ショパンのレッスン
史は心にゆっくりと言い聞かせた。
とにかく落ち着いて、楽譜に忠実に弾くことしか今の自分には出来ない。
ショパンの雨だれが、そんな付け焼刃では弾けないことは、史自身が自覚している。
しかし、それ以外に弾く方法が史にはなかった。
「うん・・・」
「固いね」
「史君には、まだまだかな」
「指は楽譜の通りに動いているけれどね」
「でもね、まだまだ・・・」
必死の思いでショパンを弾き終えた史に、「予想通り」の春奈の言葉がかけられた。
「・・・はい・・・」
史にとっても、この言葉は、弾く前からわかっている。
史自身が弾いている最中に、あまりのニュアンスの無さに泣き出したくなった程なのだから。
弾いた後も、本当は春奈の言葉など聞きたくなかった。
万が一褒められれば、単なる「お世辞」
問題点を指摘されれば、「ほど遠いショパンへの道」を実感することになる。
史が弾いた後、春奈は再び同じ曲を弾いた。
史の心の中に、「自分への落胆」と言う言葉が大きくなった。
高校二年生から春奈のショパンを聴いていたはずなのに、未だに及びもつかない演奏しかできない。
史は春奈がショパンを弾いている間、全く顔をあげることが出来なかった。
「史君・・・」
春奈は、あまりにも、しょんぼりと顔を下に向けている史が気になった。
「しょうがないよ」
「ずっと先生の指導で、弾いたことなかったんだから」
「気を落としちゃだめ」
春奈は史の肩を、トントンとたたいた。
「はい・・・」
ようやく史は顔をあげた。
しかし、どう応えていいのかわからない。
「史君のこと、これからも」
春奈は恥ずかしそうな顔になった。
少し赤い顔をしている。
「・・・え?」
史には、春奈の赤い顔の理由がわからない。
少なくとも、固い演奏をして恥ずかしいのは史のほうだ。
「あのね、史君のこと、ずっと見ていたいの」
春奈は、突然、史の予想外のことを言った。
しかし、微笑んでいない。
春奈は、真面目な顔をしている。
「・・・あ・・・はい・・・」
「ありがとうございます」
史は必死に、お礼を言った。
お礼の言葉も月並みであったが、それ以外に思いつく言葉がなかった。
「うん・・・」
「まだ・・・いろいろ・・・」
「言えないこともあるけれどね」
春奈の顔は赤く、真顔。
「はい・・・」
史も真顔になった。
「だから、毎日、ここに来て」
「一緒にショパン練習しよう」
「先生は大丈夫だよ」
「ここでショパンを弾いても、先生の授業でしっかりドイツ音楽を弾ければ先生も安心するから」
春奈は、史の手を握った。
「はい」
春奈の手は、熱かった。
史は、春奈の手を感じた途端に全身が震えた。
春奈が、本当に美しく見えた。
「わかりました」
「毎日、ここに来ます」
「よろしくお願いします」
「教えてください」
史は頭を下げた。
「うん・・・よかった」
「これで安心した」
春奈の顔に笑顔が戻った。
その日は、春奈と一緒に帰った。
住んでいる場所が違うので、駅は同じであるが、お互いが別になる。
「いつかは・・・」
春奈が不思議なことをまた言った。
「え?」
史は聞き返したが、春奈は笑いながら姿を消した。
その後も「いつか」の意味を春奈はどうしても教えてくれなかった。
そして、その「いつか」が理解できるまでには、かなりの時間が必要となった。




