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第十二章 五月闇(四)

 翌日、安世は仕事をすませて早めに御所を退出し、邸に戻った。

 まもなくその下へやってきたのは伊那である。中へ通され、安世の前に平伏した。

「何の御用件でございましょうか」

 安世とは、もちろん面識はある。だが、このような形で直接名指しで呼び出されたのは初めてであり、不安そうに安世の言葉を待っていた。安世は普段通りの朗らかな口調でまずこう切り出す。

「正子さまのことで、あなたに少し話があるのだよ」

「はい」

 正子の名が出たことで、伊那は少し安心したようだった。少し顔を上げ、安世を見る。だが、その表情は、次の言葉で僅かに硬くなった。

「それと―――恒世さまと」

「―――」

「あなたを咎めようと思ってここへ呼んだのではない。相談したくて来てもらったのだ」

「何のことでございますか」

 語尾が僅かに震える。だが気丈にも、臆する様子もなく真っ直ぐに安世を見ていた。安世は穏やかな表情を変えずに、じっとその眼を見返す。

「正子さまの御境遇は、わたしもお気の毒に思っている。だからこそ、あなたに力になってもらいたいのだ。どうか、力を貸してほしい」

 伊那はぎこちなく、頭を下げた。

「まずは―――恒世さまが、とても難しいお立場にあることは、あなたも知っているね」

 はい、と伊那は答える。

「ほんの些細な傷も、あの方の失脚を望む者たちに利用されたら、どんな大事に至るか判らないのだよ」

「存じております」

 深く平伏し、それから伊那は必死の表情になって安世に訴えた。

「でも、このままでは正子さまがあまりにもお気の毒なのです。良峰さまは、今まで正子さまをとても慈しんで下さいました。どうか、そのお力をお貸し下さい。あの方をお救いするために。今、正子さまをお慰めできるのは、恒世さま以外には考えられないのです」

「伊那」

 少し厳しい表情になって、安世は伊那を見据えた。

「それでは駄目なのだ。恒世さまでは、かえって正子さまをお救いすることは出来ない。一時の慰めには、ひょっとしてなるかもしれないけれどね」

 伊那の眼を、険しいものが過ぎる。

「あなたも、やはり冷然の院に与されるのですね。正子さまをまるで御自分の道具か何かのようにお使いになった、あの父君に―――」

 辛辣な言葉だった。ずっと考えてきたことなのだろう。

「仮にも血を分けた娘に対し、この仕打ちはあまりにも酷い―――」

 眼に涙が滲む。伊那は目元を袖で覆った。安世は伊那に歩み寄り、その肩に手をかける。

「聞きなさい。恒世親王では正子さまをお救いできない、と言っただろう」

「何故です?正子さまがただひとり愛されたあの方以外に、誰が正子さまをお救いできると言うのですか」

「伊那どの」

 安世は肩にかけた手に力を込めた。

「あなたかもしれない。他の誰かかもしれない。でも、恒世さまだけは駄目なのだ」

 言い聞かせるように、安世は言った。

「わたしが知っているある青年が言った。本当に愛しているのなら、恒世さまは正子さまを連れて逃げるべきだと」

「えっ―――!?」

 さすがに唖然として、伊那は涙に濡れた目を上げる。

「一体、どなたがそのようなことを―――」

「名は明かせないけれど―――そうだな、恒世さまとそう年は変わらない。今、二十二歳の筈だ」

 安世は言った。

「そして、彼はこうも言った。『逃げることを潔しとしないのなら、いっそ主上に直談判してもよい。そうして大切なもののために命を賭けてこそ、真の人生だ』と」

「―――」

 大胆な発言に、伊那は泣くのも忘れて茫然と安世を見ている。

「そう、そのとおりなのだよ。人目を忍んでの逢瀬など、いずれは露見することだ。露見すれば、恒世さまの命はないかもしれない。主上の妃との密通なのだし、恒世さまの失脚を狙うものにとっては願ってもない好機だ。どういう行動を取るにせよ、この恋を貫くということは、命を賭けるということになるのだ。―――判るかい」

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