第十章 旧邑対雪(三)
安世を連れ、出来る限り少人数の随人をしたがえて、神野は平城京へ向かった。神野が平安京を留守にするのは今では別に珍しいことではなく、
「後を頼む」
の一言で、何も問題はない。今や台閣には、右大臣に冬嗣、大納言に緒嗣、中納言に安世と綿麻呂、そして権中納言に三守が並んでいる。彼らが、滞りなく政務を行ってくれるだろう。
隔世の感がある。
輿に揺られて平城京へ向かう間、神野はほとんど口をきかなかった。
太上帝との争いが起こる前の、あの緊張感。―――あれは、一体何だったのだろう。
太上帝―――兄上と、わたしと―――。帝位というものに、それほどに執着したわたしたちではなかった。何故に、ここまで隔たってゆかなければならなかったのか……
平城京は、雪に埋もれるように、ひっそりと静まりかえっていた。葉の落ちた樹々に、綿のように雪がかかっている。風もなく、聞こえてくるのはざく、ざくと、歩みを進める音だけだ。
「見えてまいりましたよ」
安世が騎馬で近づいてきて、そう告げる。神野は簾も上げず、
「そうか」
とだけ呟いた。
☆
「ようこそお越し下さいました」
神野を迎えたのは、真夏だった。神野の背後に立つ安世を見やり、
「安世どのも、はるばる御苦労様でした。中納言になられたとか。御立派になられた」
と言った。真夏にとっても、安世は異父弟である。
「あなたも、元気そうですね」
「ええ、おかげさまで。―――主上におかれましては、いつも手厚い御配慮を頂き、有難く存じております」
神野はそれには答えず、
「出迎え、大儀だった」
と応じる。
物質的な面においては、神野は安殿に対して出来る限りの配慮をしている。だが、何の政治的な力もない、囚人同様の主人を頂く屋敷は、どこか活気がなく、さびれた空気が漂っていた。
その空気に感化されたかのように、真夏の印象もずいぶん変化している。弟の冬嗣が昔から年のわりには老成した、落ち着いた雰囲気であったのに対し、真夏はどちらかといえばきつい人柄だった記憶がある。だが髪に少し白いものが混じるようになった今、その物腰は穏やかなものになっていた。再遷都の事件によって失脚した彼は、今では無官(官職についていないこと)である。
真夏は一行を促した。
「ささやかですがあちらに膳など御用意させて頂いております。安殿さまもお待ちかねでいらっしゃいますので、どうぞこちらへ」
先に立って歩き始める。黙ったまま、一行は後に続いた。
真夏を先頭に、神野たちは正殿に足を踏み入れた。確かに、膳がしつらえられている。女官もかなりいるようだ。だがそれが目に入るか入らないかのうちに、部屋の奥から、無造作な声が飛んだ。
「よお、神野」
全員の目が、声が飛んできた方に向けられる。
「待ちかねたぞ」
安殿は、黄金の糸で刺繍がほどこされた、華やかな緋の衣を身につけていた。剃髪し、仏門に入ってはいるものの、その傍らには一人、妻らしき女が寄り添っている。
一瞬呆然となった一行の間を抜け、神野は静かに安殿の前に出た。安世は一瞬前に出ようとしたが、その動きを止め、逆に随人たちをその場に引き止める。
「中納言さま?」
「待て。しばし皆、動くな」
真夏もまた、動かなかった。
安殿に向かい、神野は恭しく立礼する。
「ご無沙汰を致しました」
「おう、本当に長い無沙汰だったな」
安殿は笑った。じっと神野を見つめ、
「―――元気そうじゃないか」
と笑った。
「太上帝も、御病気と伺っておりましたが………」
「年のせいさ。お前も高志も、薬だの医師だのよく寄越してくれてるよな」
安殿は言って、それから真夏に視線を移した。
「真夏」
「はい」
「部屋の用意は出来てるか」
「はい。調っております」
女官は一行に向かい、
「皆様は、どうぞこちらの座の方におつきくださいませ」
と促す。安殿は立ち上がりながら頷く。
「じゃ、太上帝と今上帝、煙たいのは消えるから、皆、好きなように楽しんでくれ。みんな突っ立ってないで、遠慮せずとっとと座って大いに食えばいい。一応、楽人もいるんだが、ちょっと支度に手間どってな。じきこっちに寄越せると思うんだが」
一行の中には、安殿のことを話で聞いた程度という人間も多い。今上帝を迎える態度のあまりといえばあまりのぞんざいさにあっけにとられている者もあったが、安世に促され、ぞろぞろと皆膳の前に腰を降ろした。ちょうどそこへ二十人ほどの楽人が現れる。
安殿は百子の肩を軽く叩いた。
「百子、後はお前もこっちの方を頼むよ」
「かしこまりました」
傍らの女性―――百子はしとやかに頷く。安殿と神野は、真夏について正殿を出た。




