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第十三章 向暮楊風(十五)

「やめた方がいいよ、正子」

 大伴は正子に言った。

「東宮には、既に道康親王がいらっしゃるじゃないか」

 神野が予想していたとおり、年が明け、四十八歳になった大伴は譲位の意志を固めた。身体を悪くして政務に耐えられない、という理由である。確かに大伴は恒世親王の死以来、どこという訳ではないが常に体調は悪く、政務は臣下に任せっ放しといっても良い状態だった。要するに神野が譲位したときと同様、言ってみれば「疲れた」のであり、彼は常に譲位の機会を伺っていたのである。

 外には冷たい雨が降りそそいでいる。

「道康親王はまだ六歳ですわ。それに、では、恒貞はどうすると仰るの?」

「それは―――親王として、いずれは何らかの地位につけて―――」

 譲位するなら、次の東宮を恒貞に決めてほしい、と正子は大伴に訴えている。道康は六歳だ、と言うが、恒貞もまだ九歳である。

「なあ、正子。道康親王を擁する人達の力は強いよ。それに逆らうようなことをしても、いつか恐ろしいことになるだけだろうよ」

 親子ほどに年の隔たった妻に、大伴は諄々と説き聞かせた。

「主上」

 正子は真っ直ぐに大伴を見る。

「でも―――恒世さまは死んでしまいましたわ」



          ☆



 雨は、急に激しくなったようだった。

 大伴は言葉もなく、正子を見つめた。正子は更に厳しい言葉を継ぐ。

「東宮に立たず、恒世さまは天寿を全うされましたか?」

「正子、お前―――」

 どちらが東宮に立とうが、結局は同じだ。

 どうあっても、道康派にとって恒貞は邪魔な存在であることに変わりはない。

 ならば、まだしも東宮として正式な後継者の地位を得ていた方がいいはずだ。

 その理屈に、大伴は全面的に賛同した訳ではない。だが、逆らうだけの理屈も思いつかなかった。

「とにかく、冷然の院に相談申し上げてみよう……」

 そう言うのが精一杯だったのである。



          ☆



「主上と皇后がそういう御意向ならば、わたしがいちいち口をさしはさむ必要もないよ」

 大伴の予想に反して、神野の反応はごくあっさりしたものだった。

「院」

 大伴は困惑し、正子は微笑した。

「そう言って下さると思ってましたわ」

 ね? という風に、正子は大伴を見やる。

 神野は僅かに唇の端を上げて笑った。

「あなたがたの問題だからね」

 その言葉の内にある苦い、突き放すような響きに、正子は気づかず、

「そうですわね。院も位を退かれて、もう十年になるのですもの」

と言って無邪気に笑った。

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