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第十一章 遊糸繚乱(十四)

 安世はしばらく絶句していた。やがて、

「―――参りましたね……」

と言って、頚の後ろあたりをカリカリと掻いた。

 正子内親王を入内させた件で、神野はずいぶんと心を傷めている様子だった。それを慰めるつもりが、気がつけば、いつの間にやらすっかり構図が逆転しているではないか。

「参りましたね……別にわたしは、その……見捨てられたとか、ひとりぼっちとか、そんな風に思っていたわけではないんですが―――」

 上げた視線が神野のそれと出会う。

 互いに、どうにも困っていた。同時に、二人は小さく吹き出す。

「―――おかしいな」

 視線を逸し、瓶子に手を伸ばしながら、神野は苦笑した。

「どうしてこんな話になったのだったかな」

「さて、わたしも―――」

 属する場所を持たぬことも、いずれにも属し得ると思えば、ひどく気楽で自由な身分である。そんな風に、安世はずっと生きてきた。これからも、きっとそうだろう。

 鳥のように、あるいは風のように。軽やかに生き、死んでゆければそれでよいと。

 だが、自身すら気づかぬままにあった、その心のどこかにひそむよるべなさを、神野はふと感じとったのかもしれなかった。

 そうだ。

 この方は、繊細で、人の感情に敏感である上に、ひどく気遣いが濃やかな人なのだった。

「何にせよ―――有難うございます」

 酒を受けながら、安世は礼を言った。何に対して礼を言っているのか、よく判らないままに。それから、ふと苦笑する。

「―――おそらく、主上は位を退かれても、のんびり悠々自適とはいかないと思いますよ」

 位を退こうがどうしようが、皇族の長は神野であり、台閣の長もやはり神野だ―――と。安世は今、ほとんど確信に近い強さでそう思っていた。

 神野は顔をしかめた。

「冬嗣と同じことを言う」

「―――まあ、何はともあれ」

 朗らかな声で、安世は言う。

「ひとまずは、十四年間―――お疲れ様でございました」

「ああ、本当に疲れたな」

 つられたように神野も微笑した。

 白磁の盃を二人は同時に干した。それから、どちらから言い出すともなく、龍笛と和琴の合奏が始まったのである。


          ☆


 冬嗣や安世の予言は、的中した。

 五月十六日、神野は大伴に位を譲り、嘉智子と共に大内裏の南東に隣接する冷然院(冷泉院)に遷った。

 帝が変わったからといって、台閣にはほとんど変化らしい変化はなかった。それゆえに、重臣たちはもちろん、新帝である大伴までもが、ことあるごとに冷然院に「院の御意向」なるものを伺いに来ることになったのである。

 一身上の都合で、同い年の異母弟に位を押しつける形となったこともあり、神野は訊きに来る以上は出来る限り話を聞くつもりではいた。だが、それが度重なり、そのまま譲位後二月(ふたつき)もすぎると、さすがにうんざりしてもくる。

「……そう言いながら、大内裏の隣に居処を構えておるのだからな」

 正殿の一室で庭を眺めながら、神野は苦笑した。

 確かに、きっぱりと政治から身を退く―――というわけにはゆかないのは事実なのだが―――

 眉間に僅かに皺を寄せる。そのとき神野の口から洩れたのは、一首の和歌だった。


   磐代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまたかへりみむ


                                  (万葉集)

 今から約百五十年前につくられた歌である。

 作者は、有間皇子。


 磐代の浜松の枝を引き結んで、無事を祈ってゆこう

 そして、もしも幸いにして無事でいられたなら、またここへ戻ってきて眺めることにしよう


 孝徳天皇のひとり息子であった彼は、父帝の死後、謀反の罪を着せられて死罪に処されている。讒言したのは蘇我赤兄という人物だった。だが、それを仕組んだ人物は、おそらく別にいたことだろう。

 この歌は彼が捕えられ、連行される途中に詠まれた歌である。

 無事でいられる可能性など、万にひとつもありはしない。十九歳で死んだ、有間の孤独な呟きが聞こえてくる歌―――

 この歌を、神野はつい先日、安世の口から耳にしたところだった。

 小さく吐息をもらした、丁度そのときのことである。別当が入ってきて、使者の訪れを告げた。

「用件を聞いておいてくれ。わたしは忙しい」

「は、それが」

 近頃はそういう対応も増えている。だが、この日、別当は困ったような表情になった。

「とにかく、至急、院の御判断を仰ぎたいと、使者が申しておりまして―――」

 そう言われると、門前払いをするわけにもゆかない。仕方ない、これも性格である。

 一体、今度は何事か。

 嘆息しつつ、神野は言った。

「―――判った、通せ」

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