第十二章 五月闇(六)
だが、そんな配慮を嘲笑うかのように、涼風が立ち始める頃、安世は正子の懐妊を知らされた。
訪ねてきたのは、伊那である。途方に暮れた様子で、安世の前に伏していた。
安世は厳しい表情で額に手をやる。
「あの折の………?」
「………はい」
深いため息を安世は吐き出した。
「主上には、申し上げたのか」
「はい、確かめた薬師が申し上げました」
「どういう御様子だった」
「それが―――」
伊那は苦い顔をした。
「すぐに承香殿へお渡りになって、『身体に気をつけて、よい子を産んでくれ』と―――」
安世は頭を抱えたい気分になる。
「正子さまは」
「とてもお返事などなさることは出来ず………」
「………だろうな」
「主上が、『初めてのことゆえ気が昂ぶっているようだが、気をつけてやっておくれ』との仰せで………」
「………」
「どう致しましょう。どうしたらよろしいのでしょうか」
伊那はおろおろしている。安世は渋い表情のまま言った。
「どうしようも何も………放っておくより他はないな。恒世さまの御様子はご存知か?」
「いえ……」
「早まったことだけはせぬよう、釘を刺さなければならない。出来ることといえば、それぐらいだ」
ああ、あと篁にも釘を刺さねば―――と安世は思った。
☆
「正子が―――」
宮中から報告を受け、神野の眼には一瞬動揺が走った。その揺らぎはすぐに消失し、神野は丁寧に祝いの言葉を述べる。おそらく使者の眼には、その動揺は伝わらなかったか、あるいは単に思いがけない報告を受けたことに対する驚きとしか見えなかったことだろう。だが、神野は既に正子に宿った生命が、大伴ではなく恒世親王の子であることを知っていた。
それでも、隣に座する妻を見る頬には、淡い微笑さえ浮かべている。
「入内後日も浅いというのに、早くもこのような報せを聞くことが出来るとはな」
「ええ、これほどの慶びはありませんわ。本当に、おめでたいこと」
それとは対照的に、その隣の嘉智子の微笑は、まさに大輪の花のようにあでやかなものだった。
使者を下がらせ、傍らの神野を見やった。
「祝いの品はいかがいたしましょう。宿下がりの準備なども、進めなくてはなりませんわね」
「―――そうだな」
気のない返事に、嘉智子は怪訝な表情をする。
「浮かないお顔ですこと。あなたにとっても、初孫の誕生ですのに」
神野は僅かに表情を緩めた。
「我々も、祖父母ということだな」
嘉智子は微笑する。悪戯っぽい表情で言った。
「そういうことになりますわね、それについては、あまり考えたくはないような気もしますけれど」
「いや、正直な話、実感が湧かぬな。正子はまだ十四だ」
まだ幼く、少女のようにか細い娘の身体を、神野は思い描いた。そして異父弟の顔と、甥の顔を―――
子は天の配剤―――という。天は、言っているのだろうか。己れのしたことを見よ―――と。
ふと、篁の眼を思い出していた。
「御心配でいらっしゃいますの?大丈夫ですわよ」
そんな神野の心中には気づくことなく、あっけらかんと、嘉智子は笑った。
「年齢差は少し気懸かりでしたけど、これで安心いたしました」
ほろ苦い笑みを神野は浮かべた。
「男親の意気地なさと、笑ってくれればよいよ」
「嫁いで子が産まれぬ方が、よほど気懸かりですもの」
「まあ―――な」
「それにしても、意外ですわ。あなたが、そのような心配をなさるなんて。そう言うあなたこそ、幾人のお子をお産ませになりまして?」
くすくすと、嘉智子は笑う。神野は片頬にちらと笑みを浮かべてみせたのみで、何も答えなかった。




