第十一章 遊糸繚乱(七)
しばらく、どちらも口を開かなかった。冬嗣は釈明をせず、神野は非難をしない。
そもそも、恒世親王に手を下すことさえ頭にあった神野に、冬嗣を非難する資格など一切ありはしない。
だが、痛切に感じるのは、高志は死ぬ必要はなかった―――ということだ。恒世を除けば、事は済んだはずである。だが、神野の譲位が高志の存命中に行われ、万が一にも恒世親王が立太子する可能性が、なかったとは断言できない。神野が譲位を意識していることを察知して、嘉智子はおそらく焦りを覚えたのだろう。
そして、ほとぼりが冷めれば―――いずれ恒世親王も除かれる―――
だが、起こってしまったことを、今更咎めても仕方はない。取り返しがつかぬことなら、むしろそれを利用することさえもする。冬嗣が神野の不在をついて事を起こした事が種継暗殺の状況に比しうるすれば、寵臣の死を利用して佐伯・大伴両氏を葬りさり、我が子安殿の立太子をやってのけた桓武帝と、神野は同様の行動をとる。ただひとりの同母妹、高志内親王の死を悼みながらも、続けられた言葉はあくまでも冷徹な計算の上に立つものだった。
「恒世親王ももう十九歳―――そろそろ、処遇も決めねばならぬ。いずれかの省に入ることになろうが、まつりごとの上でのつながりが生じる前に、東宮を決めてしまった方がよくはないか」
淡々と言う。
大伴が恒世立太子を主張することは、まずあるまい。
冬嗣も神野も、そう思っている。
大伴には、政治の舞台で闘いぬくだけの気概も、力もない。
たとえ位を退こうとも、台閣の実質上の長が神野であることははっきりしている。皇后嘉智子と台閣の頂点に立つ冬嗣の存在も大きいが、神野が十四年という時間をかけてじっくりと築き上げてきた体制は、そう簡単に揺らぐものではない。
「御賢察に存じます」
沈黙を破って、冬嗣は言った。その口調がふと変わる。
「ただ―――位を退かれても、どれほどの意味があるのか判りませんよ」
「………かもしれぬな」
神野の口調にも、違う彩が混じった。脇息を引き寄せ、苦笑する。
「だがな、太上帝にお会いして、思ったのだ。もしわたしが五十で死ぬとすれば、それまでにもう十年ほどしか時間が残されていない」
部屋の外に、神野は視線を投げた。
「十四年間―――わたしは帝として、出来る限りのことはこれでもやってきたつもりだ。もう、自由にさせてほしい。それに、大伴とわたしは年も同じ―――。あまり年老いてからの即位では、あれも気の毒だろう」
神野さま―――
冬嗣は、静かにその場に平伏した。
「どうぞ、お心のままに―――」