第十章 旧邑対雪(八)
どれほど、そうしていたのだろう。
「―――兄上は………随分と大きくなられましたね……」
神野は顔を上げ、ぽつりと言った。
安殿はにっと笑う。
「大きくなった、はないだろう。何というか―――年を食ったのさ。十年も会ってないんだぞ。―――失意の内にめそめそ暮らしてるとでも思ったか? まあ、最初の三、四年はひどかったんだがな。真夏も、よく仕えてくれたものだと思うよ。死んじまったが甘南備もな………。確かに淋しいが、友も皆無じゃないし、訪ねてきてくれる者もいない訳じゃない」
眉を上げると、安殿は顎を掻く。
「ようやく、お前にも会えたしな。もう、さほど未練もない」
そう言って、安殿はまたごろりと横になった。口から欠伸がひとつ洩れる。
「いい気分だ」
そのまま眠りに落ちてゆきそうな、のんびりした口調だった。これほどに穏やかな表情を、神野は見たことがない。
「もう少し、お酒を召し上がりますか」
「いや、もう要らんよ。近頃はもうあまり飲らないんでな―――十分だ。お前、呑みたければ好きなだけ呑んでいいぞ。それに、百子が怖いから飯も食ってくれ」
そうに言ってから、安殿は閉じかけた眼を細く開く。
「何か罪の意識でも感じてるならそこで言ったらいい。百でも二百でも、言ってくれたら全部おれが赦してやるぞ」
ふっと、また涙が滲みそうになった。それを抑えて、神野は微笑する。だが、泣き笑いのように見えたかもしれない。
「―――やはり兄上は………昔のままです」
「そうか?」
安殿は眼を開けて神野を見やった。
「昔から………兄上は優しかった」
「………」
沈黙が降りる。もう楽の音も聞こえてこなかった。宴は、終わったのだろうか。
どんなときも、安殿は優しかった。何の打算もない、優しさ。それに気づいていながら、神野は何も応えなかった。むしろ、警戒し、距離をとろうとした。薄氷の上を歩くような日々の中で、感情を計算なく自然に表す術を、いつしか失ってしまっていた神野だった。
「それが判っていたのに………」
わたしは、何を恐れていたのか………
安殿は眼を閉じる。
「そう思ってくれてたんなら、いいさ。―――嫌われてるのかとも思ったからな」
神野は安殿の肩の上に、静かに手を置いた。
「兄上を嫌ったことなど―――一度もありません」
安殿の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
静かな時間が流れていた。
☆
時間は、少し戻る。
太上天皇と天皇が私室に去った後の正殿では、飲むうちに最初の戸惑いも薄れ、皆それなりに楽しく宴に興じていた。安世は相変わらず笛を吹いたり舞いを舞ったりの盛り上げ役である。酒に酔った人の姿を模した「胡飲酒」を舞い、皆の喝采を浴びたところでさすがに疲れ、
「やれやれ」
と、手に持っていた桴を床に放り出した。座に戻って腰を降ろしたところへ、真夏が寄ってきて、瓶子を差し出す。安世は微笑した。
「あ、これはどうも」
「楽しませて頂きました。冬嗣から、色々と話は聞いておりましたが、実際に見るのは初めてで」
「はは。酒呑みなら、地で演れますのでね」
ひらひらと、安世は手を振る。酔った上の運動で、元々色白な顔が、少し赤い。
「冬嗣は、元気ですか」
「ええ。忙しく過ごしているようですよ。―――ところで、太上帝の御病気というのは………」
真夏は苦笑する。
「同い年のわたしが言うのも何だが、もうお年ですからね。このところ、めっきり身体が弱くなってしまって」
「そうですか」
「以前はちょっと体調が悪いだけで苛々して大変でしたが、今は少々のことなら大丈夫、大丈夫と笑ってすまされるようになりました」
優しい眸でそんなことを言い、真夏は安世を見た。
「主上をお連れ下さり、本当に有難うございました」
「行幸をお勧めしたのは、高志さまですよ」
「ああ………妹君は、よくお見舞い下さっております。―――そうですか」
真夏は座りなおした。
「安殿さまはずっと、主上をお待ちでしたから………」
「わたしも、そうじゃないかと思ってたんですよ。主上も、ずっと気にかけておいでのようで―――ただ、主上もあれで中々融通がきかないというか、頑固なところがおありだから」
二人が出ていった方へ、真夏は視線を投げる。
「何を話しておられるんでしょうね」
「さて………。昔話でもなさってるのか」
「真夏どの」
百子が、不意に近づいてきた。
「どうした?」
「都から、使者がお越しです」
「安殿さまにか、それとも主上にか」
「両方だそうです」
「両方?」
安世と真夏は顔を見あわせた。
不吉な予感が、二人を襲った。




