31 終劇
「君は、石原副参謀長のクーデター計画を知ってどう思った?」
弓田は足を組むと、膝の上に革手袋の手を置いた。
彼は、私を値踏みしているのだろう。
相田を名乗っていた彼は下船のとき、秘密箱の中身を気にかけていた様子だったが、窪坂が陸軍省に引渡そうとした情報を心得ていた。
クーデター計画とは、秘密箱から取り出した石原麾下の将校らによる関東軍の造反計画と名簿であり、彼らが傀儡国家である満州国側に立って独立国家建設を後押しするのであれば、この情報を以て失脚を免れない。
そして『Y』が仕組んだ偽計であればこそ、石原将軍を貶めたい統制派が書いた絵空事だとも言えるが、全くの出鱈目ではないのだろう。
「窪坂が命懸けで持ち出した情報であれば、よもや荒唐無稽な計画ではない。彼が機密情報と確信した訳合があるとすれば、石原閣下の立案を誇張したものと推察される。『Y』とやらは、閣下の空論に都合のよい名簿を加筆したのではないか」
内通者の窪坂に名簿が真実と思い込ませたのであれば、『Y』と石原将軍は親しい関係を構築しており、将軍が口にした些細なことを可決したかのように振る舞って、恰も賛同者がいるように見せ掛けた。
それに窪坂は『Y』から聞き出したわけではなく、隠していた情報だったと前置きしていたのだから、そこにも巧妙な手口が伺える。
人は、口伝より隠された秘密に価値を見いだすものだ。
まして秘密を嗅ぎ回る者であれば、陥りやすい思考でもある。
「では私が石原副参謀長の空論に名簿を書き加えた意図は、理解できているのだろうね」
「陸軍省情報部が君の情報を欲した訳合は、帝都不祥事件を扇動した君への意趣返しだろう。しかし君の欺瞞工作の本質は、統制派の牛耳る陸軍省の疑心暗鬼を利用して、関東軍内に対立関係を作り出すことだ。お前は、そのために石原副参謀長の腹心となり得る満州派の将校らを名簿に書き加えた」
「君は、そう思うのか?」
弓田は、拍子抜けの声で聞き返した。
陸軍省の大半が銃後の守りに徹する役方であれば、好戦的な武官に人事権を握られている現状に不満もある。
しかも曲がりなりにも帝都不祥事件を扇動して軍部の政権掌握を後押しした立役者が、陸軍省の役方に阿ることに矛盾があった。
「君が、私の所属を統制派の一派と疑った理由は、関東軍参謀長の東条英機と対峙している石原副参謀長の失脚を狙っているからだ。私の目的は、そもそも陸軍省との癒着ではなかったはずだ」
「しかし兵務局に二重スパイがいるのであれば、陸軍省との互恵的な関係だって必要だ」
「君は義兄の不名誉を口にしたくないので、見えているのに見えないふりをしているね。君は気付いているからこそ、殺人犯の身柄を船上で拘束しなかったし、こうして私が接触するのを待っていた」
弓田に問い詰められた私は、宗旨替えするしかなさそうだ。
あの事件では、黒羽少佐に伝えていない事実がある。
名簿には、黒羽武も名を連ねていた。
ゆえに私は今以て、石原将軍の密使で陸軍省を訪ねる少佐に任務を問わなかったし、彼に弓田の戲言を報告していない。
そして少佐は今に至っても、私が入手した情報に沈黙しているのだから、石原将軍の醜聞に自らが巻き込まれていることを知っていた。
「名簿に書かれた人物は、クーデター計画を語る石原閣下の会合に参列しながら賛同しなかった者だ。お前の二重スパイは、そうと知ったから『不味いことになった』と、少佐に船内取引の情報漏洩したのだろう」
九重が奇しくも弓田を紹介したのが、恩師ではなく高幡だと疑ったのだから、彼らは帝都不祥事件より以前に繋がりがあった。
石原将軍は当時、皇道派の眞崎甚三郎軍事参議官に関東軍から陸軍省に呼び戻されたが、帝都不祥事件では、陸軍参謀本部の大佐として事態を収めて手柄を立てた。
帝都不祥事件では、非皇道派が統制派とされていたので、対中満政策を巡り満洲派と呼ばれる石原将軍も統制派の将校であれば、高幡が弓田を裏から操って皇道派を一掃したとも考えられる。
九重が犬養毅大臣を殺害した海軍青年将校の反乱事件にも関わっていれば、帝都不祥事件の導火線も彼の役回りだったかもしれない。
弓田は本来、九重のお目付け役として同行していたが、不甲斐なさに配役を交代したのだろう。
そうと考えれば、石原将軍、高幡、弓田、そして黒羽少佐は、帝都不祥事件まで非皇道派の統制派として活動していれば、今は満州独立計画を画策している満州派の一派ということになる。
そして窮地に立たされた黒羽少佐が事を荒立てないのだから、弓田との決定的な対立を望んでいなければ、彼らが石原将軍に師事しているのが明らかだ。
「君の誤解が解けたところで、私が石原副参謀長を表舞台から降ろす真意について教えようか」
「いいや。今回の事件が組織内の対立ならば、お前は、関東軍の反乱を否とする関東軍将校もろとも、石原閣下を現場から遠ざけようとした」
石原将軍だけでなく、関東軍の反乱計画に反対する勢力を事前に遠ざけることで、組織にはクーデターの実行部隊だけが残る。
黒羽少佐に、帝都不祥事件を評して少数の犠牲で大勢が救われたと言わしめる弓田の思惑は、尖鋭分子による満州独立計画の実行だ。
少佐が大勢であっても不名誉とは思わないが、弓田は腰抜けだと煽っているつもりなのだろう。
「黒羽少佐は、なぜ私の身柄を拘束させなかった?」
「対中和平交渉であるトラウトマン工作が失敗に終われば、中国の国権回復運動と帝国の権益主義による武力衝突を回避できず、満州派の主張する対中満政策も潰える。中華民国における事変となれば、満州事変のような一撃論が通用する事態とならない。つまり降板劇は、石原閣下が自ら望んでいる」
私は『お前が仕向けたとしても』と、一呼吸おいて付け加える。
石原将軍の不拡大方針は、関東軍の兵力を国際的に中国の一部とされる満州国防衛のみとしており、満州国を中国の国権回復運動と日本帝国の権益主義の双方から脱却させる意味があった。
然るに中央政府の対中和平交渉が決裂して、更に国家総動員法が可決されようものならば、日華事変は泥沼となり、それを好機に捉えた赤軍もフルンボイル平原の国境線を越える。
「君の推論が、そこに辿り着いたのならば、日英同盟が破棄された海戦においても、山本五十六海軍中将が率いる海軍艦隊が欧米列強を相手に戦えば、日本帝国が崩壊すると見通せるだろうね」
開戦前から敗戦を言ってのけるとは、日本帝国の崩壊を口にする弓田は、よもや関東軍に紛れ込んだコミンテルンの手先ではあるまいか。
「お前の口ぶりは、日本帝国の崩壊を望んでいるようだ」
「いやいや、それは違う」
「このような時節にあっては、満州事変を指揮した石原閣下が表舞台で活躍すべきではないか。閣下は、天才軍師との呼び声が高い」
「君の資質は、黒羽家に穢されたようだ」
黒羽少佐も私と同じ意見だったから、弓田の計略を妨害したのだろう。
石原将軍が弓田の唆しで降板を決めたとしても、満州事変で二十万の兵力差を覆して勝利した彼がいなければ、泥沼状態に陥る日華事変を回避するのが不可能だ。
「君も同じ資質を持ち合わせていれば、好戦的な連中が行き着く果てが氷の地獄だと知っている」
「氷の地獄は、ダンテの『神曲』における冥府の最下層だな。お前は戦後、為政者たちが地獄に堕ちると言うのか」
「石原副参謀長も我々と同じ気質であれば、戦後の復興に尽力させるべき人材だ。私は、彼を敗軍の将にさせない」
弓田の話し方は、石原将軍に師事しているなら釈然としない。
「戦後を見据えての行動は、お前が主導しているのか?」
弓田は『まさか』と、些か驚いた表情で答えた。
「君は失念している様子だが、我々の境遇は然程遠くない。君が母国の趨勢を憂いていれば、一先ず関東軍の兵力を利用しない手はない。しかし満州国独立による対中政策が無理筋であるのならば、我々にとって石原副参謀長を温存することが試金石となる」
「なるほど、そういうことか」
出自が明らかではない私が日本臣民である訳合は、黒羽家に拾われた日本語を話す孤児で、家督である嫡男に従って日本帝国陸軍に所属しているに過ぎない。
だから私の臣民としての存在証明は、黒羽家と国家に忠実であることが唯一無二である。
弓田が境遇を引き合いにして唖然とするのであれば、彼とって忠義を尽くすべきが国家であり、石原将軍という個人ではない。
彼は石原将軍を利用して裏で糸を引いていれば、私が黒羽家を利用して暗躍しているなんて妄想したのだろうが、それは買い被りかも甚だしい。
「君は、日本帝国のためであれば、黒羽の嫡子をゴルゴタの丘で磔にできる男だと思ったよ」
「できるものか」
「残念だ」
弓田は立ち上がると、腰の軍刀に手を置いて私を見下ろした。
よもや合戦とはならないが用心に越したことがなく、私は懐の銃を手に取る。
彼は『我々は敵じゃない』と、手を下ろして肩を竦めた。
「お前を葬っても弓田宗介というペテン師は、日本帝国からいなくならない。弓田宗介は、何者が付けた総体への秘匿名だ。弓田は、国家に忠誠を誓えば、仲間を裏切ることも辞さない非情な総体だ」
「君の名前も、黒羽家に付けられた偽名に過ぎない。君の資質は本来、その呪縛がなければ私と同質だと思うがね。私が石原副参謀長を関東軍から遠ざける理由は、君が私を見逃しているのと然程変わらない」
黒羽少佐が私を弓田と疑う訳合は、そこにあるのだろうか。
しかし内通者の窪坂は、なぜ彼を『Y』なんて呼称したのか。
彼を評するのであれば、『J』が然るべき呼び名であった。
弓田は日華事変の敗戦を見込んでいれば、対ソ一撃論を否定した石原将軍とともに、満州国で中華民国の国権回復運動を回避すべく行動していた。
しかし統制派が幅を利かせる中央政府の権益主義は、満州国ばかりか大陸全土の戦線拡大に向かっている。
ゆえに彼は自らが裏切り、石原将軍に師事している将校らを断罪することで、大勢を無駄な戦火から逃がそうと考えた。
国家騒乱を首謀する怪人と目される彼は、目的のために手段を選ばない人道を軽視する男である。
そう思ったところで、そう思わせたい意図もあろう。
「私は、お前の鳩になるつもりがない」
「君が黙して語らずとも、世界大戦は避けられない。英米の経済封鎖が続けば、好戦的な為政者が無謀な賭けにでる。私が石原副参謀長を傑出した人物と評していると伝われば、君が行く末を見守るのも一興だろう」
弓田は、そう言って私の肩に手を置いた。
「君は、そのとき本性を現す」
「そう思惑どおりにならないさ」
「君は、自分の出自に興味をもった方が良い」
「うん?」
「君が日本帝国に拾われたのは、満蒙開拓以前の戦場だったのだろう」
弓田は、顔を耳元に寄せて呟いた。
彼は夏外套を翻して汽車の通路に出ると、後ろを振り向かずに立ち去る。
それから汽車が鉄橋を渡る音で我に返るまでは、じつに寸刻ほど放心していた。
自分を取り戻した私は、弓田が言い残した言葉を反芻した。
私の臣民としての存在証明は、日本語を話す孤児であり、日本帝国陸軍に所蔵する軍人だからだ。
弓田は別れ際、その一つを奪おうと企んだのか。
出自が揺らげば、私も弓田となり得るのだろうか。
もっともペテン師の戲言に翻弄される筋合いがなければ、私の存在証明を揺るがさんとする戲言と、気にせず捨て置けば良い。
弓田なる怪人は、戲言を以て人身を誑かす稀代の詐欺師だ。
そうなると、一つの疑問が頭を擡げる。
「弓田は、架空の人物だろうか」
膝を突き合わせた白塗りの男は、口調と声色こそ違えど錦州港から旅客船に乗船した相田友助に間違いない。
旅客船での機転を考えれば、彼こそが弓田宗介を疑うに値する気がした。
九重の主張を否定したのに申し訳ないが、私の出会った弓田こそが本人ではなかろうか。
◇◆◇
昭和十三年燕飛ぶ頃。
石原莞爾副参謀長は、大陸での徹底抗戦を主張する東条英機参謀長との折り合いがつかず、関東軍を離れて予備役に左遷された。
余談ではあるが、本件に弓田宗介が関わっていた情報はない。
主人公が活躍する作品は、第2部以降も既出である巌頭の鵜まで続きますが、ここで一旦完結となります。更新を気長に待って頂ける方は、お気に入り登録お願いします!




