第十一章 遊糸繚乱(十六)
沈黙があった。ふと、神野の顔から表情が消える。
「……旧い話だ」
「ええ。―――ですが、わたしは、そのときのことを昨日のことのように鮮やかに覚えております」
あれは、初夏の頃だった。山々に新緑がみずみずしく光る季節。
「藤原三守の生涯で、あれほど嬉しかったことはございません」
三守の視線は、いつも真っ直ぐで、迷いがない。対照的に、それを受け止める神野の眸が、僅かに翳りを帯びた。
三守の真っ直ぐさに、ときに神野は圧倒される。それは冬嗣や安世からは、決して受けることのない感情だった。
「……三守」
「わたしも、同じようにお答えします。わたしの心は、既に決まっております。それに、決して一時の思いつきで決意したことなどではございません」
「……」
「重職を務めさせて頂いておりました間に、少しながら蓄えも出来ております。次男は妻の実家安倍の家で養育されておりますし、長男は既に大学寮へ入学させる手配がととのっており、長女共々おそれながら嘉智子さまが後見下さるとのことです。別邸も手放しましたし、使用人も必要なだけを残して既に暇を出し、次の職もほぼ世話が済んでおります」
すらすらと述べられた言葉に、思わず絶句する。やがて吐息のように、神野は呟いた。
「―――そなた……一体いつの間に……」
知られれば、反対されよう。―――そう考えて、密かに事を進めていたのに違いない。
神野は顔をしかめた。
しかも、嘉智子も承知か。いや、嘉智子だけではない。それだけのことを手早くやってのけたということは、おそらく安世や冬嗣も、一役買ったに違いない。知らなかったのは、わたしだけではないか。
背筋を伸ばし、三守は言葉を続けた。
「そして、もしも院のお許しが頂けますのなら、この冷然院で仕えさせて頂きたく、何卒、お願い申し上げます」
ふい、と、神野は立ち上がった。腕組みをして三守を見下ろす。
「ならぬ、と言うたら、どうする」
「出家してどこか山奥の寺にこもり、毎日経文を唱えて院がお健やかであられるよう祈ります」
「……」
神野の口から、深いため息が洩れた。
「空海にでも弟子入りするのか。まったく、きさきと組んでこのわたしを嵌めおって。―――もうよい」
呆れはてた口調で言い捨ててから、すたすたと文机の所に戻り、腰を降ろす。
「わたしの負けだ。伺候を許す故、気の済むようにすればよい」
「光栄に存じます」
三守は深く頭を下げた。神野は脇息を引き寄せ、部屋の外へ視線を投げる。そしてその眼を、静かに閉じた。
「十七年間、ひとつの無心さえわたしにしたことがないそなたの初めての頼みだ。……好きにせよ」
☆
丁寧に感謝の言葉を述べて三守が退出した後、神野は今日幾度目とも判らぬ、深い息を吐き出した。
三守、そなたは知らぬ。
高志の死の真相も、これから恒世親王を襲うであろう運命も、今、起こっている出来事も、何も。
『高志の死は、事故ではないのだな』―――と。
言わずとも済んだことを、神野は敢えて冬嗣に言った。盟友として。そして、目的こそ異なっても、同じように闘う者として。敗者の嘆きと死者の怨みを、共に見つめる者として―――
だが―――三守。
知らずともよい、そなたは。
わたしや冬嗣の耳に、夜となく昼となく谺する怨嗟の声を。
わたしに、仕えたいとそなたは言う。ほんの少年の頃から、少しも変わることなく。そのことに、幾度となくわたしは救われてきた。いささかの、感動さえ覚えて―――
止めたところできくはずのない三守。
だとすれば。
ただひとつわたしに出来ることは、仕えて悔いの残らぬ主人たることだけだ―――
☆
大伴を頂点とする台閣は、三守の再三の上奏にも関わらず、辞表を受理するどころか、
「院に伺候するなら、それもよい。とにかく、その心根はまさに臣の鑑である」
と褒めちぎった。そんなわけで、結局彼が正式にその職を辞するのは数か月ほど先の話になるのだが、肩書きがどうだろうと、周囲の賞賛の声がどうだろうと、当人は極めて淡々としたもので、連日冷然院に出仕しては神野の身辺で忙しく立ち働くようになったのである。




