09 口車に乗せられる男
梶原の遺体を収容した短艇が船尾甲板に戻ってくると、私は作業甲板の出入り口を規制する鎖縄を跨いだ。
晴天であれば船尾甲板の眺望良好で、遥か遠くに朝鮮半島が見えるし、停泊している旅客船で羽を休める渡り鳥がいる。
事件さえなく何事もなければ、絶好の船旅日和だったであろう。
「おい、俺にも検分させろ」
九重中尉が、私を追い掛けて船尾甲板に出てくる。
梶原が、なぜ自ら命を断つ必要があったのか解らなければ、何者かに殺された疑いが濃厚だった。
笹木は梶原の自死を目撃したと言うが、犯人に死角から脅されていたのかもしれなければ、やむを得ず海に飛び込んだ可能性もある。
梶原が殺されているのならば、どのような手口なのか、どのような訳合があるのか、まだ何一つ解ってない。
「部外者は、ご遠慮願うのだがね」
「お前だって部外者だろう」
九重中尉が騒動を起こした張本人であれば、梶原の遺体に近付けるのは避けたいところだが、それを止める権限がなければ見逃すしかなかった。
「憲兵さん、こちらです」
私を短艇に案内してくれたのは昨晩、奥山の船室に案内してくれた船員だった。
梶原の遺体は防水布に覆われており、短艇の座席に寝かされている。
「船が停船していれば、海に落ちただけで溺死するものか?」
私が船員に聞くと、梶原の頭部には舷縁に打ち付けた傷があり、海に落下した時点で気を失っていたのではないかと私見を述べた。
防水布を捲ってみれば、左の側頭部から後ろに何かしらに打ち付けたような傷跡があり、船尾甲板から右舷の展望通路を見れば、海面との間に防舷台が突き出している。
防舷台とは港の桟橋に接岸するとき、舷側を保護するための防舷材だ。
梶原は展望通路から落下しながら、左の側頭部を防舷台に打ち付けて気を失ったとの船員の証言は、筋の通る見立てではある。
「いいや、こいつは何者かに襲われたんだろう。自殺だったら、防舷台のある手前に落ちないぞ。それに停泊している船から海に飛び込んだところで、確実に死ぬとは限らない」
九重中尉は梶原の頭部を返しながら、またも第三者の関与を疑っているのだが、今回ばかりは私も中尉に同意する。
自らの意思で海に飛び込んだなら、船体から僅かに張り出した防舷台に頭を打ち付けるのが難しい。
「梶原は、事故だと思うかね?」
「そこまでは解らんが、自殺じゃないことは確かだ」
「梶原は泥酔していれば、手摺りを乗り越えて自ら身投げしたとの目撃者がいる」
「こいつが酔っていた? 酔って足を滑らせたのか」
九重中尉が振り向くので、私は軽く頷いた。
しかし納得できる訳合ではないのは、九重中尉も同様であろう。
まず梶原が酔っていたとはいえ、なぜ展望通路の手摺りを乗り越える必要があったのか、説明が付かない状況であれば事故死で諒解できるはずがない。
「お前らは、誰の許可で遺体を調べている。私の船で二人も転落死したのだから、海員審判所で懲戒処分されるのは必至なんだ。私の船で好き勝手するのは、もう勘弁してくれ」
船長の太田は、短艇に上がり込んで検分していた私と九重中尉に、遺体に触れるなと憤慨した様子である。
太田にとっては、これ以上の騒動が災難でしかなければ、このまま事を荒立てずに済ませたいのだろう。
「太田船長、少しだけお時間を頂けますか。昨晩の騒動に関わった人物ついて、お耳に入れたいことがあります」
「昨晩の騒動に関わった人物? あれは、一等船室の乗船客が身投げしたのではないのか」
「奥山の身投げだとする証拠がなければ、昨晩の騒動には裏があると思います」
「うむ……。では後ほど、私の部屋で聞こう」
「ええ、構いません」
私が短艇から降りれば、それに続いた九重中尉は『同席させてもらう』と、立ち会うのが当然といった顔で言った。
九重中尉の厚顔無恥な振舞いには、流石に釘を差しておく必要があるだろう。
「私は、九重中尉が騒動の主体だと考えている。邪推されたくなければ、私に任せて報告を待つべきではないのか」
「この騒動は、俺が作り出した状況じゃない。もしかして貴様は、俺が奥山って貿易商や、梶原を殺した犯人だと疑っているのか」
「いいえ。二つの事件が同一犯の仕業だとすれば、九重中尉には昨晩のアリバイがあります。しかし中尉は、奥山が海に突き落される訳合に心当たりがあれば、この騒動の原因を心得ていますね」
九重中尉は、奥山が船内から消えた訳合を犯人の防諜活動だと推察していればこそ、身投げした男がいると知って動揺したはずだ。
「奥山なんて男は、本当に知らなかった」
九重中尉は、奥山の名前や容姿を知らなかったかもしれなければ、船内で何かしらの符丁を交換する相手を探していただけかも知れない。
中尉は嘘を付いていないが、真実を口にしていない。
「それでも九重中尉は、船内の誰かが命を狙われると予見していた。危険な任務を帯びた間者がいると知らなければ、先ず以て第三者の関与を疑いがいません」
私は船内に『間者がいる』と、敢えて核心を突いた。
九重中尉だって敵の存在を否定できなければ、彼自身も密命を帯びた諜報員である。
「ああ、なるほど。ようやく話が繋がったぞ」
「何のことですか?」
「そうかそうか、貴様が騒動を仕組んだのなら説明がつく」
手前勝手に納得した九重中尉は、私から少しだけ距離を取ると、強張った表情で人差し指を向けた。
九重中尉は、私を誰かと勘違いしているようだ。
「心得違いしているようですが、私は上官命令で偶然に乗り合わせただけで、今回の事件とは無関係です」
「スパイがスパイと言うわけがなければ、貴様の任務なんて知りようがない」
「九重中尉には、私が犯人と疑う訳合があるのですか」
「貴様は、乗船客にスパイがいると言ったが、殺された二人がスパイだったのなら、彼らをスパイだと疑っている者が犯人じゃないか」
九重中尉の直感は、言い得て妙ではある。
貿易商の奥山が殺された訳合は、寄木細工の小箱に隠された機密情報の保護にあったと考えていれば、犯人は、奥山を間者だと知っている防諜活動に従事する者だ。
機密情報を掠め取ろと目論んでいる私は、九重中尉の考える犯人像に該当するのだから、逆手に取られて追い詰められた感がある。
「彼らを間者と疑うのは、私だけではないでしょう。九重中尉だって、奥山が敵に殺されたと考えてなければ、あのとき取り乱したりしない」
「いいや。貴様は、俺が奥山の仲間だと決め付けているのだろう。そうでなければ、回りくどいやり方で話を聞き出そうとするか」
「まあ、そうですね。私は、九重中尉を奥山の仲間だと疑っています。それに今回の騒動は、私の預かり知らぬところで情報の争奪戦が行われている結果でしょう」
「貴様は、俺の立場で考えてみろ」
「私の言動は、敵に見えるでしょうね」
「俺は今後、貴様の協力を全て拒むからな」
九重中尉は手を下げると、私に肩をぶつけて船内に戻った。
どうせ箱の鍵を寄越せと言っても、素直に渡さなければ、ここまで露骨に遠ざけておけば、よもや私に付き纏うのを諦めるだろう。
そう考えながら操舵室の船橋甲板を見上げれば、渡り鳥の中に毛色の違う鳥がいて、そいつが首を傾げながら私を見下ろしていた。
私はこのとき、九重中尉を追い払うのに執着しており、梶原が殺された訳合を捨て置いたから、中尉の落ち着き払った態度の意味に考えが及ばなかったのである。
九重中尉は、梶原が殺されたと断言していれば、昨晩のように取り乱したところがなかった。
その違和感に気付いていれば、誰より早く事件の真相に辿り着いていただろう。