第十三章 向暮楊風(二)
夕刻、良房は一条東洞院大路の自宅―――冬嗣邸である―――に戻った。
着替えをすませ、すぐに父冬嗣の私室を訪れる。
五十二歳になった冬嗣は、年の始めに体調を崩し、床についていた。
昨年就任した左大臣の地位はそのままだが、左近大将を二月に辞している。あまり出仕も出来なくなり、今ではほとんど邸から出ることはなくなっていた。寝たきりで過ごす日も多い。
「お加減は如何でございますか」
「良房か」
冬嗣は半身を起こした。
「長良はどうした」
「主上の御様子を心配し、宮中に詰めております」
「……そうか」
心根の優しい息子の顔を思い浮かべ、冬嗣は肉の落ちた頬に手を触れた。
「根を詰めすぎないとよいが。主上の御様子はどうだった」
「皇后様とお二人、ひどいお嘆きようだとのことです」
事務的な口調で、良房は言った。冬嗣は少し眉根を寄せ、
「そうか」
と、先ほどと同じ言葉を呟いた。
人を使い、毒を盛って恒世親王を殺害したのは冬嗣である。まだ彼がどうにか床から起られる状態にあった二ヵ月前、嘉智子皇太后から、彼は冷然院に呼び出された。
☆
「そろそろ、潮時ではありませんか」
人払いをすると、嘉智子は冬嗣に言った。四十歳になっているが、その美しさはいささかも衰える風はない。切れ長の双眸が、何とも言えず艶っぽい。世間話をするかのような口調であるが、その視線は鋭い。
「いかに今上帝の子を任じるが慣例とはいえ―――恒世親王を、中務卿に任じたのは間違いだったかもしれませんね」
冬嗣は、その場に伏していた。
「恒世親王の評価は、非常に高いと聞きます。加えて、母親が死んだとはいえ、あのお血筋の良さもあなどれません。そして、大人しいお人柄であられても、やはり帝は帝―――。かの、桓武帝のお血筋」
そこで、嘉智子は言葉を切る。
「ひとり娘が嫁いでいる以上、東宮の問題はそなたの問題でもあるはずですね、冬嗣」
数秒、室内に沈黙が降りる。
一蓮托生―――その結びつきをつくるためにこそ定められた、正良と順子の婚姻であった。
「仰せの通りです」
そして静かに、冬嗣は言った。再び、沈黙―――
「わたしの命も、そろそろ先が見えて参りました」
穏やかな中にも決然とした響きをもつ声で、彼はそれを破った。
「そう長くはお待たせいたしません。どうぞ、心安くしてお待ち下さいませ」
☆
中務卿になろうとなるまいと、恒世親王の運命は既に決していたといってもよい。正良親王を擁する人々の意向を撥ねのけるだけの力を持つ者は、恒世親王の周囲に誰も存在していなかった。
そして首尾よく、ことは運んだ。
三年前、高志内親王を殺害したときと同様に―――
これもまた、直接的には嘉智子の命だった。
嘉智子には、容赦がない。
同じ果断さでも、神野のそれにはどこかためらいがある。安殿と対立していても、ぎりぎりまで争うの避けようとするところが神野にはあった。己れの成すべきことには優れた判断力と行動力を発揮するが、自ら何かを望むということにはどこか淡泊である。そうあるよう、神野は強いられてきたとも言えた。その視えすぎる眼が、己れの愛する者たちを流れに逆らってまで守りぬくということを、ほとんど不可能にしてしまっている。
高志・高津両内親王や恒世親王は、神野にとっては身内でも、嘉智子にとってはまったくの他人だ。高津内親王と皇后位を争ったときにも、彼女はいささかのためらいを見せる風もなかった。そして今も、彼女は恒世親王やその父たる大伴に対して、一片の同情心も抱いてはいない―――というのは言い過ぎとしても、さほど彼の心情に思いを寄せてはいまい。
そして、この良房も―――
傍らに腰を降ろしている良房を、ちらりと冬嗣は見やった。
この度の功労者は良房であると、彼はそれとなく嘉智子に伝えている。
長良は、優しすぎる。恐らくは、良房の方が早く頭角を現すことだろう。それは神野も同様に考えているらしく、良房に臣籍に下った自らの娘潔姫を正妻として与えている。臣籍に下っているとはいえ、元皇女とのこの婚儀は極めて異例のことだった。
いささかの容赦もなく敵を打ち砕いた父内麿を思い出させる息子を、冬嗣は頼もしさと、微かな危惧とを抱いて見守っている。
内麿が五十七歳で死んだとき、冬嗣は既に三十八歳であり、神野の信頼を得て参議の地位についていた。だが、長良も良房もまだ二十代前半で蔵人。まだまだこれから―――という年齢である。
良房に促され、冬嗣は再び身体を横たえた。
息子たちのためにも、今少し永らえていたかったのだが―――




