ちてきたあの日――彼が目を覚ます少し前、怪我や持ち物を調べるために隔離されていた僅かの間に行われた短い会議の中で、村長が彼女に言ったことを思い出した。


『本当にその若者がリゲルと見紛うばかりなら、そやつをリゲルに仕立て上げるのだ。その時はシオン、お前には、その男に従事することを命ずる。新たな主人を、リゲルにするのだ』


 これを恣意的に解釈するなら、例の青年がリゲルであってもなくても、シオンが彼の女中として働くことを意味している。またその時点では村長は幸助の顔を見ておらず、暗殺者やスパイの可能性を疑うために面会できなかったのであまりはっきりしたことを言えなかったのもその背景としてある。しかし命令は命令だ。


「さあ」と未亡人は促した。「手遅れにならないうちに、追いかけるのです」


「あのさ」と、セラトナが不躾を承知で口を挟んだ。


「今の話を聞く限り、二人ともあの偽者を再びリゲルの地位に戻そうとしているように見えるがね。しかしあの男はたった今私たちの目の前で自分が偽者で村長になるつもりがないと宣言したじゃないか。それに、本物が既に死んでいることも周知の事実。なのに何故まだあの男にこだわる?」


 一切の敬意を欠いた彼女の言葉は、本来ならば無礼極まりないと糾弾されたことだろう。しかし今はそれを咎める者はおらず、彼女はラザルにとどめを刺した張本人でかつ反乱軍を率いた人物だ。強い芯を持ちながらも臆病な二人の淑女は、彼女にそこまで言えるだけの勇敢さを持ち合わせてはいなかったのだ。


「それが村長の命令だからですよ」とアリアは答えた。「この村の掟ですからね」


「そんな悪習に従ってばかりいるからいつまで経っても民衆の不満はなくならないんだ。それを変えるには、規律そのものである村長を跡継ぎごと消してしまうだけでいい。だから私たちは、ラザル=ハーゲンしか殺さなかったんだ……私が何を言いたいか分かりますかね、『奥様』?」


 彼女はそう言いながら腰に提げた剣に手を添えていた。つまり、旧時代の破壊の象徴としてラザル(と、予定ではリゲル)を殺したのに、他の誰かが後を継いで状況が変わらないのなら、アリアも同様に殺すべき対象となるという意味だ。


「ええ。しかし『彼』に継承権があるのも事実なのです。彼がそれを破棄するためには正式な手続きを踏んで、後継者を任命しなければなりません。話し合いのために引き戻すべきです。彼が元のリゲル様ではないとあなたも知っているなら、なおさら」


「……何を言っている?」


 怪訝そうな表情でセラトナが相手を睨むと、夫人はシオンを自分の真横に立たせた。


「この子はシオンと言って、リゲル様専属の女中なのです。だから一番よく知っているはず……彼は最初から村長になるつもりなどなかった。そうよね?」


「奥様、どうしてそれを?」


「聞けば、夫に牙をむいたそうではありませんか。この村を治めようという者がそんなことをするはずはないでしょう。それ以前にも何度か不審な行動を取っていたようですし。私も影武者計画が成功するとは思っていませんでした。さあ勇敢なお嬢さん、これで安心したのではありませんか?」


 しかしアリアやスピカのように賢くはないセラトナには、それが何のことか分からない。


「つまりですね」とシオンが説明した。「リゲル様は継承を辞退されますし、仮に村長になっても以前のようにはならないだろう、と仰っているのです。だから実質、敵はテルさんだけだと……」


 彼女は言葉の最後の方でトーンを落として俯いた。分かりきっていたことではあるが、それがシリウスの悲しみをもたらすことが耐えられなかったのだ。


 この言葉を聞いたセラトナは、攻撃の構えを解き、


「なるほど。じゃあ『今はリゲルとして』連れ戻す必要があるということだな?」


「はい。しかしリゲル様は応じるでしょうか? あんな宣言もしましたし、すでにこの村を飛び出してしまったかも知れません」


「いいや、絶対に市街地のどこかにいるよ、世間知らずのお嬢ちゃん。何も持たずに壁の外へ飛び出すのがどれだけ危険なことか。第一、どういう訳かスピカを連れ出していった。何かあってもあの子が引き留めてるだろう」


「そのスピカというのは、あの真っ白い髪の女の子ですよね。先程も話題に上がっていましたが一体何者なのですか?」と夫人が問うた。


「私たち『クーデター』の協力者だ。理由は分からないが、あの偽者に相当肩入れしているらしい。いいや、それは彼自身にも言えることか」


 最終会議の段階まで参謀はラザルとリゲルを殺す計画に反対する様子を見せていなかった。それから彼女がここに駆けつけるまでに何かしら心境の変化はあったことはセラトナにも推測出来たが、それが何なのかまでは分からなかった。


「では、スピカのいる場所にリゲル様もいるのですね。その場所に心当たりは?」


「大体見当がついているよ。だからそんなに時間もかからないと思う。雪の降り方次第だが」


「では、リゲル様を連れ戻す役割はあなたに与えるべきなのでしょうか」アリアはやや不本意ではあったが、極力表情に出さないように言った。「そういえばまだ名乗っておりませんでしたね。私はアリア、村長ラザル=ハーゲンの正妻です」


「私はセラトナ、反乱軍の頭領だ」


「夫を殺したのはあなたなのですね?」


 アリアのその言葉に、セラトナは一瞬身構えた。それはまるで、復讐を決意した者の言葉に思えたからだ。しかしながら未亡人の顔には怒りの色が認められず、ただただ悲しみが浮かぶばかり。ひ弱な彼女に下手人をどうにかすることも出来ないだろう。ただ、彼女が泣いていること、それが殺人者に心理的な衝撃を与えたのは確かだ。


「逃げも隠れもしない。それはこの私だ」


「では、シリウスはリゲル様が殺したと言っていましたが?」


「最初の深い一撃を与えたのが奴で、結果的に命を奪ったのが我々だった、というだけの話だ」


 その時、アリアの背後からその名を呼ぶ者があった。この場は、やはり彼女抜きにしては動けないということなのだ。


「はい、ただいま参ります」そして彼女は顔だけをセラトナに向けて告げる。「……頼みましたよ。それとシオン、あなたも彼女について行きなさい」


「はい、しかと承りました」


 それからシオンは少しの間奥に引っ込み、防寒具を着込んで再び大広間に現れた。その一番外に羽織っている桜色の外套は新品のように綺麗で、実際彼女の所有物ではあるが全く使う機会のなかった代物だった。そのため彼女の心は弾んでいたが、女中に過ぎないのにそんなに美しい服を着ていることが庶民のセラトナには不快だった。


「さあ、行くぞ」


「はい」


 広間を掃除したり、ラザルの体を清めたりしている人々の横を通り抜けて、この奇妙な組み合わせの二人は雪の降る屋外へと足を踏み出した。


「シオン、だったっけ。君が大事そうに抱えてるその赤い服はもしかして」


「はい、リゲル様の上着です。これしか持ち出せなくて」


 それはリゲルとなった幸助が町中を歩いた時と、スピカが初めて彼と『会った』時に使われた外套だった。その上着を大事そうに眺めていると、女中は雪に足を滑らせた。両手がふさがれている彼女は顔面から地面に激突するかと思われたが、素早く差し出されたセラトナの腕に受け止められた。


「あ、ありがとうございます」


「気をつけなよ。雪の上、まともに歩いたことないんだろ? その様子じゃ」


「どうしてそう思うんですか?」


「この屋敷の周りが賑やかだったことってほとんどないし……兵隊の連中を除いてね。それに日焼けしていないその白い肌は、女中が外に出ることを許されないから、だろう?」


「はい、確かに私たち女中、特に『世話役』と分類される者は原則として屋敷の外、庭でさえ足を踏み出すことを許されません。リゲル様がこの大通りを歩かれたことがありましたが、その時も私は邸宅で帰りを出迎える準備をしていました。


 ただ、私が雪の上を歩いたことがないというのは間違いです。私は元々戦災孤児で壁際に住んでいた、庶民の出なんですよ。私が能力を買われて女中として働くまでの間は、雪の上を歩いたこともありますよ」


 壁際というのは文字通り集落の外壁の側、村の中で一番低い地域のことだ。寝床を置く標高と身分が対応するこの村では、身寄りのない者は必然的にそこにある孤児院に預けられることになる。


「お前みたいなの、多いのか?」


「そうですね。身寄りのない子にとっては、女中あるいは兵士という未来が約束された職に就けることは、ものすごく幸せなことですから」


「そう、なのか……」


 龍族に戦争で勝つことと、村長を父系制で継がせることに執着してばかりいる支配者層を悪だと盲目的に見なし続けてきた彼女にとって、この事実は衝撃的だった。誰にとっても負荷のかかる徴税や徴兵の目的が孤児を救済するためだったとするならば、それはある程度必然だったと見なすことも出来る。だが……


「いや、違うだろう」


 とセラトナが呟いたのをシオンは不思議がった。


 少し冷静になってみれば、孤児を引き取って屋敷の中で仕事をさせるというのは、決して慈善事業などではない。何しろ、孤児となる前の保護者を間接的に殺しているのは戦争を引き起こしている村長本人なのだから、孤児に対して何もしないよりかはマシ、あるいはこのくらいは当然、という状況に過ぎないのだ。


「それにしても、そんな低い身分でリゲル専属の女中になれるなんて、一体何をしたんだ?」


「別に大したことはありません。ただ、私が夢で未来を予知する能力を持っていたからです。これがなければ今は侍従長の言いなりになる下っ端か、すぐに死ぬ兵士だったんでしょうけど」


「素晴らしい力に恵まれているんだな……」


 これを聞いたシオンは、今までにも何度となく感じた怒りを覚えた。とはいえそれはあまりにも繰り返されすぎて、表情の下で受け流すこともこらえることも容易に出来るようになっていた。だから彼女が苦笑いしながら「そんなことない」と言うと、誰にもそれが謙遜と取られてしまうのだ。


 そして慎重に雪の上を歩きながら二人は、オフィユカスの外門を抜けて市街地に入った。そこからまっすぐ延びる坂道を少し下りてから、シオンはその光景の違和感に気付いた。


「この時間に通りが無人なのは普通なのですか?」


「そんなことはない。雪が降っているからじゃないか」


 その時、近くにあった民家の扉が開いて中年の女性が顔を出すのが見えた。セラトナもその人を見て、彼女が反乱軍の一人だったことに気付く。


「セラ! 一体どうして……連中との話し合いはもう良いの? それにその子は?」


「そんな矢継ぎ早に聞かれても困るよ。話そうにも色々あってね」


「寒かったろ? ほら、うちで暖まっていきな」


 世話焼きなその女性は頭領の頭や肩に積もった雪を払いながら腕を引っ張っていた。シオンはどうしたものかと思いながらも、自分のよりずっと大きい背中を追いかける他なかった。


 シオンにとって約十年ぶりの市街地は見知らぬ土地に等しく、案内役のセラトナなくして一人で行くことも適わない。それでも一刻も早くリゲルを迎えに行きたいという表情を見て取った案内人はこう言った。


「大丈夫、すぐ終わるから。それにスピカがいるところには見当がついているし、そこの主人は信用出来る人だからね」


 屋敷に比べて寒いその民家の中で、何も分かっていないシオンは不安しか感じていなかった。

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