第二十六話:近い! 近いって!
改めてこっちを見る詩音……って! やっぱ近い! 近いって!
一歩間違えればキスできそうなこの距離。
早く離れないとだよな!? だ、だけど急にこっちが動いて、詩音が体勢を崩して誤ってキスなんてしようものなら、それこそやばくないか!?
でも、じゃあどうする? どうすりゃいい!?
「ど、どうした?」
混乱した俺は考えがまとまらず、彼女の問いかけにそう尋ね返すのが精一杯。
「あ、えっと、その……あ、ありがとう、ございます」
「い、いえ。どういたしまして?」
て? じゃない!
何パニクってるんだよ! ただのお礼の言葉じゃないか!
落ち着け俺! 落ち着──。
「せ、先輩ってその、け、結構、体、しっかりしてるんすね」
いつの間にか、俺の腕に手の平を重ねていた彼女が、そんな事を口走る。
撫でるように動くて手の平から感じる感触……こ、こんなので落ち着けるかよ!?
いや落ち着け! 俺は二十六だぞ! 大人なんだぞ!
そう思い込んでも、心臓のバクバクが止まらない。
っていうか、今この状態で沈黙だけはヤバい!
これ以上変な空気にならないように、早く質問に答えろ!
「そ、そりゃ、体育ステータスも高いし」
そう! そうに決まってるよな!?
自分に言い聞かせるようにそう思い込んでいると。
「た、体育ステータスって、なんすか?」
なんていう疑問の声と共に、詩音がきょとんとした。
って、ばっかっ!
あいつはこの世界がゲームの世界だって知らない──あ。そうか。
詩音はこの状況を知らないからこそ、こんな反応なのか。
急にそんな考えが頭に思い浮かび、少しだけ頭が冷静になる。
「あ、い、いや。言葉の綾だ。言葉の綾。そ、それより、そろそろどいてもらってもいいか?」
「え、えっと。そうしたいんすけど……そ、その。先輩の腕が……」
……!?
うおっ!? そうだった!
あいつの腰に腕回しっぱなしじゃないか!
「わわわ、悪い!」
「い、いえ!」
慌てて両腕を広げ詩音を解放すると、彼女は横にころりと転がり隣で四つん這いになり、直ぐ様その場で立ち上がり俺に背を向ける。
や、やばかった……。
大の字になったまま、俺は胸を撫で下ろした。
さっきまで彼女を抱えていた感触が残っているのもあって、まだ心臓がバックンバックンいっている。
走っていた時ですらここまでならなかったのに。どれだけ緊張してたんだよ。
「……せ、先輩。心臓の音、凄かったっすね」
「だ、だよなぁ」
……って!?
仰向けのまま思わず詩音を見ると、あいつは背を向けた少しだけ身を捻り、いまだもじもじしながら俺をちらっと見下ろす。
うっわー。聞かれてたのかよ……。
服越しでも伝わるとか。どれだけなんだって……恥ず……。
あまりに恥ずかしすぎて、俺は寝転んだまま、絶対に真っ赤になっているであろう顔を両手で隠すことしかできなかった。
◆ ◇ ◆
「どうだ?」
「こんなもんで大丈夫っすね」
あの後、砂浜から立ち上がった俺達は、互いに服に付いた砂を払い落とした。
倒れ込まずに済んだ詩音に比べ、俺は砂浜に大の字に跡を残すくらいにはしっかり寝転がったせいで、流石に背中が砂だらけ。
仕方なく、彼女に協力してもらい砂を払い落としてもらっているうちに、やっと気持ちが落ち着いてくる。
しっかし、流石にさっきのは刺激ありすぎだった。
まあ、二十六にもなって恋人もいないんだ。今の俺じゃあれで動揺しないなんてのは土台無理な話。
ほんと、こういう時に少しでも平静でいられるようにしないとな。
「悪い。色々と手間かけさせちゃって」
「それはこっちの台詞っす。僕から勝負を挑んで転ぶなんて、情けないっすよね」
「何言ってんだよ。別に陸上は砂浜でしないし、こういう足場の悪い場所なら誰だって転ぶって」
「……まあ、確かに」
さっきまでの気恥ずかしさをごまかすように、詩音に振り返りながら、なるべく自然体を心がけ話す俺。
彼女も同じ気持ちかはわからない。けど、俺の根拠ない言葉に同意し、普段のようにくすっと笑ってくれる。
瞬間。ふっと肌を撫でる海風。
流石に五月に入ったからといって夜はまだ肌寒いし、そろそろ移動するか。
「さて。とりあえずこっちが迷惑をかけたし、飯は俺の奢りでいいよな?」
「え? 駄目っすよ! 僕のせいで先輩が砂まみれになったんですから。僕が奢ります」
適当に理由をつけて夕食を奢ろうかとおもったけど、流石にすんなりとはいかないな。
とはいえ、ここは譲りたくない。
そういやまだチケット代も払えてなかったよな。だったらここは、少し大人らしい作戦でいくか。
「いいか? さっきのは勝敗はつかなかったし、俺が寝過ごしたせいでコンサートを無駄にしたんだ。だから俺の奢りだ」
「駄目っす。コンサートに行かないって決めたのは僕です。だから、僕に奢らせてください」
「そうか。じゃあ」
俺はズボンの後ろポケットから財布を取り出すと、そこから万札を二枚詩音に差し出した。
「せめてお前のチケット代も弁償する。それなら奢られるけど。どうだ?」
「そ、それも駄目っす!」
両手でそれを拒み、髪を振り乱しながら首を横に振る彼女は、若いながらに人ができてると思う。
若いからこそ、喜び勇んでお金を手にする子だっているはず。まあ、これはある意味ヒロイン力なのかもしれない。
「ちなみに、チケット代は幾らだ?」
「え? あ、えっと……」
俺が神妙な顔で問いかけると、急にしどろもどろになった詩音の目が泳ぐ。
きっと彼女も覚えている。俺が自分の分は出すって言ってたのを。
「その……一万、ですけど……」
だろうな。確かキュンメモでプレゼントの中にコンサートのチケットがあったけど、これくらいだった記憶がある。そこはきちっとゲーム準拠で助かった。
流石にチケット代は学生にとっても高額。それを奢らるのに彼女が気後れするのも無理はないし、ここまでは想定通り。
「じゃあ、まず俺のチケット代だけは受け取ってくれ。その上で俺が夕食を奢るけど、店は詩音が行きたい所を決めてくれないか? そうすれば、奢られる方も多少気が楽だろ? どうだ?」
改めてこんな提案をしてみると、詩音はその場で少し無言のまま俯いた後。
「……先輩って、強引なんすね」
なんて、観念したような顔で言ってきた。
「酷い言われようだな。友達の後輩思いって言ってくれよ」
「確かにそうっすね。そういう事にしときます」
「じゃ、交渉成立ってことで」
「はい。すいません。気を遣わせて」
「気にするなって。颯斗ほど頼り甲斐はないせよ、少しは先輩として格好つけたいしな」
「いえ。先輩のほうが十分頼り甲斐がありますよ」
「だといいけど」
軽い感じで会話を交わしながら一万円だけ差し出すと、彼女はポーチから財布を出し、受け取ったお金をしまう。
ふぅ。ちょっと強引だったけど、なんとかドアインザフェイス成功ってとこか。
最初にわざと受け入れづらい提案をして、後から譲歩した本来の提案をすることで、受け入れてもらいやすくする。
何気にビジネスではよくある手法だけど、まさかこういう所で人生経験が生きるとは思わなかったな。
「じゃ、少し早いけど飯にして、後は夜景でも楽しむか」
「はい!」
やっと普段通りの先輩後輩に戻った俺達は、夕焼けに照らされながら、ゆっくりと砂浜を後にした。




