第十二章 五月闇(十)
良峰も、御苦労なことだな。
ひとり残された大伴は、胸の内で苦々しく呟く。
恒世は言った。
『わたしは、父上を裏切りました―――』―――と。
正子が嫁いできた当初、大伴は正子を足繁く訪なってはいても、その実、まるで父親のように添い寝していたに過ぎなかった。そして告げられた、妻の懐妊―――
嫉妬も、裏切られたことへの怒りもない。大伴は、ただ驚いただけだった。
だからこそ、正子に言った。
『身体に気をつけて、良い子を産んでおくれ』
他に、わたしに何が出来たというのだ。正子を咎めず、その身を気遣う、それ以外に。ただ先帝―――冷然院の命に逆らいきれず、政略結婚させられただけの、形ばかりの夫婦ではないか。正子とて、わたしを愛しているというわけでもあるまい。正子が想っているのは、恒世だ。形ばかりの夫であるわたしが、正子に何が出来るというのか。むしろ正子を怯えさせるだけではないのか?
『わたしは、父上を裏切りました』
正子に罪はない、と。
蒼ざめて自分の前に手をついた息子の告白で、疑惑が、事実に変わって。それでむしろ、大伴は安堵したのだ。薄々感じてはいたものの、腹の子の父親がどこの誰とも知らぬ状態であったのが、はっきりと判明したことに。そしてそれが、想いあっている者同士の、子であったことに。
ならば、それでよいではないか。
わたしは夫として、そして腹の子の父としての義務を、これまで通りに果たそう。そして、正子と恒世が逢いたいというなら、逢えばよい。
まさか公式に、二人の仲を認めるわけにはゆかぬにせよ。
『信じて頂けないかもしれませんが、そのとき一度きりです、父上。それからは、一度たりとも―――』
弁明する息子に、大伴は、やはり安世に対してと同じように言ったのだ。
『わたしに遠慮することはないよ。もともと、無理な婚姻だったのだから―――』
恒世は愛しい息子で、正子は可愛い姪。そして、今は妻でもある。どちらも、不幸になって欲しいはずなどない。
形ばかりの帝位、形ばかりの夫。当のわたしが、それでいいと言っているのだ。そうあることが、わたしにただひとつ、出来ることなのだから。
大伴は、ずっとそう信じ続けている。己れの道を真っ直ぐに突き進む、峻厳苛烈な父、桓武帝。自分の感情のおもむくままに好き放題に行動した兄安殿と、父母を同じくするその兄と闘い、瞬く間に葬り去ってしまった神野―――冷然院。彼らの中で生きてきた大伴には、そう信じる以外になかった。そして自分が東宮に立ったのも、その妹(高志)を妻とし、彼らに逆らわずに大人しく生きている、ただそれだけのゆえだったのだと。
*
何も、見えない―――
『伊那……?』
夢の中にいるようだった。
自分の身体が、得体の知れぬ恐ろしいものであるかのように思える。
『伊那、どこ……?』
闇の中へ、正子は手を伸べる。
誰か、いるの……?
恒世さま? それとも、主上……?
子供って、何なの? どうして、わたしの中にいるの?
何が、おめでたいの?
母様、父様。
わたし、どうしたらいいの?
恒世さま。
あなたがわたしのところへ来て下さって、わたしがどれほど嬉しかったか、判る? ずっと、逢えなかったんですもの。
でも、それなのに、わたし、とても怖かったのよ。あなたが、わたしを―――
とても、怖くて―――
でもそのことを、判ってくれる人は、誰もいなくて。判ってもらおうとすることすら、できなくて。
今、わたしの中にいるのは、主上の御子じゃない。
主上はそのことを、今度は本当にご存知で、でも、何も言わない。
主上は、わたしを見ていないのだわ。気遣いも、薬も、「気持ちを楽に」なんて慰めの言葉も、みんな、通り過ぎていくだけなの。
ねえ、この子は、何?
わたしは、どうしたらいいの? ここにいて、いいの?




