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燕の騒乱  作者: 梔虚月
第一部 鳩の密告
10/31

10 預かり知らぬ話

 時間は遡る。

「なぜ直接、情報提供してこないんだ?」

 自動車の後部座席で旅行鞄を抱えた九重は、ハンドルを握る陸軍省情報士官の(たか)(はた)(けい)(とら)に問い掛ける。

 高幡から筒型の容器を受取った九重は今、錦州港で旅客船に乗船するところだった。

「情報提供者は慎重な男だから、()()()()()()に素性を知られたくないのさ。彼とのやり取りは、いつも仲介者を通して行われる」

 高幡の年頃は二十代半ば、陸軍省から朝鮮軍に軍籍を転属した九重とは旧知の間柄であり、旅客船での情報提供者との接触を依頼した人物である。

「二重スパイとは、いけ好かない奴だ」

「九重君が、それを言うのかい」

「俺が陸軍省情報部の手先を続ける理由は、仮初めでも仲間だった連中を死地に送り出した罪悪感でしかない。どこぞの蝙蝠野郎とは、一緒にされたくない」

「九重君は、彼らを仲間と思うのか」

(きっさき)を向ける相手を間違えたとはいえ、憂国の志は本物だった。敵と戦って死ねなかったのは、さぞや無念だったに違いない」

「彼らにとっての主敵は、軍部に主導権を譲らない支配階級そのものだったのさ。九重君が反逆者に同情的だからこそ、敵の目を欺いて同化できるのだろうが−−」

 高幡は九重の顔色を窺いながら『その情けが仇になるぜ』と、一呼吸置いてから忠告した。

「しかし九重君が彼らを哀れだと思うなら、今回は取っておきの仕事になるだろうね。陸軍省が得る情報は、君の良く知っている人物の動向だ。彼は謀略により、国体の破壊を画策しているらしい」

「あの男が、国体明徴声明の破棄を目論んでいる? 皇道派の陸軍青年将校を逆賊に貶めた奴が、国体明徴声明を否定するとは思わない。現状は、奴の思惑通りに皇道派の見る影もなくなった」

 帝国憲法下では、法人たる国家に統治権があり、天皇は最高機関として内閣などの統治権を行使するとされており、これが俗に天皇機関説と呼ばれている。

 国体明徴声明とは昭和十年、政治的主導権を握ろうとした軍部主流派が、元老や重臣が主導権を握っていた天皇機関説と対立する天皇主権説を迫って、内閣に出させた政府声明だった。

 九重の脳裏に浮かんだ『奴』は、帝都不祥事件(二・二六事件)を未然に防ぐことなく、皇道派の陸軍青年将校を逆徒として法廷に引き渡していれば、国体明徴声明により、統制派の陸軍将官が政治的主導権を強める現状を作り出している。

 つまり九重は国体明徴声明を是とする奴が皇道派でなければ、現状を否定する意味合いを理解できなった。

「九重君は、陸軍省の汚れ仕事で疲れているのさ。自己欺瞞で仕事を続けている君は、素顔さえ知らなかった売国奴を身内だと思い込もうとしている。あの男が、国家転覆を目論んでいる化生の者だと忘れていないか?」

 運転席から振り向いた情報士官の高幡は、渡された筒型の容器を旅行鞄に入れた九重を薄ら笑いで見据えた。

「俺には、奴が国家転覆なんて世迷言に取り憑かれた狂人だと思えない。奴が作り出した現状に明確な意思を感じれば、多くの犠牲を払っても成し遂げたいものがあるのではないのか」

「九重君の知っている彼は、身銭を切るような男だったかな? 君は、彼を同じ人間だと過小評価しているらしい」

 九重が無言を貫いたので、高幡は肩を竦めて前に向き直る。

「化け物が送り込んだ身代りが、どんなに美少年だったのか知らないけどさ。九重君が()()()()()に付け込まれて、大日本帝国が小兵を失った事実と、それを不問に付してくれた寛大な処分を忘れてはいけないよ」

「わ、解っている」

 九重が慌てて降車すると、高幡は大きくハンドルを切って、ゆっくりと彼から離れていく。

 これは九重中尉が錦州港から旅客船に乗船する前の出来事であれば、私が預かり知らない話だった。


 ◇◆◇


 私は船尾甲板から船長室に向かう途中、資産家の窪坂から事情を聞いていなかったことを思い出して立ち止まる。

 相田の支援者である窪坂は、梶原が中座しているときに船室に戻ったので、騒動そのものを知らないのだから、事情聴取しないで捨て置いた。

 新聞を熱心に読んでいた相田は、梶原が中座したと証言しているが、どこに消えたのかまで覚えていない様子である。

 もしや同じく席を立った窪坂は、梶原の行き先を知っているかも知れない。

「梶原の証言には曖昧な点が多ければ、今回の事件と無関係なはずがないか」

 黒羽少佐に問われたとき、苦し紛れに事故や自死もあると嘯いてみたものの、引っ掛りがないわけではなかった。

 この旅客船の構造は、船底部屋に三等船室、一階層に乗船口、待合室、船首・船尾作業甲板、二階層に船内食堂、調理場、回廊している展望通路、三階層に二等と一等船室があり、最上部には操舵室と船橋甲板、上級乗組員の個室がある。

 私が向かっている船長室は一等船室の上、操舵室と同じ船橋甲板にあり、行き掛けであれば、先に窪坂の船室を立ち寄ることにした。

「さあ、こちらにお掛けください」

 私を船室に招き入れた窪坂は、丸窓を背にした椅子に腰を下ろすと、向かい側に来客用の椅子を引き出して勧める。

「昨晩は、よく眠れましたか?」

 相田から薬を服用して就寝したと聞いていれば、体調を気遣って声を掛けた。

「神経質な私が騒ぎを聞きつけていたら、眠れなかったでしょう。こんな大事になっているとは、目が覚めるまで気付きませんでした」

 窪坂の船室を見渡したところ、備付けられたベッド、執務机とコート掛けが、黒羽少佐の船室と逆に配置されていた。

 黒羽少佐の船室は左舷側にあり、奥山を捜索するために照らされた海や、作業甲板や展望通路から救助者の名前を叫ぶ乗組員の姿が夜通し見えていたが、反対側にある窪坂の船室からは見えなかったのだろう。

「昨晩の騒動は、今朝まで気付かなかったのですか」

「はい。私は部屋の鍵を閉めて寝てしまったので、身投げがあったと聞かされたのは今朝です」

 窪坂は船員が点呼したとき、鍵を預けていた相田が所在を確認したのだろうと言った。

 相田は就寝中の支援者を起こすのが忍びないと言っていたので、窪坂が昨晩の騒動を知らなかったしても不自然な点がない。

「昨晩の騒動は二十時過ぎ、奥山という貿易商が左舷通路から転落したのですが、窪坂さんが少し前まで船内食堂にいたとの証言がありました」

「ええ、その頃なら食堂にいましたが、佐世保までの船内泊では、時間外の食事を提供しないと聞いて部屋に戻りました。旅客船と言っても、満洲と佐世保の往路は一泊なので仕方ありませんが、食道楽としては冷や飯が寂しいものです」

「窪坂さんが船内食堂にいたとき、どんな者が出入りしていたのか覚えていますか」

「身投げではないのですか?」

「まだ解らないから調べているのです」

「ううん……。そうだ」

 窪坂は口元に拳を当てて小さく唸った後、何かを思い出して小さく首を横に振った。

 その仕草は、何かを打ち消したように見える。

「どうかしましたか?」

「あ、いや……。じつは思い出したことがあるのですが、参考にならないと思ったのです」

「聞かせてもらえますか」

「若い女性がいたのですが、後をつけて展望デッキに出ていく男がいました。若い女性を付け回す怪しい男だと、少し気になりました。ただ昨晩の騒動で身投げしたのが、男性だと聞いたので参考にならないと思いました」

「なぜ、そう思われたのですか」

「か弱い女性が、男性を突き落とせるとは思いません。女性が殺されたのなら、その限りではありませんが」

 窪坂が見た女性を絢子だとするなら、梶原は彼女を尾行していたのだろうか。

 相田は、現場となった左舷の展望通路から戻った者がいても、出ていく者がいなかったと証言しているが、真後ろになる右舷の出入り口が死角になっている。

 つまり窪坂の証言を信じるならば、梶原は中座したとき、右舷から展望通路を出入りしていた。

 しかし酒瓶は、どこから持ち込んだ。

 梶原は中座して船内食堂に戻ってきたとき、酒瓶を持っていたのだから、展望通路で酒を入手したことになる。

 だから問題は、どこではなく、誰から入手したのか、そちらの方が重要だろう。

「酒は、何かしらの報酬だろうか」

「報酬?」

 窪坂は独り言る私に聞き返したものの、彼に聞かせる話ではないので答えなかった。

 そして窪坂に改めて聞けば、船内食堂には、語学留学を支援している相田、夜風に当たりにきた絢子と、それを尾行するような不審な行動を見せた梶原がいたと言う。

 また窪坂が見ていた船内食堂のお品書きを覗き込んできた男いたと言うので、これが九重中尉だと思われた。

「他に聞きたいことは?」

「窪坂さんを見掛けた女性は、船内食堂にいた三人が離れて座っていたと言うのですが、相田さんと同席していなかったのは、どうしてですか」

「相田君はあのとき、テーブルに新聞を広げていたから話し掛けるのを遠慮した」

「なるほど。ご協力、ありがとうございました」

 私が立ち上がって敬礼すると、窪坂は手を差出したので握り返して船室を出た。

 軍人に握手で返礼とは相田もそうだが、絢子が儀礼を弁えた紳士だと評した窪坂にも、やはり西洋かぶれの風情があるようだ。

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