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第十三章 向暮楊風(十六)

 仲春二月四日、大伴は譲位し、正子と共に四条大路に面した淳和院に遷った。

 即位した正良新帝のもとで、良房は蔵人頭となり、政界進出への足がかりを得ている。

 甥である道康親王ではなく、恒貞親王が東宮となったという決定を聞いても、良房は、

「やはりな……」

と唇を歪めたのみで、差し当たりは何の行動にも出ようとはしなかった。

「よいのですか、良房―――」

 不満気に言ったのは美都子である。良房と順子の両方の母である美都子にしてみれば、孫が立太子するかしないかという問題なのだから無理もない。しかも、大伴と正子、両親とも皇族出身の恒貞が次代の帝になるようなことがあれば、藤原北家の将来にとっては著しい障害となる。

「諦めるわけではありません。今上帝と皇后さまの御意向である以上、まだ、その時機ではない、ということです」

 今の良房に、それを留める力はない。

 いかに嘉智子が恒貞よりも道康の方に肩入れしてはいても、彼女にとっては二人ともが孫である。その上、今上帝大伴が―――実質的には正子だが―――主張し、神野にもそれを留める意志がない以上、今は静観するよりない。そもそも、今の藤原北家には、道康親王の立太子を強行したとて、それを後見しきる力も十分にあるとはいえないのだ。

「時機を、待つことです」

 良房は、そう繰り返す。その物腰は、獲物に向かってその身をかがめる若き白豹にも似て、鋭く、しなやかだった。



          ☆



 晩春三月六日、桜の花が舞う中で華やかに即位式が行われ、正良の頭上に帝冠が輝いた。

 祝宴三昧の日々が過ぎ、少し落ち着いた頃、神野は静かな微笑と共に嘉智子に言った。

「わたしの仕事は終わったな」

 嘉智子は怪訝な顔をした。

「仕事?」

「そう―――息子が即位し、そして、淳和院が四条におられる。その傍には正子がおり、常や信も台閣に出た。しかも、東宮は孫だぞ」

 淀みない口調で言って、神野は庭を見やる。

 大伴に、そして正良に帝位に即くべく運命を背負わせたのは、神野であり、冬嗣だった。その冬嗣も今は亡い。

 神野は、四十八歳になっていた。

「わたしは嵯峨の山荘に隠棲するよ」

「隠棲?」

 ぷっと、嘉智子は吹き出す。

「まあ、まるで仙人のようですわ」

「そうありたいものだ」

「嵯峨が仙人どのの仙洞(仙人の居所の意)というわけですのね」

 神野も微笑を浮かべた。

「まあ、住み処として整えるのに少しかかるだろうが。何にせよ、もう大内裏の隣に住んでいたくはないな」

「台閣にも、大勢御自分の『眼』をお置きになったことですしね」

 この才女の洞察力は侮れないものがある。指摘されて、神野は苦笑する。

「ここにおると、自分でも時々判らなくなる。―――とうに己れの役目は終わったと、思っておるはずなのだがな……」

 異母弟大伴と、息子正良。源氏として政界に進出しはじめた息子たち。そして、孫にあたる恒貞や道康―――

 彼らには、何事につけどうも気慨というものが感じられない。大伴は神野を恐れつつもその力を頼みにしていた。もし神野が政治からきっぱりと身を退いていたならば、彼は臣下を頼りにしただろう。新帝正良にいたっては、即位する前からすっかり臣下に寄り掛かって、帝王としての自覚など微塵も持っていない。

 神野自身、専制君主とは程遠い。だが、それでもやはり台閣の頂点に立つ者として、それなりの自覚を持って玉座に腰を降ろしていたはずなのだ。

 帝が自ら政治を執る時代は、終わったのか―――と、そんなことをふと考えもする。それが、流れというものなのか―――と。直観が、どこかで神野にそう告げていた。それを感じながらも、神野はそれでもやはりその流れの中で、ひとつひとつ、己れの責務を果たしてきたつもりでいる。

 だが、それももう潮時だろう―――

 神野は嘉智子を見やった。

「さて―――と。それでそなたは、どうするね?」

 嘉智子は笑った。

「お情けないこと。今更そのようなことをお尋ねになりますの?」

「そなたはにぎやかな方が好きかとも思ってね」

「あら。嵯峨に行ってもわたくし、にぎやかにしたいと思えばにぎやかにいたしますわ。それに、わたくしにも眼はたくさんおりますもの」

 すい、と神野の頚に手を回す。にっこりと微笑した。

「それとも、お邪魔かしら?」

 柔らかく、神野も微笑を返す。長い時間を寄り添いながら共に歩んできたこの伴侶には、どこか年齢を超越した、少年めいた笑みが本当によく似あった。

 長身を屈めて神野は頬を寄せ、耳元でそっと囁く。

「では、共に霞を食しに参るとしようか」

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