第50話 さよならの手紙
誠司は、リリアと店の外で会う約束をしてしまいます。
それは調査の続きのはずでした。
けれど、その姿を、かすみは見ていました。
誠司は、約束の場所へ向かった。
マーメイドラウンジから少し離れた、マーメイドホテル前の広場だった。
夜の広場には、水槽の光があちこちに反射していた。
ホテルの入口には、白い花と青い薔薇の飾りが置かれている。
恋人たちが写真を撮り、スタッフが笑顔で案内していた。
誠司は、端末で時間を確認した。
約束の時刻まで、あと少し。
これは調査だ。
そう自分に言い聞かせる。
リリアは、店の中では話せないことがあると言った。
奥の人魚。
人魚の秘密。
ミレナにつながる情報。
それを聞くために来た。
そう思わなければ、ここに立っている理由が分からなくなりそうだった。
「誠司さん」
声がした。
振り返ると、リリアが立っていた。
店の中とは違う服だった。
けれど、普通の服を着ていても、リリアはやはり華やかだった。
夜の広場に立っているだけで、周りの光を自然に集めてしまう。
「来てくれたんですね」
リリアは嬉しそうに笑った。
「約束しましたから」
誠司はそう答えた。
声が少し硬い。
リリアは気にしないように、誠司の隣に並んだ。
「ここ、少し人が多いですね」
「話しにくいですか」
「ええ」
リリアは声を落とした。
「人魚の話は、誰に聞かれるか分からないので」
誠司の表情が変わる。
「やはり、知っているんですね」
「少しだけ」
リリアは、ホテルの方を見た。
「でも、ここでは話せません。二人きりになりませんか?」
誠司は息を止めた。
「二人きり……ですか」
「誠司さんが知りたがっていること、ちゃんと教えます」
リリアは、まっすぐ誠司を見る。
「奥の人魚のこと。人魚の秘密。ミレナって子のことも」
「ミレナを知っているんですか」
「名前くらいは」
その言葉だけで、誠司の中の迷いが大きく揺れた。
ミレナ。
やはり、あのラウンジにいる。
「私と一緒にいてくれたら、最後に教えますよ」
リリアは、誠司の手にそっと触れた。
「だから、もう少しだけ私に付き合ってください」
誠司は、すぐに答えられなかった。
ここで帰れば、何も分からない。
リリアについて行けば、情報が得られるかもしれない。
誠司は自分にそう言い聞かせた。
「……分かりました」
リリアは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
二人は、マーメイドホテルの入口へ向かった。
その少し離れた柱の陰に、かすみがいた。
かすみは、誠司がリリアと会うことを知っていたわけではない。
ただ、朝から胸騒ぎが消えなかった。
誠司がまたラウンジへ行く。
みんなが止めても行く。
そのことがどうしても気になって、仕事の後、マーメイドエリアの近くまで来てしまった。
そして見てしまった。
誠司の隣にいるリリア。
リリアに手を取られ、ホテルへ入っていく誠司。
かすみは、声を出せなかった。
誠司さん。
行かないで。
そう思った。
でも足は動かなかった。
ホテルのロビーの光が、二人の姿を包む。
リリアが何かを言い、誠司がうなずく。
やがて二人は、エレベーターの方へ進んでいった。
扉が閉まる。
かすみは、その場から動けなかった。
調査。
情報。
人魚の秘密。
そう言えば、理由にはなるのかもしれない。
でも、かすみにはもう、そうは見えなかった。
誠司は、リリアとホテルの部屋へ入ってしまった。
その事実だけが、胸に冷たく残った。
ホテルの部屋は、静かだった。
窓の外には、マーメイドエリアの光が広がっている。
水槽の青。
ナイトプールの白い光。
遠くのバーから漏れる音楽。
部屋の中には、花の香りが残っていた。
リリアは、入口のそばで靴を脱いだ。
「誠司さんも、そんなに固くならなくていいですよ」
「……僕は、話を聞きに来ただけです」
誠司はそう言った。
けれど、その声は自分でも弱く聞こえた。
リリアは振り返り、少し笑った。
「分かっています」
そう言いながら、リリアは部屋の明かりを落とした。
青い光だけが残る。
まるでラウンジの奥へ続く水槽の中にいるようだった。
「人魚の話を」
誠司はもう一度言った。
「最後に教えます」
リリアは近づいてきた。
「でも今は、私を見てください」
その言葉は、ラウンジで聞いたものと同じだった。
誠司は動けなかった。
帰るなら、今だった。
扉はすぐ後ろにある。
かすみの顔が、一瞬だけ浮かんだ。
朝、袖をつかんだ手。
危ないと思ったら、すぐ帰ってきてください。
その声が胸に引っかかった。
けれど、リリアの手が誠司の指に重なると、その声は遠くなった。
「誠司さん」
甘い声が、すぐ近くで落ちる。
誠司が返事をする前に、リリアがそっと唇を重ねた。
短いキスだった。
それでも、誠司の中で何かが静かに崩れた。
「怖がらなくて大丈夫です」
リリアはそう言って、もう一度誠司の手を取った。
誠司は、答えなかった。
答えないまま、その手を振りほどかなかった。
青い照明が、二人の影を壁に揺らした。
やがて、部屋の奥でカーテンが静かに揺れた。
時間だけが、音もなく過ぎていった。
どれくらい経ったのか、分からなかった。
誠司は、ベッドのすみに座っていた。
乱れたシャツの襟元を直しながら、深く息を吐く。
頭の中がぼんやりしている。
リリアは隣で髪を指で整えていた。
さっきまでの距離の近さが、部屋の中にまだ残っている。
誠司は、床に視線を落とした。
調査のため。
情報を得るため。
何度も自分に言い聞かせてきた言葉が、今はひどく薄く感じられた。
リリアは、何事もなかったように微笑んだ。
「じゃあ、ご褒美に教えてあげます」
誠司は顔を上げた。
「……人魚のことですか」
「ええ。誠司さんが知りたがっていた、奥の人魚のこと」
リリアは楽しそうに声をひそめた。
「あそこにいる人魚たち、もうほとんど中身は元の人魚じゃないんですよ」
誠司の表情が変わる。
「どういう意味ですか」
「人間と人生交換しているから。今いる人魚の多くは、元人間です」
誠司は息をのんだ。
外見は人魚。
でも中身は、元人間。
それなら、元の人魚はどこへ行ったのか。
答えは、聞かなくても分かってしまった。
「人魚になりたい人間と、人間になりたい人魚が交換するんです」
リリアは淡々と言った。
「店にいる人魚の中には、本当に元の人魚のまま残っている子は少ないですよ」
「ミレナは」
誠司は、すぐに聞いた。
リリアは少しだけ笑った。
「最近来たミレナって子は、まだ本物の人魚です」
「まだ……」
「ええ。だから人気があるの。歌もうまいし、見た目も綺麗だし、まだ人魚のままだから」
リリアは指先で髪を整えた。
「今はナンバー三くらいかな」
誠司の手が、膝の上で強く握られた。
ミレナは、まだ本物の人魚として残っている。
今なら間に合うかもしれない。
だが、時間が経てば、ミレナも誰かと人生交換されるかもしれない。
外見だけがミレナのまま。
中身は別人。
そうなれば、もう救えない。
誠司は立ち上がろうとした。
「この情報は、すぐに共有しないと」
「帰るんですか?」
リリアが聞いた。
誠司は動きを止めた。
リリアは、少し寂しそうに誠司を見た。
「また会ってくれるかしら?」
「店で、ですか」
リリアは小さく首を横に振った。
「もう、店には来なくていいわ」
「え?」
「こうして、店とは関係なく会ってくれればうれしいの」
その言葉に、誠司の胸が重くなった。
店に行くなら、まだ理由があった。
調査。
奥の人魚。
ミレナの情報。
けれど、店の外で会うことに、どんな理由をつければいいのか。
「誠司さんといると、落ち着くんです」
リリアはやわらかく笑った。
「欲望区では、あなたみたいな人、あまりいないから」
誠司は視線を落とした。
かすみの顔が浮かんだ。
朝、袖をつかんだ手。
危ないと思ったら、すぐ帰ってきてください。
その声が、今さら胸に刺さった。
「……今日は、帰ります」
「はい」
リリアは、追いかけてこなかった。
「また連絡しますね」
誠司は答えられなかった。
ホテルを出ると、夜風が冷たかった。
誠司は、ぼんやりしたまま帰路についた。
ミレナ。
本物の人魚。
人生交換。
ラウンジにいる人魚の多くは、もう元の人魚ではない。
頭の中では、得た情報がぐるぐる回っている。
けれど、それ以上に、リリアの最後の言葉が離れなかった。
もう店には来なくていい。
店とは関係なく会ってくれればうれしい。
誠司は自宅の前で足を止めた。
鍵を開ける。
中は、妙に静かだった。
「……かすみさん?」
返事はない。
靴がない。
いつも置いてある小さな鞄もない。
誠司は胸の奥がざわつくのを感じながら、部屋へ入った。
棚の一部が空いていた。
薬の道具が減っている。
衣類もない。
そして、机の上に一枚の手紙が置かれていた。
誠司は、ゆっくりとそれを手に取った。
短い文字。
それだけだった。
『誠司さん、さよなら』
誠司の指先が止まる。
何度も読み返す必要はなかった。
それでも、目がその文字から離れなかった。
さよなら。
たった一言で、かすみがもうここにいないことが分かった。
誠司は、手紙を握ったまま立ち尽くした。
ようやく、胸の奥に冷たいものが落ちてきた。
自分は、何をしてしまったのだろう。
しばらくして、誠司は椅子に座った。
手紙は、机の上に置いた。
目をそらしても、そこにあることは分かっている。
誠司は端末を開いた。
指が震えていた。
まず、報告しなければならない。
情報は得た。
調査は進んだ。
そうしなければ、今夜のことが本当に何もかも無駄になってしまう気がした。
誠司は、グループチャットを開いた。
そして、文章を打った。
今日、マーメイドラウンジ周辺を調査しました。
ミレナに関する情報を得ました。
やはり、ミレナはあのラウンジにいる可能性が高いです。
早く助けないと危険です。
あのラウンジにいる人魚の多くは、元の人魚ではないようです。
人魚になりたがった人間と、人間になりたがった人魚が人生交換しているらしいです。
外見は人魚でも、中身は元人間になっている場合がある。
もしミレナも交換されてしまったら、外見はミレナのままでも、中身は別人になってしまうかもしれません。
ミレナは、まだ本物の人魚として残っているようです。
今なら間に合う可能性があります。
送信ボタンを押した。
画面には、すぐに既読がついた。
誠司は、その反応を見る前に端末を置いた。
情報は得た。
調査は進んだ。
そう思おうとした。
でも、机の上にはまだ手紙がある。
『誠司さん、さよなら』
誠司は、その文字から目をそらせなかった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は、誠司がリリアと店の外で会い、ミレナの重要な情報を得る回でした。
その一方で、かすみは誠司の姿を見てしまい、家を出ていきます。




