遥かな日々へ
時系列がばらばらですみません。
陽海くんが誕生したときのお話です。
昭和二十五年、夏。この日は記録的な猛暑だった。
夏休みの真っ最中である子ども達は、この暑さもお構いなしに朝から元気よく外に飛び出していった。何でも、近くの小川で友達同士集まって泳ぐ約束をしているのだとか。私と言えば例の如く暑さにうんざりしていたのだけれど。
私はよくよく若櫻に弟と妹の面倒を見るように言い聞かせ、三人それぞれに麦わら帽子をかぶせて送り出した。
「行ってきまぁす!」
「かあさま気をつけてねー!!」
そう言うや否や、三人で手をつないで駈け出して行く。「気をつけてね」は、こちらの科白だが敢えて心の内に留めておいた。この夏の日差しのせいで、子ども達は全員真っ黒に日焼けしている。くろすけの三人が走って角を曲がるのを見て、私は玄関へと戻った。蝉の大合唱を背に、ひんやりとした玄関間はどこか静まり返っている。賑やかな子ども達が遊びに行った後は、大体そう感じる。
私は額の汗を手の甲で拭い、ゆっくりとした所作で家に上がった。これだけでも一苦労だ――
とりわけ、大きなお腹を抱えてそうするのは。
つい先月、臨月を迎えた。産婆さんの見立てでは、もう一週間もすれば生まれる予定だ。私たちの家族となる四人目の子どもは、近頃頻繁に動き回って夜中でも目を覚ますことが多い。特に、兄弟達に声をかけられると元気になる。七年前に双子を産んだ身としてはまだ楽な方だが、この何とも言えない重みには一生慣れることはないのだろう。
そんな幸福さと、あまりの暑さに辟易する思いを抱えながら、居間へと廊下を辿った。あまり涼しいとは言えない風が一陣吹き抜けて、縁側に吊るした風鈴を揺らしていった。
開け放った障子から中を覗くと、中では雫槻さん――私の夫が今日の新聞を広げているところだ。
彼はこの暑いのに汗一つかいていない。私の足元で床板がきしむ音がすると、ぱっとそれから目を上げる。
「雫槻さん」
「子ども達は、もう遊びに?」
「ええ。川で泳ぐんですって」
「…午後からはきちんと宿題をするように言わなくてはなりませんね」
ふっと溜息をついて、雫槻さんは「特に雪成に」と付け加えた。毎日遊びに行くものだから、夏休みの宿題が進んでいないのは主に雪成だ。双子であるといっても、雪花は姉の若櫻と一緒になってよく絵日記をつけているのだが。
筆不精はきっと私に似たのねと、独りでに笑みが漏れた。中に入って卓袱台のところで腰を下ろし、朝餉の後片付けを再会した。ついでに空になっている雫槻さんの湯呑に冷茶を注いだ。
目で礼を言う雫月さんに笑みを返し、私は盆を持って立ちあがった。すると、素早く雫槻さんが声を掛ける。
「気をつけて下さいよ。敷居に躓いたりしないで下さいね?」
これも毎日掛けられるようになった言葉だ。まるで習慣化した言葉だが、毎日雫槻さんは真剣に言うものだから、嫌でも私は神経過敏に気をつけるしかない。実際大きいお腹が邪魔をして足元はまるで見えないから、一種の恐怖があることも確かなんだけれども。
殊更ゆっくりと移動し、水を張った盥に食器を浸してから卓袱台を拭くために布巾を持って居間に戻る。ただ、子ども達に食事の所作は厳しく躾けてあるので、食べ散らかしたりはしていない。
私がきゅっと卓を拭いているのを、雫槻さんはじっと眺めていた。その視線を感じながらも、敢えて見ぬふりを貫き通した。
そうやって、不思議な心地を味わうことが私は好きだった。そして、その後に雫槻さんがすることも。
雫槻さんは私が卓を拭き終わる頃合で新聞を折り畳み、大きなお腹をした私をそっと引き寄せた。この暑いのに、何故か雫槻さんの懐はひんやりとしていて気持ちいい。
ようやく一心地つけた感じがして、私は息を漏らした。項に浮いた汗を、雫槻さんは着流しの袖でそっと拭ってくれる。
狭い居間に、蝉と風鈴と路端の喧騒と、互いの呼吸の音だけが響き渡る。そこに、雫槻さんの静かな声が加わった。
「…珍しいですね、洋服を着るのは」
それは、この白いワンピースを指すのだろう。最近になって、思いきって一着買ってみたものだ。すとんとした美しい形に惹かれて、お金を出してでも着てみたいと思った。そうして着てみると、妊婦にとっては非常に楽だということに気付いた。
着物を着て帯を締め、腹を圧迫させることもない。風通しがよくて、遥かに着物よりも涼しい。そして、何より動きやすい。
戦争に負けて米国のGHQが入って来てからというもの、一気に日本も洋風化してきたが、今はまだ和装の人も多くいる。目の前の私の夫など、外出用の背広が唯一の洋服で、あとは着流しばかりだ。と言っても、私は雫槻さんの着流し姿が大好きなのだけれど。
「…若櫻や雪成と雪花の時は着付けすらも大変でしたし。楽になって私は嬉しいんですけど…」
似合いませんか?言外にそう問うと、雫槻さんはうっすら笑って首を横に振った。すると、お腹からもぽこんと反応が返ってきた。それを感じたのか、目を見開いて、雫槻さんは笑みを深くした。
「ほら、お子さんも言っていますよ。『良く似合っている』と」
「あら、たいへん親孝行な子だこと」
私がそう言うと、雫槻さんはくすくすと笑いながら背中とお腹をさすってくれた。重すぎて筋肉が凝っていることもお見通しのようだ。雫槻さんが戦地から帰って来てから、こうしてよく触れ合うようになった。さすがに子ども達がいる前ではできないけれど、夜寝る前や朝起きてすぐ、雫槻さんは私の頬や首筋やお腹に触れてくれる。
それは、暑い日でも寒い日でも、春でも秋でも。そうやって触れて、生きていることを確かめる。
実際、四人目を妊娠していることに気付いたのも、こうやって触れている時の雫槻さんの何気ない一言だった。
「狭衣さん、何となくですけど、もう一人家族が増えそうな気がするんですが」と。
何を馬鹿な、そんなことが分かるのかと最初は私も思ったけれど、お医者様に診てもらうと、本当に妊娠していた。
その時の雫槻さんの顔ときたら。そら見ろと、その顔はとても満足そうだった。予感が当たったことと、子どもができた嬉しさに。
それが、去年の秋のことだ。もうすぐ、この家にももう一人家族が出来る。三人の子ども達は、そわそわと落ち着きなく早く生まれて来いと私のお腹に念じている。
***
まだもう少し先だからとゆったり構えていたからか、それとも、子どもたちのその想いが通じたのか。変調はなんとその日の内に訪れた。
それは、お昼時になって子ども達が外から帰って来たその時だった。
「父さま、母さまただいまぁー」
「ただいまかえりましたぁー」
玄関で元気な子ども達の声がする。麦わら帽子も服も何もかもびしょ濡れにして帰って来るだろうと、私は大きな手拭いを用意していた。はいはいと部屋の奥から声をかけ、手拭いを取って玄関へと急いだ。
予想通りの濡れ具合の子ども達に苦笑を洩らして、布を広げた。体を拭いてやりながら言うつもりだった。
「午後からはきちんと宿題をしてもらいますからね。父さまのいいつけですから」と。
しかし、その直前になって、下腹部に鈍痛が走った。あっと声を上げて、力なく床に座り込む。
そして、じんわりと下着が濡れるのを感じた。すぐに気づく、破水だ。
覚えのある感覚だったが、陣痛に似たものも感じなかったのに。何か悪いことが起こったのかと一瞬不安になったが、やるべきことは分かっていた。逆に心底驚いているのはびしょ濡れの子ども達の方だ。
「母さま!」
「どうしたの?!」
「どっか痛いの?!」
口々にそう言って、草履を脱ぎすてて家に上がって来る。ああもう濡れたままで、と思ったが急な痛みにそれを言うことは叶わない。お腹を抱え込む私に纏わりついてきたが、私が「…父さまに、早く」とそれだけ言うと、若櫻は瞬時に反応してくれた。
「どうしたんです」
しかし、呼びに行く間もなく騒ぎを聞きつけて雫槻さんは書斎から出てきた。そして、私の様子を見るや否や飛んできて私を抱えあげ、泣き顔の子ども達に向かって言い放つ。
「若櫻!産婆さんの家は母さまと言って知ってるだろう?!走って呼んできなさい!」
「はい!!」
「雪成と雪花は、居間に母さまを寝かすための蒲団を敷いてきなさい!」
「…は、はい!」
若櫻は一目散に玄関から出て行った。それに倣って雪成と雪花も居間に走った。私はまだ大丈夫だという意味を込めて、雫槻さんの腕を優しく叩いた。しかし、見降ろしてくる雫槻さんの顔は子ども達に指示した時とは打って変わった不安そうだ。その表情を見てはた、と気づく。
この顔は―――そう、若櫻が生まれてくる時と同じ。
あの時も、今と同じような顔をしていた。
そして、ああと気づく。雫槻さんは、子が生まれてくるところを十年ぶりに見るのだ。双子の時は、雫槻さんは戦地にいたから。女は産むごとに対処も慣れてくるけれど、男の人はそうはいかない。
私は汗を浮かべたままの顔で微笑んだ。
「…大丈夫です…まだ、感覚も遠いから…」
だから、そんな顔しないでと吐息とともに呟いた。
いくら私が平気だと言っても、雫槻さんは承服しかねるのかもしれない。
私の前髪をかき上げて、そこに唇を落としてくれた。
***
時間にすれば、およそ五時間。四人目の子どもは結構すんなりとお腹から出て来てくれた。痛みは以前と同じように鋭く私を襲ったが、出てくるこの子も苦しいのだ。
そう思って、頑張った。私の出す声で子ども達を怯えさせまいと、雫槻さんには離れた部屋で待ってもらうようにした。
が、赤ん坊の元気な産声が聞こえると同時に複数のばたばたした足音が廊下の端から聞こえてきた。
「…なんだね、あんたの家はいつ来ても騒がしいんだから」
産婆さんの呆れたような声に、私は疲れ切った笑みを浮かべた。そして、そっと手渡された小さな赤ん坊を抱く。
「よう頑張ったね。元気な男の子だ」
すぽんと生まれてきたのは、男の子。真っ赤な顔をして、精一杯顔をしかめて泣いて、息をしている。上の子たちと同じように、とても元気に生まれて来てくれた。少し前までは死産も流産も多かったから、こうして皆が元気に生まれて、育ってくれて、私たちは幸せなんだろう。
お湯で体を洗われ、白い産着を着せたところで、障子戸の前には落ち着きない四人の影が出来ていた。
「もう入って大丈夫だよ」
産婆さんの一声で、待ってましたとばかりに障子戸が開かれた。そして、びしょ濡れの服から着替えた子ども達と雫槻さんが顔を覗かせる。一番に部屋の中に入って来たのは、双子たちだ。
「かあさま!!」
「赤ちゃんは?!」
ぴょんぴょんとび跳ねながらそう言うものだから、雫槻さんに「静かにしなさい」と怒られる。その雫槻さんも、素早く部屋に入って来て私の枕辺に腰を下ろした。その横に若櫻が腰を下ろし、向いに雪成と雪花が座った。
皆の目は一様に、生まれたばかりの赤ん坊に注がれている。初めての光景に一番興奮しているのは双子だ。若櫻は恐る恐る覗きこんで、一言「かわいい…」と呟いた。私は長女の嬉しそうな顔に微笑んで、そして雫槻さんに赤ん坊を差し出した。
吃驚して、また泣きそうになる赤ん坊に、それでも雫槻さんは手慣れたように抱きとった。若櫻の時と同じように、泣く子をあやして揺すっている。
そして、私を見やって、口から出てきたのはあの言葉。
「…有難うございます、狭衣さん。さすが…僕の妻です」
子が生まれる度に、そう言ってくれた。私はその言葉だけで、出産の疲れも吹き飛んで、柔らかい幸福に包まれる。言葉とともに、優しくこめかみに唇をつけてくれると、余計に。
雫槻さんが赤ん坊を抱くと、引かれるように子ども達はその周りに集まってじっと生まれたばかりの弟に見入った。
「男の子なの、とうさま」
「そうだよ。雪成、弟ができたな」
「とうさま、せつにも抱っこさせて!」
「雪花、赤ちゃんは結構重たいから、若櫻と一緒に抱っこしなさい」
若櫻は、「ゆきとせつの時で、もう慣れてるもの」と自慢げに言って、雫槻さんの腕から、赤ん坊を受け取った。そこに、すかさず雪成と雪花も付いてくる。三人で支えるようにして赤ん坊を抱っこすると、嬉しそうに手足をばたばたさせている。その様子を見て、三人は目に入れても痛くないと言うように、目尻を下げている。
目を細めて、その様子を見ていると、雫槻さんは改まった表情をして私と赤ん坊を交互に見やった。そして、赤ん坊を私に渡すように言い、三人を呼び寄せた。
「若櫻、雪成、雪花」
「はい、父さま」
「…狭衣さん。実は、この子の名前を、三人で考えてくれたそうなんです」
「え…」
「それを、この子への贈り物にしようと。よろしいですか?」
私は大きな温もりを抱いて、子ども達を見つめた。三人とも、期待に目を輝かせ私の反応を待っている。私は笑顔を返したかったけれど、何だか感動してしまって、なかなか上手く笑うことが出来なかった。
本当に、この子たちにはいつも助けられる。生まれて来てくれたことに付け加えて、雫槻さんがいなかった間も、いつでも。
「…ありがとう…皆で、考えてくれたのね。教えてもらえる?」
私が涙交じりにそう言うと、若櫻が傍に置いていた半紙を取り出して私に渡した。
「開いてみて、母さま」
赤ん坊の首を支えて片手で抱き、丸めてあった半紙をゆっくりと開いて行った。わくわくした顔の子ども達が、一様に私を覗きこんでくる。ぴんと半紙を張って、私は今度こそきちんとした笑みを零して深く息をついた。
『陽海』
「夏って言えば、何があるだろうって三人で考えてたの。で、ゆきが太陽、せつと私が海じゃないのかってなったの」
「それなら、二つの意見を合わせたらどうかと僕が言ったんです。太陽の“陽”と“海”で『ひろみ』と」
習いたての習字の字だ。おそらく、雪成と雪花の。
私は赤ん坊を雫槻さんに預け、子ども達を呼んだ。傍に来た三人を、いっぺんに抱きしめる。
いつの間にか、こんなに大きくなった。疲れ切った身体でも、抱きしめる力は残っている。
いつかの遠い日に、こうして三人を抱きしめたことがあった。あの時は、窶れてやせ細った腕で、不甲斐ない自分を悔いるかのように、大泣きする子たちを抱きしめていた。けれど、今は違う。
私の腕に包まれると途端に、三人とも照れ出して私の腕の中で身を捩る。くすくすとした笑い声が、温かく胸に響く。
「…皆、ありがとう。とてもいい名前。赤ちゃんもきっとよろこんでくれるわ」
「本当?」
「あの字、ぼくとせつが書いたんだよ!」
「ゆきがね、“陽”でせつが“海”って」
「二人とも上手になったわね。陽海は幸せね」
いつも笑顔でいてくれる。子どもを産んで良かったと思う瞬間は、いつでもどこにでも存在する。そして、私と一緒に居てくれる旦那さまを見上げる。雫槻さんは陽海を抱いて、五人を大きな腕で抱きしめた。
子ども達は「暑い」やら、「苦しい」やら言っているけど、その声はとてもはしゃいでいて、嬉しそうだ。
私は雫槻さんと顔を見合せて微笑んだ。陽海の小さな頭を皆で撫でて、子ども達は髪に口づけまで送っている。この小さな陽海は、きっと皆に愛されて、幸せに成長してくれるだろう。
遥か遠く、日々が過ぎても。
子ども達に、子どもが出来て、私と雫槻さんが年老いても。
家族でいることの幸せを知ってもらいたかった。
私と雫槻さんは子どもたちへ愛情を注ぐけれど、この子たちはきっと、自らの力で幸せを掴み取っていく。
その力を付けていくまでの時間は、思うより、きっとあっという間に過ぎていくのだろう。
***
「――それで?ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんは?」
目の前のテーブルに肘をついている孫を見て、彼女の祖父は微笑んだ。早いもので、この子も明日この家を出てお嫁に行ってしまう。
感慨深い思いを抱えながら、「そうだね」と彼――陽海は言う。
「『君と出会えて、君と一緒に過ごせて、人生最高に楽しかった。また次の世でも夫婦になりましょう』
って。父さんは最期にそう言って亡くなったかな」
「へえ。ひいおばあちゃんは何て?」
「『私が死なないうちにあの世で浮気したら許しませんからね』って。」
「…泣いてた?」
「いいや?すぐ自分も逝くことが分かってたのかな。とても晴れやかな顔をしてたよ」
「それから、一ヶ月後に?」
「ああ。本当に父さんを追いかけて行っちゃったね。朝起こしに行った時にはもう」
そう言うと、孫娘は「へー。すごい夫婦愛だねぇ」と感心するように頷いた。陽海は目じりに皺を刻みながら、微笑んだ。
「本当に。最期まで仲が良くて。本当に生まれ変わっても夫婦になりそうだったかな」
あの日々を思い出すことは、もう容易ではなくなってしまった。けれど、あの頃の幸福はいつでも胸の中に蘇る。
優しかった父。その父に添うようにいつも一緒にいた母。
この子も、そういう夫婦になってくれたらいいと、陽海は自分の父と母のことを話した。
明日、この家を離れて嫁ぐ孫に。生きる幸せと、共にいる幸せを。
「さあ、明日は早いだろう。もう寝なさい」
陽海が促すと、孫娘は椅子から立ち上がった。
「…ね、おじいちゃん」
「うん?」
「私、幸せになるよ」
「そうだね。二人で、幸せになりなさい」
毎日が笑顔で溢れていた、あの夫婦のように。
「うん。おやすみなさい、おじいちゃん」
「おやすみ。よい夢を」
静かに、扉は閉められた。
了




