音楽コンクールを目指して
史は既に大学二年生となった。
幼い頃から指導を受けた先生は教授に昇格した。
その教授によるドイツ音楽の練習も、すこぶる順調。
「史君、そろそろ教えることも少なくなって来た」
「そろそろ勝負の意味もある」
「太鼓判を押すから、いくつかコンクールに出て見ないか」
六月には、コンクールの募集要項を何枚も、史に提示した。
史にとっても断る理由はなかった。
幼い頃に両親から言われた「コンクールに出て入賞して有名になって」を実現できるからである。
ただ一つの不安は、コンクール曲のための練習時間が増え、春奈とのショパンの練習時間が減ることであった。
しかし、その不安も、すぐに打ち消された。
「春奈君との練習は、問題ないよ」
「いつかはショパンも君にと思っていたし」
「ただ君に教えなかったのは、まず君にしっかりとしたドイツ音楽の基本を植え付けたかったからさ」
「コンクールのための練習もし過ぎてはいけない」
「史君のためにも、春奈君にショパンを教わりなさい」
「何しろ、春奈君のショパンは・・・」
教授の言葉は、そこで切れた。
史もあえて、聞こうとも思わなかった。
史にとって春奈との練習が続けられる、そのことによる安心で心が一杯であったから。
「うん、大変だけれど、頑張ってね」
「史君なら、大丈夫」
「きっとどこかの賞が取れる」
「あの、相当厳しい教授が、そんなにたくさんの募集要項を見せたなんて、よほど期待されているのね」
「私もうれしいなあ・・・」
春奈は本当にうれしそうに笑った。
その後、教授による「コンクールのための練習」が始まった。
本当に「全神経の張りつめ」が要求される練習になった。
教授の語調は穏やかながら、要求は極めて厳しい。
少しでもリズムや音が狂うと、全て最初からやり直しを求められる。
今までは、そこまでの完璧さを求めて練習をやって来なかった。
その自分自身に対する情けなさまで加わって、史の心身を極限にまで追い込む日が続いた。
それでも、教授は定時間できっちりと練習を終えた。
史自身が、不十分で納得が出来ない練習の日でも定時間に終わる。
「コンクールでも、コンサート、リサイタルでも同じことさ」
「明日があるからと言って、いい加減なことは出来ないだろう」
「今、限られた時間で、精一杯弾けるだけ弾く」
「それでいい、春奈君のところに行ってくれ」
「春奈君も首を長くして待っている」
「ほら、それも約束だ」
練習が終わると、春奈のところに追い立てられてしまう。
「あはは」
「先生、そんなこと言ったの?」
「私が首を長くして待っているなんて?」
「史君、どう思う?」
春奈は、いたずらっぽい顔で史を見る。
「そんなこと聞かれても・・・」
史は、顔が真っ赤になって答えられない。
「首を長くして待っていてくれれば、本当にうれしい」
「今の自分にとって、春奈さんがいなかったら、どれほど寂しくなるのか」
「いや、両親があんな形で命を落として」
「春奈さんがいてくれたから、ここまで頑張って来た」
「春奈さんが喜ぶ顔が見たくて、ずっと・・・」
本当は春奈の笑顔を見たくて、首を長くしているのは史のほう。
しかし、そんなことを、引っ込み思案の史が言えるわけがない。
史は顔を赤くしながら、春奈とショパンの練習に励むのであった。
少しずつ、一つ目のコンクールの日が近づいて来た。
教授による練習も厳しさを極めた。
何しろ、同じテンポ、同じリズム、同じアクセントの演奏を徹底して求められる。
少しでも崩れれば、また最初からやり直し。
「音楽も・・・まあ、仕事でも同じかもしれないが」
「理屈よりも、身体で覚える場合がある」
「いや、あると言うよりは、それがほとんどだろう」
「何回もやり直して、史君も無駄だと思うかもしれない」
「しかし、今のこの練習は、将来に渡って、君の演奏家としての支えに必ずなる」
「苦しいだろうけれど、続けよう」
教授ならではの、穏やかながら厳しい指導が続く。
何より小学生以来、指導されている。
史にとっては、信じる以外に道がない。
「うん、そうね、先生らしいな」
「でも、先生のことを信じて」
「そして春奈のことを信じて・・・」
「最後に自分自身を信じて、思いっきりコンクールで弾けてね」
春奈は優しく微笑んだ。
その微笑みで、少しずつ緊張して来た心が、幾分か楽になった。




