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第52話 ミレナの名前

マーメイドラウンジで仮採用されたかすみ。

翌日、かすみは店員としてラウンジの中へ入ります。

そこで、探していた名前を耳にします。

翌日、かすみはスタッフ用の入口からマーメイドラウンジに入った。


昨日と同じ受付の女性が、かすみを見た。


「来たね」


「はい。よろしくお願いします」


「今日はリリアについて動いて。勝手に奥へ行かないこと。分からないことは必ず聞くこと」


「はい」


少しして、リリアが現れた。


昨日と同じように華やかで、柔らかく笑っている。


「おはよう、かすみさん」


「おはようございます」


「今日は私の後ろについて、店の流れを見ていて。無理に話そうとしなくていいから」


かすみはうなずいた。


衣装室で昨日のマーメイド衣装に着替える。


髪を整えられ、薄く化粧をされると、鏡の中にはまだ見慣れない自分がいた。


リリアが横から見て、少し笑った。


「やっぱり似合うわ」


「自分では、まだ慣れません」


「慣れなくていいのかも。かすみさんは、その少し緊張している感じが合っているから」


かすみは返事に迷い、鏡の中の自分を見た。


店内へ出ると、音が変わった。


水槽の光。


グラスの音。


客の話し声。


ステージの歌。


外から見ていた時よりも、ずっと近かった。


リリアは小さな声で言った。


「まずは一階のホールだけ。二階より上は、今日は行かなくていいわ」


「はい」


「お客様に何か聞かれて困ったら、すぐ私に回して」


「分かりました」


かすみはリリアの後ろについて歩いた。


席への案内。


飲み物の注文。


ステージ近くの席の説明。


水槽がよく見える席への誘導。


リリアの接客は、滑らかだった。


相手が何を求めているのか、少し話しただけで分かっているように見えた。


カウンター席の客が、かすみに気づいた。


「新人?」


かすみは一瞬、言葉に詰まった。


リリアがすぐ横に立つ。


「今日から研修の子です」


「へえ。今までと違う感じだね」


客はかすみを見た。


「清楚系?」


リリアは笑った。


「そう見えますか?」


「見える。こういう子もいるんだ」


かすみは軽く頭を下げた。


何かひどいことを言われたわけではない。


けれど、自分が並べられて見られている感覚がした。


リリアは、客の席から離れたあとで小さく言った。


「今のくらいなら、普通よ」


「……そうなんですね」


「嫌なら嫌でいいの。ただ、顔には出さない方がいい」


責める言い方ではなかった。


ただ、ここで働くための方法を教えているだけだった。


その後も、かすみはリリアの後ろについて動いた。


注文を運ぶ。


席番号を覚える。


店員同士の合図を見る。


表から見ていたラウンジと、働く側から見るラウンジは違っていた。


どの席が安いのか。


どの客が奥を気にしているのか。


誰が本物の人魚を見たがっているのか。


店員たちは、客の欲望をよく見ていた。


しばらくすると、別の客がリリアに声をかけた。


「今日、本物の人魚って見られる?」


リリアは笑顔のまま答えた。


「お時間によります。確実に会話をご希望でしたら、上位席のご案内になります」


「ミレナちゃんって、今日いる?」


その名前に、かすみの体が止まった。


リリアの視線が、ほんの少しかすみに向いた。


けれど、すぐに客へ戻る。


「申し訳ありません。個別の出勤状況は、こちらではお答えできません」


「人気だもんな」


「気になるようでしたら、受付で指名状況をご確認ください」


リリアは、丁寧に話を終わらせた。


客は少し不満そうだったが、別の店員に案内されて奥の受付へ向かった。


かすみは、その背中を見つめた。


ミレナ。


名前が出た。


それだけで、心臓が強く鳴った。


リリアが、小さな声で言った。


「かすみさん」


「はい」


「今の名前、知ってるの?」


かすみは返事に詰まった。


すぐに否定すればよかったのかもしれない。


でも、言葉が出なかった。


リリアは周囲を見てから言った。


「今は仕事中だから、後でね」


その声は、責めるものではなかった。


けれど、かすみの胸は落ち着かなかった。


休憩時間になるまで、かすみは何度もミレナの名前を思い出した。


上位席。


指名状況。


本物の人魚。


知りたいことは増えていく。


けれど、今すぐ動けば怪しまれる。


かすみは、できるだけ普通の新人として振る舞った。


休憩室に入ると、リリアは紙コップの飲み物を二つ持ってきた。


「はい」


「ありがとうございます」


リリアは向かいに座った。


少しの沈黙のあと、先に口を開いたのはリリアだった。


「ミレナのことを調べに来たの?」


かすみは、紙コップを握った。


「……どうして、そう思うんですか」


「名前を聞いた時の顔が、普通じゃなかったから」


リリアは声を落とした。


「前にもいたの。同じ名前を気にしていた人」


かすみの指先が止まった。


リリアは続けた。


「誠司さん」


その名前が出た瞬間、かすみの胸が痛んだ。


「誠司さんも、ミレナのことを聞いていたわ。あなたと同じように、必死だった」


かすみは何も言えなかった。


リリアは、かすみの顔を見た。


「もしかして、誠司さんと知り合い?」


かすみは、少しだけ間を置いた。


「……知っていました」


リリアの表情が、わずかに変わった。


「知っていました?」


「前は」


それ以上は言わなかった。


リリアも、すぐには聞き返さなかった。


ただ、かすみを見つめていた。


かすみは紙コップのお茶を見た。


昨日、リリアは誠司を好きだと言った。


そして今、誠司もミレナを調べていたと話している。


リリアはまだ何も知らない。


かすみと誠司がどういう関係だったのか。


かすみがなぜここにいるのか。


何も知らないまま、かすみの傷の近くに立っている。


リリアは、少し迷ってから言った。


「ごめんなさい。聞かれたくないことだった?」


かすみは首を横に振った。


「いえ」


「誠司さん、危なっかしいけど、悪い人ではないと思うの」


かすみは、紙コップを握る手に力を入れた。


悪い人ではない。


それは分かっている。


分かっているから、苦しかった。


リリアは声を落とした。


「ミレナを探しているなら、気をつけて。あの子は本物の人魚だから、店も簡単には近づけないようにしてる」


「……リリアさんは、ミレナさんに会ったことがあるんですか」


「遠くからなら」


リリアは少し考えた。


「綺麗な子よ。でも、最近は一階にはほとんど出てこない。指名が入ると、上の席に呼ばれることが多いみたい」


「上の席……」


「今のかすみさんが勝手に行ける場所じゃないわ」


リリアの声が少し強くなった。


「焦らないで。新人が急に動いたら、すぐに怪しまれる」


かすみはうなずいた。


「分かっています」


「本当に?」


「……はい」


リリアは、かすみの顔をじっと見た。


「かすみさん、まっすぐすぎるのね」


「そうですか」


「うん。まっすぐな人は、こういう場所だと危ないわ」


リリアは、紙コップに視線を落とした。


「でも、危ないと分かっていても、助けたいんでしょう。ミレナのこと」


かすみは返事をしなかった。


その通りだった。


休憩が終わる頃、リリアは立ち上がった。


「今日は、これ以上ミレナのことは聞かない方がいいわ」


「はい」


「私も、分かることがあれば教える。でも、無理はしないで」


かすみはリリアを見た。


「どうして、教えてくれるんですか」


リリアは、すぐには答えなかった。


少しだけ困ったように笑う。


「本物の人魚が、人生交換されるのは……見ていて気持ちのいいものじゃないから」


それだけ言って、リリアは休憩室を出た。


かすみは、しばらくその背中を見ていた。


リリアが何を知っているのかは、まだ分からない。


けれど、ミレナのことを何も知らないわけではない。


そして、誠司のことも。


かすみはゆっくり立ち上がった。


店内に戻ると、水槽の光が揺れていた。


客の笑い声。


グラスの音。


ステージの歌。


その奥に、まだ見えない場所がある。


かすみは、リリアの後ろについた。


今はまだ、焦ってはいけない。


けれど、確かに一歩だけ近づいた。


マーメイドラウンジの中で、ミレナの名前を聞いた。


それだけでも、昨日の自分より先へ進んでいた。

かすみは研修初日を迎え、店員としてマーメイドラウンジの中へ入りました。

客の口から出た「ミレナ」の名前。

そしてリリアは、誠司もまたミレナを探していたことを知っていました。

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