PrologueⅠ:冬合宿
きっかけという種は何でも良い。要はそれを育てることだ。
S.K.
時間とはなんと抗い難い力なのだろう、と少女は思った。
「――月日は百代の過客にして行き交ふ年もまた旅人なり」
少女はアスファルトの細い歩道を歩いていた。旧盆を二週間は過ぎ暦の上ではもう秋のはずだが、そんなものは名ばかりで日差しはまだまだ強い。湿気も相まって不快指数は鰻登りだ。
「――草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」
彼女は今、自宅から徒歩十数分の距離にあるスーパーを目の前にしてそちらに向かっている。開業してから二年しか経っていない比較的新しい店だ。これが建つ前ここは確か、ボウリング場だったはずだ。その前は――空き地だったように彼女は記憶している。
「――夏草や兵どもが夢の跡」
時間というものは無情にも、全てを変化の大渦に巻き込み、とどまることを許さない。背景の青々とした山だって秋になれば赤や黄色に染まり、冬には雪化粧をする年もある。しかしその変化は予見出来る穏やかなものだ。
「――行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」
徐々に移ろいゆく日常なら侘び寂や趣を感じようが、人はそれが時には急激に訪れることを知っている――例えば、慣れ親しんだ町が一昼夜のうちに焼け野原になったら、昨晩までと異なる土地や環境で夜眠らなければならなかったら、目の前にある夏の景色が目を離した隙に雪山になっていたら、――そしてそれが紛れもない現実だと知った時、人は何を思うのだろう。もしそれが自分に対して起こったら――
穏やかで変化に乏しい日常を送り続けてきたこの小柄な少女は、時々そんな突拍子もない空想に耽ることがあった。
「――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……」
古典の引用句を呟きながら華奢な少女は、丈長の白いワンピースを揺らして車の疎らな広い駐車場を横切っていく。彼女の白い鍔広の帽子と長い黒髪は、地面がアスファルトでさえなければ確実に一枚の絵になっていたことだろう。まだ日は高くないが照り返しでもう十分に暑く、彼女は額に汗を滲ませていた。
スーパーの入り口の自動ドアをくぐると、二枚目の扉には向かわず、水色とピンクの模様が入った裾を翻して脇にある休憩スペースに腰を下ろした。肩から提げたグレーのポシェットからハンカチを取り出して汗を拭う。
(そういえば、中に入ったのは初めてだったかな)
オープン時には彼女の家にもチラシが来たし、何度か前を通りかかったことはあるが、手近なところに通い慣れた店があるので、わざわざこちらに来ようとは思わない。それなのに彼女がここにいるのは、ここが待ち合わせの場所だからだ。
窓ガラスに貼られた特売のチラシを興味なさげに眺めていると、自動ドアから一人の若い女性が入ってきた。
「美奈、お待たせ」
現れたのは背の高い茶色の短髪の女性。白いTシャツにデニム地のベスト、黒のスパッツという、ワンピースの美奈とは対照的に活動的な出で立ちだった。
「おはよう、菜摘ちゃん」
「うん、おはよ」
と菜摘と呼ばれた女性は軽く返した。実のところこの二人、年齢的には殆ど差がない。だというのに美奈は少女と形容したくなるくらい幼げで、菜摘は女性と表現した方が適当と思えるくらい大人びている。それほど二人の纏う雰囲気は違っていた。
「今日も暑くなりそうだね」
「うん、残暑厳しい、ってのはまさにこのことだ。さ、追いつかれる前に早く買い物済ませちゃおうか」
と言って菜摘は、右手に提げていたブランドのロゴが入ったハンドバッグを左手に持ち直した。
「じゃ、入ろうか」
――その買い物の内容というのは、今日の四人分の昼食だ。そして彼女らが今からやろうとしているのは、三泊四日の旅行なのだった。
*
彼女らの外出の発端を遡ると、昨年の末にまで及ぶ。その時美奈は入った大学のサークル紹介でふと目にしたゲーム研究会なるサークルに所属していて、その冬合宿に参加していたのだ。入部した理由は単純、面白そうだったから、だ。
ゲーム研究会というのは、平たく言えば遊んで遊んで遊び倒そうという目的の、良く言えば享楽的な、悪く言えば堕落的なサークルだった。その範疇はテーブルトークRPGを皮切りに、携帯型ゲームやカードにボード、果てはバクチ(もちろん賭けるのは疑似コイン)まで幅広い。ゲームを通して部員同士での幅広い交流を図る、というのが主旨で、研究会の看板など名ばかりなのだ。
しかし、このようなサークルが冬合宿を敢行するというのは奇妙な話だ(むろん夏合宿も行い、美奈はそれにも参加した)。結局やっていることはいつもと同じで、夜まで思う存分楽しめるのと、合間にアルコールを飲めることぐらいしか違いはない。一番の違いは畳の上で遊べることだろう。
だが元より楽しむこと自体が存在意義と言ってもいいサークルだから、メンバーは誰もそんなことを歯牙にもかけない。ただある数人を除いては――美奈もこのサークルの奇妙さに気付いてつまらなそうにしている、そんな一人だった。
時刻は午後十時を回り、二十数名のサークルのメンバーは夕食と風呂を済ませ、一つの部屋に集まってゲームに興じていた。その多くがジャージなど寝間着なのに対し、美奈は白いカーディガンに紺のスカート、チェック柄のニーソックスという格好だった。
彼女は女子の輪に混じって大富豪(彼女らはこう呼ぶ)に興じていた。酒が回っているせいか周りのテンションは高く、それと対比して、いや比較するから一層、美奈の心持ちは沈んで見えた。首筋にかかる程度の長さしかない髪の毛をいじって気を紛らす彼女のことを心配する者もいなかった。
ちょうど平民で上がった所を見計らい、彼女はそこから抜けた。自分の紙コップに半ば無理矢理注がれた温くなったビールを飲み干し、苦味に眉をしかめる。美奈はこれが好きではなかった。そもそも彼女は十九歳、この国の法律では飲んではいけない年齢だ。
それから部屋の真ん中に積まれた、買い出し班が買ってきた缶の山に手を伸ばす。取ったのは梅酒だ。ふらふらとした足取りで人の輪を避けながら部屋の隅に行き、丸められた布団一式の上に腰を下ろした。俯くと、横に流した前髪が正面に垂れてくる。それは視界の一部を遮り、今の感情と呼応するように美奈をより沈鬱な気分にさせた。肩を落としながら大きな溜め息を一つ漏らす。
「つまんないな……ううん、違うな、私が楽しんでないだけか」
缶の冷たさを両手に感じながら呟いたその言葉は、酔った人々の笑い声にかき消された。そのままプルトップに指をかけると、小気味のいい音を立てて開く。紙コップに移して飲むべきだろうという思いが脳裏をよぎりはしたが、どうせ孤立している自分だけなのだからと思い、直接飲もうとした。
「待って」
横から、不意に男の声がした。見れば、同じ布団に座りながら、紙コップを美奈に向けて差し出している。
「俺にもくれない?」
眼鏡を掛けた短髪の、聡明そうな青年だった。それでいてどこか寂しげな影がある。彼は白地に青いラインが入った大学のジャージを着て、その上にグレーのパーカーを羽織っていた。レンズ越しの彼の穏やかな目を見た瞬間、何故だか彼とは仲良くなれそうな、そんな気がした。
「梅酒だけど?」
「いいよ、別に。俺梅酒好きだから」
そして彼の紙コップになみなみと注いでやり、足元に放置していた自分のにも入れる。口を付ける前にちらりと彼の方を窺うと、いっぱいになったはずのコップを、やはり彼女に向けて差し出していた。もっと欲しい、という意味でないのは確かだ。彼が求めているものを悟った美奈は、彼の手と自分の手、彼のコップと自分のコップを触れ合わせた。ささやかな乾杯。
「ねえ」孤独が寂しかったのか、気付けば美奈は自分から青年に話しかけていた。「そっち、行ってもいい?」
同じはぐれ者としてシンパシーを感じたのかも知れない。あるいは酒のためか、彼女は警戒心を解いていた。眼鏡の青年が構わないと答えたので美奈は腰をずらす。
「えと、名前なんだっけ?」
彼がそう言うと、美奈は「あまのみな」とだけ返した。
「どういう字?」
「天国の天に、野原の野で天野。それから美しいに神奈川の奈で美奈」
「綺麗な名前だな」
親から貰った名前を誉められて気分を悪くする者などいないだろう。美奈は純粋に嬉しかったのだが、素直に嬉しさを表現したりはしなかった。
「……ありがとう」
その冷たい言葉に青年は軽く笑う。今度は彼が名乗ろうとするが、美奈がそれを言葉で切った。
「たかのくん、だっけ?」
「うん、大体合ってる」
「大体? じゃあたかのくんって呼ぶね?」
訂正しなかった彼も彼だが、これはそうしなかった彼への、美奈なりの意地悪だった。
「いや、幸助でいいよ。他の友達にもそう呼ばせてるから」
どうやら彼は相当酒が回っているらしい――そう思った美奈だったが、何故だか彼を嫌いにはなれなかった。自分から近づいた手前そういう考えには至れない、というのもある。
「じゃ……幸助君?」
躊躇いがちに言ってから美奈はそっぽを向いた。
「ねえ、天野さんって何年生?」
「一年だけど」
「じゃあ同い年じゃん。呼び捨てでいいよ。代わりに俺も美奈って呼んでいい?」
さすがにこれには反発心を起こさずにはいられなかった。顔が赤くなったのは、酒が回ったからだけではないはずだ。
「それはやめてよ。周りにデキてるって思われたら……」
誰も困らないが。
「ごめんね、天野さん。ちょっとしたジョークだから」
とはいえその呼び方も、彼女には他人行儀らしくて嫌だった。しかし呼び捨てにされるのも違和感がありそうだ。そんな矛盾したことを思いはしたが、呼び方一つにこだわっている自分がバカらしくなり、気分を紛らわそうと口に酒を含む。
「学科どこ?」
幸助はまず、そんな差し障りのない話題を切り出した。
「……日文。えっと……幸助君、は?」
「史学だよ。っていっても、まだ高校の延長みたいな事しかやってないんだけど。一年生なんだから当たり前か」
「ふーん」
話が続かない。互いに興味がないからだろう。幸助は次の話題を探す。
「高校ん時は何してた?」
「高校は……私あまり行ってなかったんだよね。病気がちだったから、部活とか委員会とかもやってなかったし。でも留年しないで卒業出来たし、良い友達が出来たから楽しかったよ」
「へえ、どんな?」
「テストの度に家でお泊まりの勉強会開いてくれる子でね。それが楽しくって、テストよりもそっちがメインって感じで。進級してクラスも勉強する科目も別々になっても集まってやってたんだから、変な話だよね」
「変じゃないだろ。そんな状態でも泊まりで勉強会開くって、良い友達じゃないか」
つまらなそうにしていた美奈だが、友達の話をすると少し表情が和らいだ。それに気を良くしたのか、二人の会話も弾んでいく。
「俺の方はさ、中学ん時からの親友がいて……今日もここに来てるんだけど、そういやさっきから見ないな。欽二の奴、どこ行ったんだ?」
「……それって、あの筋肉質で背の高い人だよね?」
「そうそう……って、良く覚えてるな」
「だって集会の時はいつも一緒にいるから。結構目立つ組み合わせだしね」
幸助はそれに驚きを隠せなかった。彼は自分達が目立つ理由を美奈に問いただした。
「目立つっていうより、印象に残りやすいっていうのかな。見たまんまインテリ系と、見たまんまガテン系。なんか、一緒にいるのが不思議な感じ」
幸助は笑ったような困ったような、そんな複雑な表情になる。そんな苦笑いの表情からは、一見すると不釣合いなコンビであることを自覚し、何度も言われているのだろうと察せられた。
「まあ確かに正反対なんだよな、俺らは。でも昔から不思議と馬が合うんだよ」
「良いよね、そういうの」美奈が紙コップに残った梅酒を全部飲み干した。そして軽く微笑む。「人は見た目だけじゃないってことだよね。外見は合わなさそうに見えても、心の中では通じ合えるものがあるから……」
彼女が言葉尻を濁したのは、この言葉が言った彼女自身の心にトゲのように突き刺さったからだった。心から通じ合える存在――彼女はそれを、大学という新しい環境に入ってから手に入れられずに思い悩んでいた。その原因が自分のせいだということも分かっている。自分から接近しても、心理的な壁を作りだしてしまうのだ。
現に今、幸助との間にも壁が一枚存在している。真横に座っていながら、騒がしい中でも聞こえるように近接していながら、彼女は幸助の目を見て話そうとはしていないのだ。何度か彼の方に目をやることはあっても。
「でもその逆もあるだろ? 似ているのに犬猿の仲とか。いや、その場合はむしろ似ているからこそかも」
「うん、なんかそれ分かる。主人公とライバルって何故か似てるんだよね」
「あとは、性格が真逆なのにもかかわらず意気投合してるとかな」
「ふふっ、ウチらもそうだったよ、さっき話した友達。そもそもが文系と理系で考え方が違うのに、甘い物が好きとか辛いのが好きだとか、アイドルの好みも方向性が一致しないのに……何故か喧嘩にならないんだよね」
「でも何かしら共通の話題の一つや二つあったんじゃない?」
「漫画だよ」美奈はそのタイトルを言った。「知ってる?」
「ああ、詳しくは知らないけど粗筋くらいはね。まだ連載してるんだっけ?」
「うん、まだ続いてる。私入院してる時にその漫画読んでたんだけど、最初の勉強会の時にその話したらみんな乗ってきてくれてね。嬉しかったよ、漫画一つでここまで仲良くなれるなんて」
「そりゃあ良かったな」
幸助も幸助で、美奈に対し一歩距離を置いているような態度だった。暇を持て余していたので話しかけてはみたものの、相手の態度から近づくに近づけないのだ。
「うん、それでね――」
*
目の前の信号が赤に変わり、男は車のブレーキを踏んだ。止まる直前でふっとゆるめる。少しすると目の前の横断歩道を、犬を連れた老婆や自転車に乗った女性が渡っていく。ウインカーを点けた車がこちらに曲がろうとしてくるのが見えた。
その時、助手席に座る幸助の携帯電話が鳴った。カーラジオのボリュームを下げてから通話ボタンを押す。
「もしもし……ああ、お疲れ様。思ったより早く済んだんだな……今そっちに向かってるからちょっと……まあ十分もあれば着くから適当なとこで待ってて……うん、じゃあ」
通話を切ると、再びラジオの音量を上げようと手を伸ばす。
「今の電話、菜摘か?」
その手は、運転席に座る大柄で筋肉質な男・欽二の声によって止められた。
「いいや、美奈だった。それがどうかしたのか?」
「いや、大したことじゃないんだが……」
信号が青に変わる。欽二はアクセルを踏み込み、幸助はラジオから手を離した。
「幸助、お前、美奈のことどう思ってる?」
「何だよ藪から棒に」
「いいから。お前は美奈をどう見てる?」
「素直でいい娘だと思うよ。なんというか、放っておけないって言うのかな、気に掛けてやらなきゃならない大事な仲間だと思ってるよ。ただ、俺らに対して心を開ききってない感じがするのがちょっと引っかかるけどな……」
交差点に差し掛かり、ウインカーを出して左に曲がる。
「最後のは俺も同感だ。美奈は多分『本当の自分』を出したがらないんだろう、理由は分からないが……まあまともに会話をするようになってから半年ちょっとしか経ってないから、心を全て開けないのが分からなくもないな。でも、元々俺たち三人で始めたサークルなんだ、隠し事は……いや、こういうのは良くないな」
「それが賢明だ。俺らにだって、美奈や菜摘に話せない秘密の一つや二つあるんだ。時期が来たら、話しても問題ないって思えるようになったら、話してもいいんじゃないか。お互い今はそのタイミングじゃない。ただそれだけだろ」
その慎重さはまた同時に、話してしまうことに対する臆病さの裏返しでもあった。仲良くなればなるほど、いつかは話さなければならないという心理に脅迫される。そしてできる限りは胸の中にしまっておきたいし、そうそう気軽に話せるものでもない。こうしたジレンマは常々彼らを苛んでいるのだ。
幸助は携帯電話の着信履歴を呼び出し、そこにある美奈の名前を見つめた。
「で、なんで美奈のこと訊いたんだよ?」
「今の電話、菜摘と話してるような感じじゃなかったからな。買い出し頼んだくらいで『お疲れ様』なんて菜摘に言う訳がないから、もしやと思って訊いてみた」
事実、美奈が彼らに電話をすることは皆無で、いつも連絡はメールだった。そうでなくとも彼女は大抵菜摘と話をしており、彼らに自分から話しかけること自体がまれだった。
「ちょうど良い機会だからお前が俺と同じ事を考えてるのか確かめたかった……というのもあるが」
「ふーん?」
ラジオの音を大きくしながら、幸助は欽二の横顔を見た。手本のような姿勢で、視線を適度にミラーにやっている。車は再び交差点の信号に引っかかって止まった。車体の左側を原付がすり抜けていく。
「欽二、お前もしかして美奈が好きなのか?」
幸助には鎌を掛けようという意図など全くなかった。欽二には変化球よりも直球をぶつけた方が良いのだ。そうすれば、まっすぐな答えを打ち返してくれる。その親友に対しては。
「かも知れない、と思うことはあっただろうな」
悩む素振りも見せず欽二は全く動揺の色を見せずにそう答えた。曖昧な言い方をしても、彼の本心はどこまでもまっすぐだ。
「お前が言ったように、悪い女じゃないからな。でも何か影を抱えていて隠し事が多い。そんな女、俺は好きにはなれん」
「……そう言うと思ったよ」僅かに笑いながら、幸助は言う。
「お前はどうなんだ? 美奈のこと」と欽二は正面を見据えたまま尋ねた。
「さあ。嫌いでないのは確かだけど……そもそも、俺に誰かを好きになるなんて出来るのかね」
そんな悲しげな呟きに対し欽二はすまんと謝り、幸助はドアにもたれかかりながら別に大したことじゃない、と返した。欽二が言葉を継ぐ。
「女は美奈や菜摘だけじゃないんだ。その時が来たら、自然とそうなってるんだろうよ」
この言葉は励ましでも弁解でもない。過去を引きずる青年への、ちょっとした気休めに過ぎない。幸助もそれを理解していた。
「……だと良いな」
携帯の画面を着信履歴から待ち受けへと切り替える。四人の写真を一瞬だけ見て、折りたたんでポケットにしまい込む。
彼らの目の前には、待ち合わせのスーパーの看板が見え始めていた。
*
気付けば、二人だけで缶を三本空けていた。量としては多くはないが彼らは話に夢中になってほとんど飲まず、二人で空けたにしては相当量の時間を消費したことになる。
その間もちろんゲームの誘いもあったが、それをことごとく断っていた。酒が入っているためか冷やかしの声があったが、二人は気にもかけない。
「ねえ、ちょっと暑くない?」
美奈の顔はほんのり赤くなっていた。原因としては暖房やゲームに興じる人々の熱気が考えられるが一番はやはり――
「ああ、アルコールが回ってきたかな。涼みにベランダ出る?」
「……でもコート持ってきてないよ」
「寒くなったらすぐ戻ればいいさ」
空になった缶と紙コップを部屋の隅に置かれたゴミ袋に入れ、二人は素早くベランダに出た。
「思ったより冷えるな」
「酔いも醒めちゃいそうだよ。ジャンパーでも借りれば良かったかな」
「でも、これを酔った頭で眺めても面白くはないんじゃないか?」
幸助は、目の前に広がる夜景を顎で示した。
「わあ……」
美奈の口から、思わずそんな言葉がこぼれた。いや、もはや言葉ではない。溜め息に似た何かだ。
この町の中心部では大きな道路が二つ、国道と県道が直角に交わっており、それが光点の十字架として夜の町に鎮座している。それ以外の小さな道の街灯も、ビルや家の明かりも電車の光も、十字架を引き立てるためのイルミネーションに見えた。そのきらびやかな景色、切るような凛とした空気、それらがぼうっとしていた頭を一気に冷ました。いや、醒ましたと言う方が適切かもしれない。
「旅館が町を見下ろす丘に建ってるから夜景がこんなに鮮やかに見えるんだな。しかも市街地から離れてるから、星も比較的多い」
星は彼らが住んでいる都会に比べて多いのであり、決して多く見えるわけではない。だが、それでも美奈の心をときめかすのには十分だった。
「素敵……やっぱり天文研究会に入れば良かったかも」
「星好きなの?」
「うん。家の近くにプラネタリウムがあって、毎月のように行ってたんだ。三年前に閉館しちゃったけどね。星にまつわる神話とか歴史とか、面白い話がいっぱい聞けて楽しかったんだよ。係の人も詳しくってね」
夜空を見つめる美奈の目は、星の光を反射しているかのように文字通り輝いていた。
「そりゃ、残念だったな」
幸助は視線を落とし、両腕を手すりにもたせかけた。そこでふと気付く。あの輝きの正体は、実は涙だったのではないかと。
「電車で一時間は乗らないとプラネタリウムがないから、もうここ二年は行ってないなぁ」
「去年は受験で忙しかったし、受かっても一年生のうちは必修科目で忙しいし?」
「そうそう。んー、やっぱここ辞めようかな」
美奈の声色には迷いが全くなかった。以前から思っていたというのもそうだが、このサークルに留まるだけの理由もないのだった。
「好きにすれば良いよ。『来る者拒まず去る者追わず』が方針だそうだから」
ところで、彼らがいるこのベランダは団地のように二部屋分が一続きになっていて、衝立で仕切られている。その向こうから不意に男の声がした。
「その声はやっぱり幸助か?」
声がした方に目をやると、やや無骨な顔立ちの男がこちらに顔だけを出していた。
「なんだ欽二、いないと思ったら隣の部屋にいたのか。いつの間にそっちに?」
「飽きたから抜けようと思ったんだが、その時お前は遊んでたからな。ところでその娘は?」
三人の位置関係上、小柄な美奈は幸助の陰に隠れてほとんど見えないはずだった。がしかし長身の欽二からはフェンスに体を傾けた幸助の肩越しに彼女が見えた。
「一人でつまんなさそうにしてたから話しかけてみたんだ」
だから、美奈が欽二の顔を見るためには首をわずかに動かすだけで良かった。
「つまりナンパか」
欽二の軽口に美奈は肩をびくっと震わせたが、男二人はそれに気付かなかった。
「……当たらずとも遠からず。そういえば、天野さん何であんなに沈んでたの?」
「うん……何だかこのサークル、あんま楽しくないなって気付いてさ。大学でこんなことやってても面白くないなって」
彼女は賑やかなガラスの向こうを見つめた。
「それは俺も同感だな」
「お前もか。俺も常々感じていたんだ」
幸助と、それに欽二も美奈に賛同した。
「私たち、似た者同士かもね」
「じゃあ三人でじっくり話さないか? 今そっちに行く」
と言って欽二はベランダの柵伝いに衝立を乗り越えようと体を乗り出した。
「待て待て待て。そんなことしなくても俺らがそっちに行けば済む話だろうが」
「ああ、それもそうか。鍵は開けてあるからな」
言うと、欽二は引っ込んだ。
「……とは言ったけど、行く?」
幸助が尋ねるが、美奈はどこか躊躇っている。
「この隣って男部屋でしょ?」
「そうだけど……大丈夫、俺たちフェミニストだから女の子に変なことはしないよ。だから安心してくれて良い」
「……うん」
「なんなら別の場所でもいいし、無理についてくることもないわけだし」
「ん、大丈夫」
「決まりだな」
幸助は部屋を出る前に新しい紙コップを三つくすねた。二人は廊下に出たところでちょうど部屋から出て来た臙脂のジャージを着た巨漢――欽二と出くわした。彼は幸助に鍵を手渡し、
「ロビーの自販機でジュース買ってくる」
「ああ」
「ありがとう」
二人で先に幸助ら男四人で使う和室に入った。この部屋の他の利用客はもちろん、隣室でゲームに熱中している。隣とは左右が逆なだけで構造は全く同じだった。ただ一つ違うとすれば、布団が綺麗に敷かれていることぐらいだろう。その中の一つはやや乱れていた。
「あいつ寝てたんだな。まあどっか適当に座ってなよ。すぐに戻ってくるだろうし」
それぞれの布団を半分にたたんで中央を空けると、美奈は壁を背にくっつけて布団の上に座った。騒がしい部屋とは反対側の壁に、だ。
「もしかして、壁好き?」
先の部屋でも壁を背にしていたことから、彼は冗談半分で尋ねてみた。
「うん、壁際ってなんか安心するよね。パーソナルスペースを確保するために人は端っこに行きたがるものだって本で読んだ」
「でもそれはこれから人と話をしようって位置じゃないだろ?」
幸助が苦笑しながら言った。美奈は一人が壁にもたれ、もう二人がそれに向き合う構図を想像してみた。それは入院患者と見舞客の位置関係に似て、怖気がした。
「それも、そうだね」
今度は、畳の上に正座する。その時欽二が帰ってきた。
「おかえり」
「なあ、紙コップ――」
「持ってきてる」
「――用意がいいな」
「まあな」
「アルコール買ってきてないが平気か?」
「全く」
「お前に訊いたんじゃない。そっちに」
視線で美奈を指す。
「うん、平気。私そんなお酒強くないから。それに……ほら、酔いつぶれた姿なんて、見られたくないじゃない?」
「確かに。介抱するのもされるのも遠慮したいからな。さて、それじゃ始めますか」
三人のコップにオレンジジュースが注がれ、彼らはささやかな乾杯をした。
引用
松尾芭蕉『奥の細道』
鴨長明『方丈記』
作者不詳『平家物語』




