第十二章 五月闇(九)
同じ頃―――
安世は、大伴の前にいた。
大伴の常御殿は紫宸殿と承香殿とに挟まれた仁寿殿なのであるが、今は二人がいるのは清涼殿の大伴の私室である。
「主上」
安世は大伴を見た。
「差し出がましいことなのは重々承知しております。ですが―――どうか、ここは枉げてお願い申し上げます。どうか、正子さまを哀れと思し召して―――お慈しみ下さいますよう―――」
「先ほども、薬師を遣わしたところだ」
大伴は安世を見ようとしない。言葉はそっけなかった。
「それでは、正子さまをお救いすることは出来ません」
「ならば、恒世を遣わせ」
「主上!」
安世は語調を強める。大伴は手に持っている扇を開き、それに眼を落とした。
「………何も、投げやりに言うのではない。何も、わたしに構うことはないのだ。内親王の望むとおりに、そなたらで計ってやってくれればよい」
ぱらり、と扇を閉じる。
「内親王を大切に思えばこそ、そう言うのだよ。そなたらの方が、わたしなどよりもずっと慰めるすべを知っておろう。わたしが行っても、かえって、お互いに辛いだけではないのかね」
「主―――!」
「良峰中納言さま」
丁度そのとき、妻戸の向こうから呼ぶ声がしたので、安世は呼びかけの言葉を引っ込めた。
「わたしはここだ」
「お話はお済みでございましょうか? 承香殿より使者が参っておりますが」
「ほら、そなたを呼んでいる。―――行ってやるがいい」
力のない声で大伴は言う。安世は立ち上がり、妻戸を開いた。そこに控えていた使者に向かい、
「もうしばらくしたら行くと伝えてくれ。今、少し手が離せないからと」
と命じる。
「かしこまりました」
「しばらく待つ必要などない。用件は済んでいる」
「は………」
立ち去りかけたところへ大伴にそう声をかけられ、使者は戸惑うように安世を見上げる。安世は強引にそれを返し、再び妻戸を閉めた。
「………誰も、わたしの言うことなど聞かぬのだな」
「主上」
辛抱強い調子で、安世は語りかける。
「どうか、承香殿へお渡り下さい」
「呼ばれているのは、そなただ」
「わたしが行っても、どうにもなりません。主上でなければ」
「わたしには何も出来ぬ」
「出来ます」
強い口調で安世は言った。
「夫君であられる主上がそのようなことを仰っては、内親王さまは決して救われることはありません。どうか、夫君として、傍についていて差し上げて下さい」
「良峰」
初めて、大伴の口調に苛々した響きが混じる。
「そなた、自分が何を言っているか判っているのか」
「そのつもりですが」
「恒世の話では、そなたは全て承知とのことだが」
「はい」
「承知の上で、わたしに承香殿へ行けと? 正子についておれと?」
大伴は立ち上がった。
「馬鹿馬鹿しい。―――そうか、冷然院の命か」
「わたしは院の代理人ではありません」
きっぱりと、安世は言う。
「ただ、わたしは―――」
「聞きたくない。―――もうよい、頼むから放っておいてくれ」
一瞬身の内を過ぎた激情に疲れ果てたように、大伴は大きく手を振った。顔を歪める。
「下がれ」
「主上―――」
安世はなおも声をかけた。
「主上以外に、一体誰が内親王に―――」
「下がれと言うた。―――出て行かぬなら、よい、わたしが出て行く」
「主上」
大股に部屋を横切ろうとする大伴を引き止め、安世は深いため息を吐き出す。ともかく今は、どうする術もなかった。
「―――お邪魔をいたしました。失礼します」




