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第53話 気になる隣同士

マーメイドラウンジで研修を続けるかすみ。

そこへ、誠司が客として現れます。

誠司がマーメイドラウンジに来た時、最初に気づいたのはリリアだった。


「誠司さん」


リリアの表情が、ぱっと明るくなる。


誠司は入口近くで立ち止まっていた。


その視線の先に、かすみがいた。


マーメイド衣装を着て、リリアの少し後ろに立っている。


誠司は何か言おうとした。


けれど、その前にリリアが近づいた。


「来てくれたんですね。嬉しいです」


リリアは素直にそう言った。


かすみは、その声を聞いてしまった。


昨日、休憩室で聞いた声。


誠司のことを、好きな人だと言った声。


かすみはすぐに視線を落とした。


その時、別の客がスタッフに声をかけた。


「その新人の子、つけられる?」


かすみの体が少し固まった。


リリアも振り返る。


スタッフは一瞬だけ確認するようにかすみを見たあと、笑顔で答えた。


「研修中ですが、短時間でしたらご案内できます」


「じゃあ、その子で」


かすみは断れなかった。


リリアは少し心配そうにかすみを見た。


「無理しないで。困ったら近くのスタッフを呼んで」


「……はい」


かすみは客の席へ向かった。


案内されたのは、誠司とリリアが座る席のすぐ隣のブースだった。


完全に見えるわけではない。


でも、仕切りの隙間や水槽の光越しに、互いの姿が目に入る距離だった。


かすみの隣に座った客は、楽しそうに笑った。


「新人さんなんだ」


「はい。まだ研修中です」


「緊張してる?」


「……少し」


「そういうところ、いいね。ここの子たち、慣れてる子が多いから」


かすみは、作り笑いをした。


うまく笑えているのか、自分でも分からなかった。


隣のブースから、リリアの声が聞こえる。


「誠司さん、今日はゆっくりしていってくださいね」


「……はい」


誠司の声も聞こえた。


かすみは、胸の奥が少し冷えるのを感じた。


自分は今、別の客の隣にいる。


誠司は、リリアの隣にいる。


それが、今の二人の距離だった。


客がメニューを見ながら言った。


「触れるコースって、つけられる?」


かすみの指先が止まった。


近くにいたスタッフが、すぐに説明へ入る。


「人間マーメイド店員への接触は、規定の範囲内でしたら可能です。新人のため、過度な接触はお控えください」


「分かってるよ。少し近くで話したいだけ」


客は笑った。


「じゃあ、それで」


かすみは、何も言えなかった。


注文が通る。


客の手が、かすみの手に重なった。


「手、冷たいね」


「……緊張しているので」


「大丈夫。すぐ慣れるよ」


客は悪びれた様子もなく、かすみの手を撫でるように握った。


かすみは笑おうとした。


でも、うまく笑えなかった。


私は、何をしているんだろう。


ミレナを助けるために来たはずだった。


なのに今、自分は知らない男の隣で、笑おうとしている。


客の手が、かすみの膝の上に置かれた手へ移った。


そのまま、ドレス越しに膝のあたりへ触れる。


かすみの体が、少しこわばった。


「大丈夫?」


客が顔を覗き込む。


「……はい」


そう答えるしかなかった。


その様子は、隣のブースの誠司の目にも入っていた。


誠司は、手を握りしめた。


かすみが、客に触れられている。


笑っている。


でも、その笑顔が本物ではないことくらい、誠司には分かった。


立ち上がりかけた。


けれど、できなかった。


自分は何を言うつもりなのか。


かすみを止めなかった。


かすみを傷つけた。


その自分が、今さらどんな顔で客の手を払えるのか。


「誠司さん」


リリアの声で、誠司は我に返った。


リリアは、誠司の視線が何度も隣のブースへ向かっていることに気づいていた。


「隣、気になりますか?」


「いえ……」


「嘘」


リリアは、少し寂しそうに笑った。


「誠司さん、さっきから隣ばかり見ています」


誠司は言葉に詰まった。


リリアは、誠司の手にそっと自分の手を重ねた。


「今日は、私に会いに来てくれたんですよね?」


「リリアさん……」


「だったら」


リリアは甘い声で言った。


「私だけを見てください」


誠司は何も返せなかった。


リリアは、誠司の手をそっと取った。


「大丈夫です。触れるコースですから」


「いや、僕は……」


誠司が言い終える前に、リリアはその手を自分の方へ引き寄せた。


誠司の指先が、リリアの衣装越しに触れる。


その瞬間だった。


かすみが、たまたま隣のブースを見た。


ほんの一瞬。


けれど、誠司には分かった。


見られた。


自分の手が、リリアに触れているところを。


かすみの表情から、色が消えたように見えた。


すぐに、かすみは視線をそらした。


誠司の胸が、嫌な音を立てた。


僕は、何をしているんだろう。


かすみさんが客に触れられているのを見て、苦しくなっていた。


それなのに、自分は今、リリアさんの隣にいる。


リリアさんに手を取られ、そのまま流されている。


かすみさんを止めることもできない。


自分の手を引くことも、すぐにはできなかった。


リリアは、誠司の変化に気づいた。


「誠司さん?」


誠司は答えられなかった。


隣のブースでは、かすみが客に向かって笑っていた。


作った笑顔だった。


その笑顔が、誠司には何より痛かった。


誠司は、リリアの隣に。

かすみは、別の客の隣に。

近い席にいるのに、二人の距離は遠くなっていきます。

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