──覚悟
ルードルフとの子を望むも、なかなか授かることが出来ず、もしかして異質な私は子を望めないのだろうかと思い悩んでいたら、ロッテが孤児院に新しいお菓子のレシピを教えに行くのと入れ替わるように、エルさんが一人訪ねて来て相談に乗ってくれた。
それは、たまたま家に誰もいない、なんてことのない昼下がりだった。
「もしかしたらですけれど、子は親の準備が整わないと来てくれないのかも知れません。私も最初はそんなこと、と思ったものですが、三人目にしてようやく男の子を授かったときに、そういう事なのかも知れないと思い直しましたわ」
エルさんが自嘲気味に笑った。何故そんな表情になるのかが分からず、黙って次の言葉を待つと、静かに、本当に静かに言葉を零した。
「おそらく私は、子を二人産むことが、私自身の限界だったのだと思います。三人目の子を宿すには、フェルの力が馴染むまでの時間が必要だったのではないですか?」
いつもより低い音で紡がれたその言葉に、思わずエルさんを凝視してしまう。
「今になってようやく分かりました。聞いて頂けますか? リーエには偽りのない私を知って欲しいのです」
エルさんから覚悟のようなものを感じる。戸惑いながらもゆっくり頷けば、少しだけほっとしたように微笑んで、ひどくゆっくりと、時が止まったかのような静けさの中、言葉を一粒一粒零すように、エルさんは話し始めた。
「私は、この国に来て驚きました。
皆魔力に頼らず己の力で身を以て学ぶことに、そうね、驚くと言うより衝撃を受けました。
私の祖国では、全て魔力で補っていました。言葉も、読み書きも、算術も、歴史も、礼儀作法も、全て魔法を掛けるだけで済ませていました。
確か、リーエも言葉を魔力で補っていますよね。なにか……違和感のようなものはありませんか?」
「あります。ほんの僅かですが、重なり合わない感じがします。時には一部しか重なり合っていないような、上手く伝わらずもどかしいこともあります」
「そうなのです。あの国ではあらゆる全てが、少しずつ擦れていたのだと思います」
確かに、私から見ても第五王女や第三王子は少しどころか、かなりズレた人だったと思う。彼らが王族でなければ気付かなかったのかも知れないが、王族であるからこそ、その違和感を強く感じた。
「それだけではありません。私自身も己の力で学ぼうとしたのですが、全く身につかなかったのです」
「全くですか? ほんの少しも?」
「ええ、全く。自分でも驚きましたし、正直打ちのめされました。
ですが、フェルとお義母様やお義父様が、気にするな、と。
覚えたければゆっくり覚えればいい、学びたければゆっくり学べばいい、いずれは身につくだろうと仰って下さって……」
当時を思い出しているのか、エルさんは少し遠くを見るように目を細めた後、静かに続けた。
「本当にゆっくりですが、少しずつ、少しずつ、まずはこの国の言葉を覚えることから始めました。最初の数年はほとんど身につかず、何度も挫けそうになりましたが、それでもひとつの言葉を覚えるごとに、フェルが殊の外喜んでくれたので、挫けることなく続けることが出来ました。
立ち振る舞いやマナーも身につかず、何度も何度もお義母様に教えて頂きながら、なんとか身につけることが出来ました。知識として覚えているのと、身につき体が覚えているのとでは、こんなにも違うのかと、やはり驚いたものです。
三人目の子供を身ごもる頃には、ようやく違和感なくこの国の言葉を話せるようになり、立ち振る舞いもなんとか様になりました。今思えば、フェルの力が馴染んだからこそ、身につくようにも三人目の子を授かるようにもなったのではないかと思います」
エルさんは、もしかしたら分かっているのかもしれない。
「ねえ、リーエ。私には彼の人の呪詛が残っているのでしょう? だからこそ人として生きるための何もかもが身につかないのでしょう?」
やっぱり。なんて聡い人なんだろう。
「……エルさんは直接血のつながりがないので、ほんの僅かではありますが、呪詛が消えずに残っています。既にエルさんに根付いてしまっているので、私にもフェンリルにもどうにも出来ません。ですから、加護によってか、名を縛ることで相殺しようと考えていました」
「リーエ。それには及びません。これは私が負うべきものです」
「でもエルさん! それだと……」
「分かっています。人の半分も生きられないのでしょう?」
そう言って、エルさんは少しだけ目元を緩めた。何故そんなに穏やかに話せるのか。
なんて残酷なんだろう。何故この人はこんなにも聡いのだろう。本当は何も知らせずこっそり加護を与えるか、偶然を装って名前を呼ぶつもりだったのに。
「リーエ。いいのです。私もフェルも分かっていますから。あなたが気に病む必要はありません」
「そんなの嫌です。私に出来ることがあるなら、せめて……」
「リーエ。それは思い上がりです」
見たこともないほどの厳しい顔で、ぴしゃりと言われた。
「あなたの気持ちはとても嬉しいわ。本当よ。ありがとう。
ですが、負わなければならない事もあります。それが彼の国の王族として生まれた者の務めです。あなたが渡り人としての務めを負わざるを得ないのと同じことです」
私が泣くべきではないのに、涙が溢れて止まらない。
「リーエ、私を惜しんでくれて、私を想ってくれてありがとう。あなたの涙を見ていると、私も救われます。よかったわ、リーエに話せて」
そう言って、エルさんは本当に綺麗に笑った。本当に綺麗な透き通るような笑顔だった。
たった一度の告白。互いに二度とこの話をすることはなかった。
そして。
エルさんが儚くなった。
何があったわけではない、ただその命の灯火が少しずつ小さくなり、すっと消えたかのような静かな最後だった。
見た目は何も変わらない、ほんの少しやつれた程度なのに、その命はもうそこにない。
やはり無理矢理にでも加護を与えておけばよかったのだろうか。名を呼べばよかったのだろうか。でもそれは彼女の覚悟を踏みにじる行為だ。私自身、娘を授かることによって、エルさんの覚悟も分かるようになった。
負うべきものは負わなければならない。たとえ理不尽であっても、残酷であっても、不可解であっても、その務めは果たさねばならない。
「リーエ、これでいいのよ」
それが、私が聞いたエルさんの最後の言葉だ。そう言って笑った。あの時と同じ、とても綺麗で透き通るような笑顔だった。
エルさんは、当初の予想よりは長く生きた。
おそらく彼女自身の努力と、フェルさんの存在によるものだろう。フェルさんが契約者であることも彼女にとって良い方に作用した。
それでも早すぎる。
私はやりきれない思いを抱えたまま、エルさんを偲ぶ。彼女の覚悟を想う。
そして彼女の形見分けが終わった後、私は一度だけ、彼女の名を呼んだ。
──ミュリエル王妃。




